「白霜外界では歩くことすら難しい」
白霜外界へ向かう朝は、あまり景気のいいものではなかった。
空は薄暗い。
風は弱い。
なのに寒い。
雪は降っていないのに、これから先の面倒だけは空気の中にしっかり積もっている気がする。
黒鴉城ネヴァーグレイヴの境界転移台に立ちながら、クロウはひそかに思っていた。
帰りたい。
もちろんまだ出発前だ。
帰るも何もない。
だが気持ちとしてはかなり帰りたい。
(いや、分かっている)
(行くしかないのは分かっている)
(分かっているが、だからといって行きたいわけではないんだ)
このへんの気持ちは、意外と両立するのだ。
補助宮の記録を見た。
別の王の痕跡も見つかった。
他国が先に触るとまずい。
自分でも確認する必要がある。
ここまでは理屈だ。
その理屈は、たぶんかなり正しい。
だが正しい理屈が、面倒な遠征を少しでも快適にしてくれるわけではない。
そこが現実の嫌なところでもある。
転移台の周囲には、朝の薄い光の中で準備を終えた者たちが静かに揃っていた。
術式灯の残光を受けて、黒石の床に淡い線が走る。
吐く息は白い。
誰も落ち着きを崩していない。
だが、城全体が“今日は普通の外勤ではない”と知っている時の静けさが、空気の底へきっちり沈んでいた。
「陛下」
ヴェルミリアが静かに声をかける。
「出立準備、整っております」
「ああ」
クロウは短く返した。
いつも通り、余計な感情は顔へ出さない。
最近、この“顔へ出さない”がだいぶ上達してきていて、自分でも少し嫌だった。
前ならもう少し露骨に面倒そうな顔をしていた気がする。
今は、内心で「嫌だな」と思っていても、外に見えるのは“落ち着いている王”の顔になる。
ありがたいのか、良くないのか、たまに分からない。
揃っているのは四天王全員だった。
ヴェルミリア、ガルド、セラフィナ、バルザード。
加えて、黒翼親衛隊から選抜された少数精鋭。
影鴉衆の観測要員。
死書官群の記録補助。
どれも多くはない。
多くはないが、白霜外界相手にこれ以上増やしても逆に邪魔だろうという、ひどく正しい人数だった。
正しい。
正しいのだが、正しい人数で危ない場所へ行くのは、別に気分のいいものではない。
「護衛は第三編成」
ガルドが低く告げる。
「陛下を軸に半径を維持します。切り離し時の退路標も三層設置済みです」
「観測は外部・本人・機材の三重」
ヴェルミリアが続ける。
「記録不一致が出た場合は、最も浅い層から順に照合いたします」
「影鴉衆は先行せず、陛下の位相圏内で観測補助へ移ります」
セラフィナの声はやわらかい。
内容はかなり真面目だ。
「試作観測機は最低限に絞りました!」
バルザードだけ少し元気だった。
最低限。
その言葉にやや不安は残るが、今日はもうあまりそこを掘り下げたくない。
たぶん聞くと増えるからだ。
「行くぞ」
クロウが言う。
すると全員が一斉に頭を垂れた。
「「「御意」」」
仰々しい。
やけに大袈裟だが、もう慣れるしかない。
---
白霜外界の手前までは、まだ世界の形をしていた。
雪原。
低い尾根。
凍った岩肌。
遠くに見える白い霞。
ただ寒いだけなら、まだ対処のしようがある。
道が細いだけなら、慎重に進めばいい。
風が強いだけなら、隊列を詰めれば済む。
問題は、その“まだ世界の形をしていた”が、ある地点を越えた瞬間に怪しくなることだった。
最初におかしいと気づいたのは、足音だった。
雪を踏む音が、一拍だけ遅れて返ってくる。
後ろで誰かが踏んだ音と、自分の足音の順番が曖昧になる。
距離の問題ではない。
耳が悪くなったわけでもない。
ただ、“今ここで起きた”という感覚だけが微妙にずれる。
「…始まったな」
クロウが低く言うと、ヴェルミリアがすぐに応じた。
「はい。境界に入っています」
始まった。
まったく嬉しくない開始だった。
(嫌だな)
(本当に嫌だな)
(まだ何も起きていないのに、もう帰りたい)
だが外ではそんなことは言えない。
言った瞬間、たぶん“白霜外界の危険性を陛下が即座に見抜かれた”と解釈される。
いや、解釈としては半分正しいのだが、本人の気持ちはかなり率直に“うわ、嫌だ”である。
バルザードが義手の先で小さな観測盤を弾いた。
薄い光が揺れ、盤面の線が不規則に歪む。
「方位補助、外れ始めています。記録針の進行も揃いません」
「簡単に言え」
クロウが言う。
「普通の地図が信用できなくなってきました!」
分かりやすくなったが、内容は全然嬉しくない。
「隊列を詰めろ」
クロウは短く命じる。
「目で見える距離から離れるな」
「承知いたしました」
ガルドがすぐに動き、親衛隊の位置が少しだけ締まる。
これは普通に必要なことだった。
白霜外界みたいな場所で“多分このくらいで平気だろう”は、だいたい平気ではない。
そして今のところ、クロウにあるのは経験ではなく嫌な予感だけだ。
だが、この手の場所では嫌な予感の方が意外と信用できる。
---
さらに進む。
進んでいる、はずである。
少なくとも足は前に出ている。
周囲の景色も少しずつ変わっている。
だが、変わり方が変だ。
右手にあった細い岩稜が、気づけば左の奥に見える。
先頭を歩いていた影鴉衆の肩が、一瞬だけ妙に近く見えたと思ったら、次の瞬間にはちゃんと前方へ戻っている。
雪面に残る足跡も、自分たちのものに見えるのに向きが少しだけ合わない。
景色が裏切る。
だが露骨には裏切らない。
“一目でおかしい”のではなく、“たしかに見たはずなのに今は少し違う”という形で、認識の土台をじわじわ削ってくる。
それが嫌だった。
吹雪なら分かる。
幻術なら警戒できる。
だが白霜外界は、もっといやらしい。
自分が何を信用してよいかを、少しずつ減らしてくる。
「…これは本当に、普通に歩くことすら難しいな」
クロウが言う。
今のはかなり本音だった。
するとセラフィナが静かに微笑む。
「はい。白霜外界は、歩む者の前提から崩しに来ております」
言い方がいちいち怖い。
だが、言っていることはたぶん正しい。
「影だけ見ろ」
クロウは少し考えてから言った。
「景色全部を信じるな。まず人の位置と、足元だけを合わせろ」
これは理屈というより反射に近かった。
景色まで全部見ようとすると、どこかで頭が引っ張られる感じがする。
なら、見る範囲を狭めるしかない。
ヴェルミリアが即座にその意図を汲んだ。
「了解しました。環境全体の認識を捨て、人と足場の一致を優先します」
そんな立派な言い換えをされると少し困る。
いや、意味はその通りなのだが。
(いや、単に景色まで気にすると酔いそうなんだが)
(人間、そんなに一度にたくさん信用できないんだよ)
白霜外界に対する信頼度は、今のところかなり低い。
だがこの方針は効果があったらしい。
隊の乱れが少しだけ収まる。少なくとも“前を歩く者がどこにいるか”だけは揃えやすくなった。
「陛下」
ガルドが低く言う。
「歩調が安定しました」
「ならそのまま行け」
クロウは頷く。
(よかった)
(普通に助かった)
ここで“やはり陛下は白霜外界の本質を”とか言われると胃が痛くなるところだったが、ガルドは余計なことを言わない。そういうところは本当に助かる。
---
白霜外界の中では、距離感も狂う。
しばらく歩いたはずなのに、振り返ると出発地点の目印がまだ近く見える。
逆に、遠くに見えていた白い尾根が、気づけばすぐ脇にある。
空間が曲がっているのか。
いや、曲がっているという表現も少し違う。
道そのものが変わるのではなく、“道をどう認識したか”の方が後からずれていく感じだった。
バルザードの観測盤は三つとも違う値を出し始めていた。
「一号機は進行距離八百。二号機は三百。三号機は…おや、マイナスですね」
「マイナスとは何だ」
クロウが思わず聞くと、バルザードは本当に少し困ったような顔をした。
「理論上は“基点に近づいている”判定です」
「進んでいるのに?」
「はい」
「嫌だな」
また出た。
だが今のは許してほしい。
進んでいるのに基点へ近づいている判定が出る場所が楽しい人間など、たぶん一人もいない。
「陛下がここまで率直に危険性を示されるのなら」
ヴェルミリアが静かに言う。
「距離概念そのものをいったん切り離すべきですね」
いや、率直に危険性を示しているのはそうなのだが、“うわ嫌だ”もかなり混ざっている。そこは分けてほしい。
だが提案自体はもっともだった。
「距離は捨てろ」
クロウが言う。
「進んだかどうかは、記録ではなく変化で見ろ」
これもかなり普通の判断だと思う。
観測盤がバラバラなら、数字そのものをしばらく信用しない方がいい。
バルザードが感心したように目を見開いた。
「なるほど。量ではなく位相変化そのものを基準に置く、と」
言い方がまたすごい。
たぶん意味は同じだ。たぶん。
(いや、本当に“分からない数字を見続けると気持ち悪い”だけなんだがな…)
最近ずっとこんな感じだ。
心の中と外の言葉の落差が、少しずつ自分でも面白くなくなってきた。
いや、面白いというか、疲れるのだが。
---
白霜外界へ入ってどれだけ経ったかは、もはや誰にもはっきり分からなかった。
術式時計は動いている。
だが、その動きがこの場所の時間と本当に一致しているかは怪しい。
日差しも薄く、雲も重く、空を見てもあまり参考にならない。
時間まで信用できなくなると、人は思った以上に消耗する。
どれくらい歩いたか。
どれくらい疲れたか。
そろそろ休むべきか。
そういう普通なら身体の奥で自然に測れるものまで、じわじわ輪郭が曖昧になるからだ。
だからこそ、隊列の足が少し鈍った瞬間にクロウは止まった。
「休め」
短く言う。
親衛隊が一斉に足を止める。
影鴉衆もその場で観測具を押さえ、死書官群が記録層の照合へ入る。
ヴェルミリアが近づいた。
「陛下、お疲れですか」
気遣いだ。
そして、たぶん少しは顔に出ていたのだろう。
「少しな」
クロウは正直に言った。
「景色が信用できないのは、思ったより疲れる」
「そうでしょう」
彼女はすぐに頷いた。
「人は“見えているものを疑い続ける”ことにあまり向いておりません」
それは慰めではなく事実だった。
だから少しだけ救われる。
「順調ではあります」
ヴェルミリアが続ける。
「ですが、疲労もまた白霜外界では判断を狂わせます。いま休むのは正しいかと」
正しい。
その言い方をされると、単に疲れたから止まっただけではない感じになる。
いや、結果としてそうなのかもしれないが、最初の気持ちはかなり素朴だ。
(いや、本当にちょっと疲れたんだが)
(この“休む”ですら何かの先読みみたいになるの、どうなんだろうな)
どうもこうもない。
たぶん今さらだ。
そこへセラフィナが滑るように近づいてきた。
「陛下」
「どうした」
「前方の白が、少しだけ薄くなっています」
「薄くだと?」
「はい。景色というより、“隠し方”が浅くなっている印象です」
嫌な報告だった。
そして興味を引く報告でもある。
白霜外界は、ここまでずっと“曖昧”で済ませてきた。
それが薄くなるということは、何か別のものが向こうにある可能性が高い。
クロウは立ち上がり、セラフィナが示した方を見る。
すぐには分からない。
ただの白だ。
曇った空の下に続く、静かで広い白。
だが数拍見ているうちに、たしかに違和感が出てくる。
白が均一ではない。
向こう側のある一点だけ、景色の奥行きが妙に固い。
白の向こうに、何かが“在る”という感じだけがある。
色ではない。
形でもない。
ただ、その一点だけが景色として溶けきっていない。
まるで、白の向こうに何か黒い輪郭だけを持ったものが、ひどく遠慮がちに立っているような。
「…何かあるな」
思わず言う。
その瞬間、影鴉衆の一人が小さく息を呑んだ。
「出ました」
低い声だった。
「門影です」
門影。
補助宮の記録。
商盟の古い帳面。
白霜外界の帰還者たちが残した“塔のようでもあり門のようでもある黒い影”。
それが、いま本当に見えている。
クロウは目を細めた。
たしかに塔にも見える。
だが門にも見える。
奇妙なのは、その形そのものが定まらないことだった。
こちらが見ている間にも、高さと幅の意味が少しずつずれていく。
近いのか遠いのかも分からない。
ただ、あそこに“ある”ことだけははっきりしている。
(うわあ、出たか)
(いや、出るだろうとは思っていたが)
(思っていたより嫌だな、これ)
期待はしていない。
していないが、心構えと実物の嫌さは別物だ。
「追うな」
クロウは即座に言った。
その声に、周囲の動きが止まる。
「位置を見ろ。影そのものじゃない。“どこで見えるか”を押さえろ」
飛びつくとろくなことにならない。
それだけは、もう本能のように分かる。
ヴェルミリアがすぐに動く。
「観測点固定。三方向から同期を取ります」
バルザードは観測盤を弾いた。
「出現条件の方を拾います!」
ガルドは親衛隊を半円状に開かせる。
「前へ出すな。視界だけ維持」
セラフィナは影鴉衆へ静かに指示を飛ばした。
「見失うな。だが追うな」
見事なくらい統制が取れている。
ありがたい。
ありがたいが、少しだけ怖い。
自分が“追うな”と言っただけで、皆が即座に最適な観測態勢へ移るのだから。
(いや、便利なんだよな)
(便利なんだが、そのぶん一言の責任が重いんだよ…)
今さらではあるが、改めて思う。
---
しばらくの観測のあと、白の向こうの門影は、やはりただの幻ではないと分かった。
三方向から見える。
ただし位置の一致はしない。
誰がどこに立つかで、少しずつ見え方が変わる。
それでも、“何か黒いものが白霜外界の向こうに立っている”という事実だけは揃う。
そしてもう一つ。
「陛下」
バルザードが珍しく少し低い声で言った。
「何だ」
「門影が、陛下の視線方向に最も強く固定されています」
嫌な予想通りだった。
クロウはあまり驚かなかった。
驚かなかったが、嬉しくもない。
「つまり」
ヴェルミリアが静かに言う。
「白霜外界の向こう側は、陛下を基準に姿を決め始めている可能性があります」
それはかなり大きい話だ。
だが本人としては、もう少し簡単に言いたい。
(要するに、私が行くと話が早く進むってことだろう)
(いや、全然ありがたくないな)
面倒な案件ほど、なぜか自分が鍵になる。
最近ずっとそうだ。
クロウは門影を見つめたまま、ゆっくり息を吐いた。
いま追うべきではない。
だが、放ってもおけない。
その中間を取るしかない。
「今日はここまでだ」
静かに言う。
その一言に、全員が顔を向ける。
「追跡はしない。門影が見えた条件と、ここまでの位相変動を持ち帰る」
これが一番ましだ。
いまここで欲を出すと、たぶん白霜外界の方が先に笑う。
「承知いたしました」
ヴェルミリアが頭を下げる。
「では、戻りながら観測を逆順で照合いたします」
「御意」
ガルドも頷いた。
「退路を維持したまま離脱を」
「影鴉衆は最後まで門影の消失条件を拾います」
セラフィナも続く。
バルザードは少しだけ名残惜しそうだったが、ちゃんと口を閉じている。
それでいい。今はそれでいい。
(よし)
(今日は無事に帰る)
(まずはそこだ)
(本当にそこだ)
目標が低いように見えるかもしれない。
だが、白霜外界相手にはそれで十分すぎるほど現実的だった。
隊がゆっくりと反転する。
白の向こうの門影は、なおもそこに立っている。
追えば消える気がした。
追わなければ、また次に見える気もした。
そういう“こちらに順番を強いる感じ”が、ひどく気に入らない。
(…絶対に面倒な相手だ)
(でも、こっちも今さら引けないんだよな)
クロウは内心でだけそう呟き、白霜外界の出口へ向けて歩き出した。
帰り道がちゃんと帰り道として機能していることを、少し祈るような気持ちで。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!!
もし作品を気に入っていただけましたら、
下部の☆☆☆☆☆より評価をいただけると大変励みになります。
★★★★★を入れていただけると作者のやる気が大幅に上がります(^^)/
また、ブックマークや感想も今後の執筆の支えになります。
引き続きよろしくお願いいたします。




