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配下からの信頼が重すぎる  作者: きなこもち
第3章 『魔導王国と神話の遺産』

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「冥匠の扉」

 


 しばらくのあいだ、誰も口を開かなかった。


 風除け幕の中へ入ってきた男は、どう見ても場違いだった。


 敵地へ単独で現れたという意味でも。

 そのくせ妙に肩の力が抜けているという意味でも。

 そして何より、今しがた自分たちが議論していた“補助宮の扉”について、最初から話に入るつもりで立っているという意味でも。


 黒翼庭第四席、《冥匠》バルザード。


 その名だけなら、すでに各国へ断片的な報告が回っていた。

 兵装開発。

 城塞管理。

 封印機構。

 境界調整。

 危険。

 有能。

 倫理観に少し問題あり。

 どれも定性的な記述ばかりだったが、目の前に現れた実物は、そうした報告書の行間より、よほど面倒そうに見えた。


 細身。

 黒い技師服。

 片眼鏡。

 片腕は骨と金属を混ぜたような義手。

 そして、こちらが剣を抜くべきかどうか迷う程度には、人間らしく礼儀正しい。


 それが面倒だった。


 露骨な怪物なら、まだ扱いやすい。

 露骨な敵意なら、なおさら分かりやすい。

 だがこの男は違う。

 会話の席へ自然に座れる顔をしていて、その実、会話そのものを一段危険なものへ変えてしまう種類の人間だった。


「…笑えませんね」


 最初に口を開いたのは、リセリアだった。


 声は低い。

 だが、術式を起動する寸前の冷たさがあった。


 バルザードは少しだけ首を傾げる。


「おや、私は割と笑っておりますが」


「そういう意味ではありません」


「でしょうねえ」


 軽い。

 軽いが、周囲の張りつめた空気に気づいていないわけではない。

 気づいた上で、わずかに崩しているのだ。


 それは余裕でもあるし、警戒を乱すための手つきでもあった。


 オルフェンが前へ出る。


「筆頭賢者のオルフェンだ」


 あえて自分から名乗った。

 相手が四天王なら、こちらも誰が判断役かを先に示す必要がある。


「ようこそ、とは言いません」


「ええ、もちろん」


 バルザードはにこやかに頷いた。


「敵地ですから」


 その一言で、リセリアは妙に背筋が冷えるのを感じた。


 敵地。


 この男は、ここをそう認識している。

 つまり、単なる監視や会話のつもりでは来ていない。

 必要なら即座に“黒翼庭に対する敵性接触”として処理する準備があるということだ。


 その割に楽しそうなのが、本当に嫌だった。


「何の用ですか?」


 リセリアが改めて問う。


 バルザードは義手の指先で弄んでいた結晶片を、くるりとひと回しした。


「先ほど申し上げた通りです。補助宮の扉について、皆様がどの程度まで分かっておられるか、少々興味がありまして」


「それをあなたが教えてくれると?」


 オルフェンの言い方は静かだ。

 だが、その静けさの奥には明確な警戒がある。


「全部は無理ですねえ」


 バルザードはあっさり言う。


「ただ、皆様が“そこそこ良い線まで来ておられる”のは事実です。ですので、変なことをされる前に、最低限の認識は共有しておこうかと」


 その物言いに、カイルが小さく息をついた。


 商人の勘として分かる。

 この男は本気だ。

 そして本気だからこそ、いまはまだこちらを殺す気もない。


 それが一番扱いにくい。


「変なこと、とは」


 ザイードが初めて口を開いた。


 目が妙にぎらついている。

 怖がっていないわけではない。

 ただ、この手の“本物の当事者”が目の前に現れると、学者としての興味が先に出るのだろう。


 バルザードは、その反応を少しだけ好ましそうに見た。


「良い質問です」


 やめてほしい。

 会話が成立するな。


「まず前提ですが、皆様が補助宮と呼んでおられるもの。名称としては悪くありません」


 そこまで言って、彼は幕の中央へ一歩入った。


 護衛が半歩前へ出る。

 リセリアの指先にもまた術式が集まりかける。

 だがオルフェンが片手で止めた。


「続けてください」


 バルザードがにこりと笑う。


「ありがとうございます。話が早くて助かります」


 それから、持っていた結晶片を空中へ放る。


 結晶片はふわりと止まり、薄い立体図を投影した。


 白線谷境界。

 崩落地形。

 旧巡礼路。

 そして、そのさらに下に隠れるように描かれた複数層構造。


 使節側の全員が目を細める。


 これは、地図ではない。

 内部構造を知っている者の図だ。


 しかもただの想像図ではない。

 線の引き方に、実物を前提とした確信がある。

 空想ではなく、既知の施設を説明する図面の呼吸だった。


「補助宮は、正確には単一施設ではありません」


 バルザードが言う。


「本城に従属する監視補助層、封印維持層、記録保管層、転移補助層。そのうち幾つかが接続され、外から見れば一塊の施設として振る舞う場合があります」


 リセリアの視線が鋭くなる。


「複合施設」


「ええ」


 バルザードは嬉しそうだった。


「やはり話が通じる方は良いですねえ」


「褒められている気がしません」


「実際、半分くらいは危険視しております」


 さらっと言うな。


 だが、その危険視の中に妙な敬意も混ざっているのが余計に厄介だった。


「つまり」


 オルフェンが整理する。


「我々が見つけようとしているのは、扉一枚のついた小規模施設ではない」


「はい」


「王権支援系の複合中継拠点、という理解でよろしいかと」


「概ね正しいです」


 バルザードは頷く。


「ですので、“鍵を差し込めば開く”のような話ではありません。認証子はあくまで境界層へ触れるための補助信号に過ぎない」


 カイルがそこで肩をすくめる。


「やはり、それだけでは何にもならない代物だったか」


「いえいえ、そんなことは」


 バルザードは笑う。


「何にもならないものに、ここまで皆様が集まりませんよ」


 それも本当だ。


 認証子単独では開かない。

 だが、認証子がなければ境界層ですら“何もない地形”として閉じ続ける。

 つまり、高い意味はある。


「主認証が必要、という理解は」


 オルフェンが言う。


「正しいか」


「正しいです」


 即答だった。


 その一言で、場の空気がまた少し変わる。


 やはりそうなのだ。

 主認証なしには、本当の意味では開かない。


「なら」


 リセリアが問う。


「貴方が今ここへ来ているのは、何故です」


「簡単ですよ」


 バルザードは笑みを薄くした。


「皆様が、主認証なしに“閉じすぎる”前に止めるためです」


 その言い方に、リセリアはほんの少しだけ寒気を覚えた。


 閉じすぎる。

 つまり、誤った接触によって補助宮そのものが自己封鎖へ入ることを、この男はかなり現実的に恐れている。


「閉じすぎるとどうなる」


 ザイードの問いは、もう半ば学者のそれだった。


「本城から切れます」


 バルザードが答える。


「切れる、というか、切ります。施設側が“触れてはならぬ者が続いた”と判断した場合、記録層ごと沈黙します。壊れはしない。ですが、二度と開かぬ深層封鎖に近い形になります」


 それは、魔導王国側にとっても最悪だった。


 知りたい。

 だが、知りたいからといって雑に触れれば、知る機会そのものが消える。


 オルフェンは数拍だけ黙ってから言った。


「であればなおさら、こちら単独では手を出せませんね」


「ええ」


 バルザードはあっさり認める。


「ですので、皆様が現時点で賢明なのは事実です。本城へ喧嘩を売らず、まず補助宮境界を監視しようとした。そこまではかなり良いことです」


 かなり良い。

 敵にそう評価されるのは複雑だったが、少なくとも交渉の余地がある形で見られているのは分かる。


「ですが」


 バルザードの声が、少しだけ低くなる。


「認証子の断片を集め、本城の反応を無視して先に扉をこじる気なら、そこから先は“かなり悪い”行いです」


 カイルが心の中で、これは完全に釘を刺しに来たなと理解する。


 黒翼庭は今、こちらを皆殺しにするつもりではない。

 だが、線を越えるなら容赦なく切ると言っている。


 しかも、その言い方がやけに理性的だ。


 ---


 会話が一段進んだところで、バルザードは不意に足元の術式盤を見た。


 いや、盤ではない。

 地面そのものを見たのだ。


「…ああ」


 彼が小さく言う。


「やはり」


 その一言に、空気が変わる。


「何ですか?」


 オルフェンが問う。


 バルザードは少しだけ困ったように笑った。


「皆様、補助宮候補地へ近づきすぎましたね」


 その瞬間、幕の外で低い音がした。


 鐘のようでもあり、石が深く鳴るようでもある。

 風ではない。

 大地そのものが、どこか下の方で薄く共鳴したような音だった。


 全員が息を止める。


「何をした」


 護衛責任者が剣へ手をかける。


「私は何も」


 バルザードは両手を軽く開く。


「皆様が、です」


 幕の外へ飛び出す者はいなかった。

 だが全員の意識は一気に外へ向く。


 地面が、ほんの少しだけ震えている。


 崩落ではない。

 地鳴りとも違う。

 もっと規則的な、何かの機構が長い眠りから微かに軋みながら目を開けるような振動。


 ザイードが呟く。


「まさか…」


「ええ」


 バルザードの目が光る。


「境界認証が始まりました」


 リセリアは即座に理解する。


 この場にいるのが、魔導王国の使節だからではない。

 商盟の認証子断片、古地誌の推定、旧巡礼路の接近、そして黒翼庭の当人がここへ現れた。

 複数条件が重なった結果、補助宮側が“監視対象”としてこちらを認識し始めたのだ。


 つまり、扉の外までは来た。


「外へ出るな」


 オルフェンがまず言う。


 その判断は早かった。


「まだ全員――」


 護衛責任者が反射的に反論しかける。


「出るな」


 今度はもっと低く切る。


 リセリアはその判断の意味がすぐに分かった。

 こういう時、慌てて外へ飛び出すのは一番危ない。

 まずは現象の方向を掴まなければならない。


 だが、外の変化はそれを待ってくれなかった。


 幕越しに見える谷筋の暗がりが、少しずつ揺らいでいる。

 雪と岩しかないはずの崩落地形の一部が、霧のように薄くなり、その下から直線が現れ始めたのだ。


 人の手による線だ。

 しかも、今の時代の粗い石組みではない。もっと古い、もっと緻密な構造。


 カイルが思わず低く口笛を飲み込みかける。


「本当にあったか」


 商人としての驚きだった。

 値札のついていた仮説が、今この場で現実へ変わっている。


「いやあ」


 バルザードが、かなり嬉しそうに言った。


「やはり良いですねえ。記録層寄りです」


「喜ぶな」


 オルフェンとリセリアの声が、ほぼ同時に飛ぶ。


 バルザードは少しだけ肩をすくめた。


「失礼しました。ですが技術者としては感動する局面でして」


 知るか。


 だが、その言い方の軽さに反して、彼の目は鋭い。

 ただ見惚れているわけではない。何が起きているかを正確に読んでいる。


「説明を」


 オルフェンが短く言う。


「現在、補助宮境界第一層が“監視対象あり”と判断し、擬装地形の一部を解いております」


 バルザードは外の地形を見たまま答える。


「まだ扉ではありません。あくまで“そこに構造がある”と見せるだけの段階です」


「認証は?」


「始まっています。ですが開きません」


「何故」


 リセリアが問う。


 バルザードはようやく、少しだけこちらを振り向いた。


「主がまだ来ておられないからです」


 その一言は、ひどく静かだった。


 だが、それだけで十分だった。


 やはり、補助宮は黒翼庭のものなのだ。

 少なくとも、境界認証系はそう認識している。


「つまり」


 ザイードが乾いた声で言う。


「我々は今、扉の“存在確認”だけを許されたと」


「ええ」


 バルザードは頷く。


「陛下はお優しいので」


 その言い方に、リセリアが眉をひそめる。


「優しい、ですって?」


「この段階で皆様を“まだ監視者”として扱っておられるという意味です」


 軽い声なのに、内容は重い。


 もしここでこちらが一歩でも踏み違えれば、監視者ではなく侵入者になる。

 そういう線引きがもう敷かれているのだ。


 ---


 そして、その線引きが形になるのは次の瞬間だった。


 谷筋の奥、揺らいでいた崩落地形がさらに薄くなり、その下から半ば埋もれた巨大な円弧構造が現れた。


 門だ。


 完全な姿ではない。

 雪と岩にかなり覆われている。

 だがそれでも分かる。これは自然の石壁ではない。


 黒い金属と灰白の鉱石が層を成し、円弧の縁には細かい文字列が走っている。

 文字というより、認証式の骨格そのものが装飾として露出しているような構造だ。


 門の前には、道がない。

 ただ平らな石面があるだけ。

 そこへ行き着くには、いままで崩落だと思われていた斜面を正確に辿らなければならない。


「美しい」


 ザイードが、ほとんど息だけで言った。


 リセリアも同じ気持ちだった。

 怖い。

 だが、それ以上に、失われたはずの技術と王権の秩序が、いま目の前で実在になっていることへの衝撃が大きい。


 オルフェンだけは、なお冷静に距離を測っていた。


「まだだ」


 自分に言い聞かせるような声で言う。


「まだ入れぬ。見えたからといって、行ってよいとは限らぬ」


「正しいご判断です」


 バルザードが感心したように言う。


「皆様のそういうところは、わりと嫌いではありません」


「光栄ですね」


 オルフェンの返答はまったく光栄そうではなかった。


 その時、門の縁を走っていた文字列が、ゆっくりと光を帯び始める。


 淡い。

 だが確かだ。


 そしてその光は一巡したところで、突然止まった。


「…止まった?」


 カイルが言う。


 バルザードは義手で顎をさすりながら答える。


「ええ。第一封印が“境界監視者あり”までは進み、そこで保留に入りました」


「主認証待ちか」


 オルフェンが言う。


「はい」


 バルザードは頷く。


「ただし」


 少しだけ笑う。


「ここで終わりではありません」


 嫌な予感がした。


「どういう意味です」


 リセリアが問う。


 バルザードは、今度こそ本当に楽しそうに言った。


「皆様がここまで来てしまったので、内部側が“再構成”を始めました」


 その一言の直後、谷全体がひときわ深く鳴った。


 門の奥だ。

 まだ開いてもいない、その向こう側で。


 石が動く音。

 遠い何かが組み変わる音。

 閉じた迷宮が、何百年、あるいはもっと長い眠りから“現在の挑戦者”に合わせて形を選び始める音。


 ザイードの顔色が変わる。


「内部迷宮…!」


「ええ」


 バルザードは頷く。


「補助宮第一封印、半覚醒。監視者群の構成、術式傾向、意図推定、侵入可能性評価――それらに応じて内部路が再編成されます」


「そんなもの」


 リセリアが絶句しかける。


「今の時代に再現できるわけが」


「だから補助宮なのです」


 バルザードの声だけが、妙に嬉しそうだった。


 リセリアはそこで気づく。


 この男は、補助宮が開くこと自体を喜んでいるのではない。

 補助宮が今なお“設計通りに生きている”ことを喜んでいるのだ。


 技術者として。

 陛下の時代の遺産が、まだ死んでいないことを。


「つまり」


 オルフェンが低く言う。


「もう後戻りはできぬ、と」


「完全には」


 バルザードが答える。


「皆様が退けば、再び浅く閉じます。ですが一度始まった再構成は、“次に誰が来るか”も見るようになります」


 カイルが小さく息を吐く。


「値段、跳ね上がりますね」


「商人らしい感想で助かります」


 バルザードがにこやかに返す。


「私も同感です」


 そういう意味じゃない、と誰かが言う前に、オルフェンが先に切った。


「本日はここで止まる」


 全員の視線が向く。


「扉の存在確認。境界反応確認。第一封印の半覚醒確認。内部迷宮の再構成開始確認」


 一つずつ整理する。


「十分だ。ここで欲を出せば、本当に侵入者になる」


 正しい。

 たぶん唯一正しい判断だった。


 ザイードは名残惜しそうだったが、何も言わない。

 リセリアもまた、行きたい気持ちを押し込めて頷く。

 カイルはむしろ安心していた。

 ここで踏み込みすぎると、商盟の“道を売る”立場まで焼ける可能性がある。


 そしてバルザードだけが、少しだけ残念そうに肩をすくめた。


「まあ、そうなりますよねえ」


「不服ですか」


 オルフェンが問う。


「いいえ」


 バルザードは即座に答えた。


「むしろ、きわめて賢明です。補助宮は、賢い方の方が長く遊べますので」


 やっぱりそういう言い方をする。


 だが、敵の研究者としては妙に筋の通った評価でもあった。


 ---


 外では、半ば姿を現した門が、雪と薄い光の中で静かに眠り直し始めていた。


 完全には消えない。

 だが最初のように、ただの崩落地形へ戻りきるわけでもない。


 扉がある。

 確かにある。

 しかも今、こちらを見て“次を待つ”状態へ入った。


 それだけで十分すぎる成果だった。


 そして同時に、十分すぎる危険でもあった。


 オルフェンは幕の外へ一歩だけ出て、門を遠く見た。


 美しい。

 そして危険だ。

 それに、思った以上に“生きている”。


 補助宮は死んだ遺跡ではない。

 今この時代の訪問者に応じて、内部を組み替える程度には現役なのだ。


「…これは」


 小さく呟く。


「本当に神話の実在だな」


 横でリセリアが答える。


「はい」


 声は静かだった。


「そして、ただの遺跡ではありません」


 オルフェンも頷く。


 だからこそ、次からはもっと慎重に行かなければならない。

 同時に、次に進まなければ何も分からないことも、もうはっきりしてしまった。


「筆頭賢者殿」


 バルザードが後ろから声をかける。


「一つだけ、善意の助言を」


 善意、という単語がこの男の口から出ると、それだけで少し警戒したくなる。


「聞こう」


「連邦と帝国には、今すぐすべてを教えない方がよろしいかと」


 オルフェンが振り返る。


「理由は」


「騒がしくなります」


 あまりにも率直だった。


「特に連邦は、“王権遺産が実在し、今なお生きている”と知れば、神話案件から宗教案件へ戻しに来るでしょう。帝国もまた、軍事的価値を再評価します」


 それはたしかにそうだ。


 この男の言葉をそのまま信じる気はない。

 だが、いま言った内容自体は合理的だった。


「ではあなたがたは、こちらに隠せと言うのか」


 リセリアが問う。


 バルザードは笑った。


「いいえ。皆様の国益に従ってください。ただ、騒がしくなると補助宮が嫌がります」


 最後の一言が、本気なのか冗談なのか分からない。

 だが、補助宮の今の挙動を見た後だと、完全に笑い飛ばせないのが嫌だった。


 オルフェンは短く答える。


「参考にはしよう」


「それで十分です」


 バルザードは深く一礼する。


 そして次の瞬間、彼の足元の影がわずかに揺れた。


 消える気だ。


「待て」


 リセリアが思わず声をかける。


 バルザードが振り向く。


「何でしょう」


「貴方は何故、我々にここまで話すのです」


 ずっと引っかかっていた問いだった。


 敵だ。

 なのに、ここで“補助宮はこういう構造だ”“雑に触れば閉じる”と教えてくる。

 脅しだけではない。実際に説明もしている。


 バルザードは一瞬だけ考え、それから妙にあっさり答えた。


「陛下が、まだ皆様を“壊すべき者”と定めておられないからです」


 その一言は軽い。

 だが、軽いせいで余計に重い。


「加えて」


 少しだけ笑う。


「私も、せっかく今の時代まで残った補助宮を、雑に閉じられるのは惜しいので」


 どちらも本音なのだろう。


 それを最後に、バルザードの姿は影へ沈むように消えた。


 後には、風と、半ば眠り直しつつある門と、見てはいけないものを少しだけ見てしまった人間たちだけが残る。


 ---


 その夜、誰もよく眠れなかった。


 オルフェンは記録の整理をしながら、補助宮を“遺跡”と書きかけてやめた。

 もうその語では足りない。


 リセリアは内部迷宮の再構成という概念を何度も紙へ書き、何度も消した。

 理論の外にある。

 だが理論のない現象ではない。


 ザイードは、七柱施設群の記述をもう一度洗い直し始めた。

 興奮しているのに、同時に怖がってもいる。

 その両方が筆圧に出ていた。


 カイルは、これをどこまで誰に売るかで、久しぶりに本気で頭を使っていた。

 高く売れる。

 だが、売り方を一歩間違えれば、自分が“線を越えた側”へ回る。

 その値踏みが普段よりずっと難しい。


 補助宮は実在した。

 しかも、生きている。


 なら次は、記録ではなく、実際に中へ触れる段になる。


 だが、その“中へ触れる”という段階に入った時、誰が味方で、誰が裏切り、誰が奪おうとするのかは、まだはっきりしていない。


 だからこそ、同盟と裏切りは同じ席へ着く。


 そしてその席の中心には、まだ姿を見せていない王がいる。


 主認証を必要とする扉。

 黒翼庭の当事者たち。

 七柱へ繋がるかもしれぬ記録。

 世界は今、そこへ向かって少しずつ傾き始めていた。



最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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