「同盟と裏切りは、同じ時に起こる」
北へ近づくほど、道は一本ではなくなる。
街道、旧巡礼路、帝国軍の補給線、商盟の裏荷路、崩れたことになっている山道。
地図の上では別々だ。
だが現実には、それらはどこかで互いを嗅ぎつけ、交わり、奪い合う。
補助宮のような“まだ形の定まらない価値”が動き始めた時、その交差はさらに露骨になる。
知は独占したがる。
利は先に触れたがる。
武は他国に先んじられるのを嫌う。
信仰は、自分の知らぬ秩序が形を持つことを恐れる。
だから、同盟と裏切りはよく同じ席へ着く。
北方遺産を巡るこの盤面もまた、例外ではなかった。
---
旧巡礼路へ入る前の最後の中継地は、商盟と帝国と王国の匂いが不自然に混ざった町だった。
表向きにはただの山裾宿場。
だが、看板の色、倉庫の刻印、出入りする荷車の車輪幅、酒場で使われる言葉の訛り、それらを見れば分かる。
商盟の荷が入っている。
帝国の前線情報が売られている。
王国の学者が嫌いそうな粗い封印品まで流れている。
要するに、“境界の手前で値札が付くもの”が一度集まる町なのだ。
昼間の大通りは一見すると平穏だった。
干した獣皮。
雪を被った荷箱。
荷駄獣の鼻息。
山水を温めた湯気。
そうした田舎宿場らしい景色がある。
だがその下を流れるものは、もっと濁っている。
帝国の兵站役が欲しがる補給見積。
連邦の巡察帰還後に値上がりした北方情報。
商盟の下位流通に紛れた、由来不明の封印片。
そして今は、魔導王国の学術使節という新しい客まで来ている。
この町の空気は静かではなく、低くざわついていた。
表に出ない会話ほど、床板の下で増える。
そういう種類の町だった。
カイルはそういう町が好きだった。
好きというより、落ち着く。
綺麗すぎる都では、情報は表へ出ない。
逆に荒れすぎた前線では、情報が雑に死ぬ。
その中間、秩序と無秩序がちょうどせめぎ合う町でこそ、本当に売れる断片が浮く。
宿の上階で地図を広げながら、彼はそういう町特有の匂いを、窓の隙間から入る冷気と一緒に感じていた。
「ここから先は」
カイルが言う。
「人と道の数が減る分、一つひとつの動きが目立ちます」
オルフェン、リセリア、ザイード、それに使節側の護衛責任者が地図を囲んでいる。
「つまり?」
リセリアが問う。
「こちらが見ているつもりで、向こうにも見られやすくなるということです」
もっともな話だ。
商盟の情報商は、危険を詩的には言わない。
値段と視認性の問題として言う。
その方が、かえって現実味があった。
「補助宮候補地への最短は旧巡礼路だが」
オルフェンが地図へ目を落とす。
「他にも道がある」
「あります」
カイルは頷いた。
「そして、こちらだけがそれを知っているとは思わない方がいい」
その言葉に、護衛責任者の顔が少しだけ険しくなる。
「帝国か」
「帝国だけではないでしょう」
カイルは言う。
「連邦も、商盟も、あるいは北そのものも」
最後の一言だけ、少し声を落とした。
宿の外は風が強い。
板壁が小さく鳴る。
北へ近づくにつれて、ただの地理情報だったものに“向こうから見られる可能性”が混ざってくる。
---
カイルは商盟側の仲介人として、この遠征へ同行している。
だが彼は、魔導王国だけの人間ではない。
それがこの章の肝だった。
朝に王国使節へ道を売り、昼に商盟本国へ価値報告を返し、夕方には帝国側の窓口へ“王国がどこまで北へ寄るか”の匂わせを流す。
必要なら、連邦へさえ“魔導王国が神話遺産へ触れようとしている”程度の断片は売る。
全部を本気で裏切っているわけではない。
だが全部を本気で守ってもいない。
そういう男だった。
夜遅く、宿の裏手の荷置き場で、彼は小さな結晶板を起動していた。
商盟本国へ飛ばす短文報告だ。
――魔導王国使節、本件を神話級遺産案件として扱う。
――補助宮仮説ほぼ確定。
――認証子断片現物確認済。
――ただし使節は本城敵対を避ける姿勢強し。
――現地での開扉は主認証なしには困難との見立て。
短く、冷たい文面だった。
そこへ別方向の暗号片を足す。
――帝国向け小口:王国は軍を出さず、遺産確認を優先。
――連邦向け小口:王国は“神敵”ではなく“遺産”として扱う傾向。
売る内容を変える。
誰に何が一番高くなるかを考えて。
結晶板の面へ淡い光が走り、文面が消える。
雪と土の匂いが混じる荷置き場で、カイルはそれを見届けながら小さく肩を回した。
「便利だな、俺は」
誰もいない荷置き場で小さく呟く。
便利すぎる人間は、だいたい長生きしない。
カイルはその自覚がある。
どこへでも顔を出せる人間は、どこからでも切られうる。
だが今のところ、北の件はまだ“便利さが生きる側”に乗っていた。
問題は、その便利さがいつ“踏み違えた側”へ見えるかだ。
黒翼庭はそこを見てくる。
そのことを、彼は帝国や連邦の断片報告からよく理解していた。
帝国は押して怒られた。
連邦は名付けて割れた。
なら、商盟が次に売るべきものは、鍵でも道でもなく、**どこまでならまだ値札で済むか**という距離感だ。
それが崩れた瞬間、この案件は高値の商材から、命の安い地雷へ変わる。
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翌朝、使節は町を出て旧巡礼路へ入った。
道はすぐに狭くなる。
整備された街道の名残は最初の半里ほどで消え、その先は岩を削ったような細道と、雪に半ば埋もれた石段が交互に現れる。
崩れたことになっている、というカイルの表現は正しかった。
大軍には無理だ。
荷車も二台並べない。
だが少数ならまだ使える。
だからこそ危ない。
少人数で通れる道は、少人数で待ち伏せもできる。
しかもこの道には、古い巡礼路らしい不気味さが残っていた。
折れた標石。
半ば崩れた祠の台座。
雪の下に埋もれた祈りの刻文。
昔は人が信じて通った道だと分かる。
だが今は、その信仰が死んだ後の骨だけが残っている。
「静かですね」
リセリアが前方の尾根を見ながら言う。
「静かすぎる時は、だいたい誰かが先に通っているか、誰かが待っている時です」
カイルの返答は商人らしからぬものだったが、妙に経験が滲んでいた。
「商人の言葉には聞こえませんね」
「流通路ってのは、だいたい盗賊と兵士と噂好きに挟まれて育つんです」
それもまた事実なのだろう。
オルフェンは前だけを見ていたが、短く言う。
「護衛を散らしすぎるな」
隊列が少し締まる。
学術使節とはいえ、ここから先はもう“見に行く者”であると同時に“見られる者”でもある。
ザイードはそんな空気の中でも地形ばかり見ていた。
「ここだ」
唐突に言う。
全員の足が止まる。
彼が指したのは、道の右手に落ちる細い谷の先だった。
雪と岩が重なり、ぱっと見ではただの崩落地形にしか見えない。
だが、よく見れば奇妙に揃っている場所がある。
「自然崩落ではありませんな」
ザイードが言う。
「見てください。岩の露出線が途中から不自然に反転している。これは“下に構造物があって、後から土砂を被せた”時の崩れ方です」
リセリアが目を細める。
言われてみればそうだった。
地形は荒い。
だが荒れ方の質が一定すぎる。
崩れたというより、何かを隠した上で崩したように見える。
オルフェンはすぐ結論へ飛ばない。
「補助宮か」
「断定は早い」
ザイードもそこは抑える。
「ですが、“施設跡の可能性がある地形”としては十分濃い」
カイルが少し離れた位置で周囲を見回していた。
「問題は、俺たちだけがそこへ気づいたかどうかですね」
その一言で、現実が戻る。
学者は見つける。
商人は“それを他に見つけられているか”を考える。
どちらも必要だった。
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それを証明するように、同日の夕刻、別の気配が現れた。
使節が山腹の広い岩棚で仮営の準備をしていた時、下方の道から三騎ほどの影が上がってきたのだ。
帝国兵だった。
正規軍というより、北方方面の機動連絡組に近い。
黒灰の外套、竜嶺帝国式の短槍、実務だけでできた鎧。
先頭にいた男は若くない。
だが経験のある顔をしていた。
「止まれ」
護衛が前へ出る。
帝国兵の男は馬を止め、両手を見せる形で少しだけ開いた。
「敵対の意思はない。北方方面の連絡任務中だ」
カイルが小さく息を吐く。
「やはり帝国も嗅いでます」
オルフェンは前へ出ない。
まず護衛責任者へ任せる。
こういう線引きがうまい。
短いやり取りの後、帝国兵の男は少しだけ近づき、王国使節の紋を見て眉を動かした。
「魔導王国か」
「そうだ」
オルフェンがそこで初めて声を出す。
「そちらは」
「帝国北方方面の連絡組だ。名前はシグル」
名乗りは簡潔だった。
「この道を王国の学術使節が使うとは思わなかった」
「こちらも、帝国がここまで細く目を伸ばしているとは思わなかった」
オルフェンの返しも簡潔だ。
無駄に探り合わない。
だが探っていないわけでもない。
「何を見に来た」
シグルが率直に問う。
「遺産を」
オルフェンも率直に答える。
その言い方に、帝国兵の目が少しだけ細くなる。
だが否定はしない。
「なら一つ忠告だ」
「聞こう」
「黒翼庭は、見つけた時点でお前たちのものになるわけじゃない」
それは脅しではない。
帝国が北を見続けたからこそ出る、現実的な警告だった。
「分かっている」
オルフェンは頷く。
「だから触れ方を選んでいる」
シグルはその答えを数秒だけ測り、それから短く言った。
「ならいい」
帝国兵たちはそれ以上長居せず、去っていく。
だが、それで分かったことは大きい。
帝国もこの近辺へ目を入れている。
王国使節だけの静かな探索ではもう済まない。
補助宮候補地がもし本物なら、盤面は確実に混み始めている。
「同盟も裏切りもないですね、まだ」
リセリアが言う。
カイルが笑う。
「いえ。こういう時は、まだ席が空いているだけです」
その言い方が妙に嫌だった。
空いている席は、誰かが座る。
そして座った瞬間から、同盟も裏切りも始まる。
---
その夜、岩棚の仮営で小さな会議が開かれた。
灯りは絞られ、風除け幕の中だけが淡く照らされる。
地図の上には、今日見つけた谷筋の地形と、帝国連絡組の出現地点が重ねられていた。
「補助宮候補地が本物なら」
オルフェンが言う。
「帝国もいずれ深く気づく」
「連邦も情報を買うでしょう」
カイルが補う。
「商盟を通して、ですが」
ザイードは地図を睨んだまま呟く。
「三国が揃い始めたか」
その言葉は重い。
連邦の信仰まで加われば、四大国家が全部揃う。
「なら急ぐべきでは」
護衛責任者が言う。
「人が増える前に」
「急ぎすぎれば失う」
オルフェンが切る。
「補助宮が本当に主認証系なら、こちらだけでこじ開けることはできない」
カイルがそこで、一つ別の札を出した。
「その件ですが」
彼は懐から小さな帳面を取り出した。
「白線運輸経由で流れた認証子断片、どうも一つではなさそうです」
「やはり」
リセリアが反応する。
「もう一つ、輪状の欠片が沈んだという噂がありまして」
「噂か」
オルフェンが言う。
「ええ。ですが商盟で“沈んだ”は、半分くらい隠したの意味です」
カイルは平然としている。
つまり残り半分は本当に沈んでいる。
「回収できるか」
「やってみます」
その返事は軽い。
だが、できないことに軽く“できます”とは言わない男でもある。
「ただし」
彼は少しだけ真顔になった。
「仮に断片を二つ三つ集めても、それだけで開くとは思わない方がいい」
「理由は」
「価値の高さです」
いかにも商盟らしい理由だった。
「本当に開く鍵なら、もっと早くに誰かが死んでます」
場が少し静まる。
たしかにそうだ。
価値が明確なら、争いも明確になる。
今はまだ認証子が“高いかもしれない古物”の顔をしているからこそ市場に流れる。
つまり単独では足りない。
「補助宮は」
リセリアが言う。
「認証子だけでは開かない」
「おそらく」
カイルが頷く。
「そして、その“足りない部分”が問題です」
「主認証か」
オルフェンの声は低い。
その時だった。
幕の外で、風とは違う音がした。
護衛責任者が即座に立ち上がる。
術式灯が少しだけ強まる。
外の気配は一つ。
だが隠していない。
「誰だ」
護衛の声が飛ぶ。
数拍の沈黙のあと、外から明るい声が返ってきた。
「技術的に申し上げますと、“足りない部分”はかなり重大です」
知らない声ではない。
いや、クロウたちは知っている。だが魔導王国側は初めて聞く。
幕が外から静かに開かれる。
そこに立っていたのは、黒い技師服に片眼鏡、義手の指先で何か細い結晶片を弄んでいる男だった。
その姿を見た瞬間、空気が一気に変わる。
護衛が前へ出る。
リセリアの指先に術式が集まりかける。
ザイードは逆に目を見開く。
カイルだけが心の中で、ああ最悪のタイミングで最高の当事者が来たな、と思っていた。
バルザードはそんな空気をまるで気にせず、にこやかに一礼した。
「初めまして、監視者の皆様」
笑顔は人好きする。
だが内容がまったく信用ならない種類の笑顔だ。
「黒翼庭第四席、《冥匠》バルザードと申します」
名乗りが落ちる。
魔導王国側にとっては、黒翼庭の“四天王”がいきなり目の前に現れた瞬間だった。
しかも武人ではない。
威圧で押す騎士でも、裁きを告げる王でもない。
技術と理屈を持っていそうな相手が、いきなり会議の席へ顔を出したのだ。
それがかえって不気味だった。
「補助宮の扉に関する議論が、実に面白そうでしたので」
その声音は本当に楽しそうだった。
「少々、混ぜていただいてもよろしいですか?」
よろしいわけがない。
だが、ここで“帰れ”とだけ言って済む相手でもない。
なぜなら、この男はすでに一番大事なことを言ってしまっている。
**補助宮の扉**。
つまり、こちらの仮説は仮説ではなく、向こうにとっても実在へ近い語なのだ。
オルフェンが静かに立ち上がる。
リセリアは術式を解かないまま、しかし撃たずに留める。
ザイードは呼吸すら浅くなっていた。
カイルは、値段がまた一段跳ね上がったことだけははっきり分かった。
北方遺産を巡る盤面はいよいよ、同じ席へ各陣営が着き始める。
知。
利。
武。
そして、王の庭を支える冥匠。
同盟と裏切りは、まだ始まってもいない。
だがこの場だけは、綺麗に整ってしまった。
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