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配下からの信頼が重すぎる  作者: きなこもち
第2章 『聖冠連邦は黄昏を拒む』

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35/38

「沈黙のまま裁定を下す」

 


 翌朝の雪は、夜のうちに積もった分だけ薄く世界を均していた。


 帝国側の中継拠点も、連邦の巡察隊が張った白い天幕群も、どちらも同じように浅い白を被っている。

 雪は深くない。歩けばすぐに踏み抜ける程度の薄さだ。

 だが薄いからこそ、地面の起伏や人の動きが隠れきらず、かえって何かがあった時だけ妙にはっきり残る。


 何かが起きれば、足跡だけがはっきり残る朝だった。


 ルークスは起き抜けの冷たい水で顔を洗った時から、今日は嫌な日になると分かっていた。


 根拠はない。

 だが、前線に長くいると、そういう感覚は案外外れない。


 いい日が来ると分かる勘は、たいてい当てにならない。

 だが、ろくでもないことが起きる前の空気だけは、不思議と体が先に知る。

 静かすぎる朝。雪が浅く均されている朝。人の顔は平静なのに、その平静がどこか薄い朝。

 そういう日は、たいてい誰かが勝手な理屈を持って動く。


 外へ出ると、空は低く曇っている。風は弱い。兵たちは朝の持ち場についている。

 見た目だけなら、昨日までと何も変わらない。


 問題は、“変わっていないように見える”時ほど、勝手に何かをやる馬鹿が動きやすいことだった。


「隊長」


 副官が近づいてくる。


「連邦側、監察官二名の姿が見えません」


 やはり来たか、と思う。


 ルークスの目が細くなる。

 思ったより早い。だが、遅れるとは最初から思っていなかった。

 昨日の会議で正面から押し切れなかったなら、ああいう連中は別の入口を探す。しかも自分たちでは、それを“現場判断”だの“職責の補完”だのと呼ぶのだろう。


「聖女と勇者は」


「まだ各自の区画かと」


 つまり、先に動いている。


 ルークスは舌打ちをこらえきれなかった。


「…案内を出せ」


 そう言いかけて、もう遅い可能性に気づく。

 監察官たちは、帝国側へ見つかる前提で動くような人種ではない。

 見つけた時には、たいてい半分は終えている。


「境界寄りを洗え。祈祷具を持ってる連中の動線もだ」


「はっ」


 副官が駆ける。

 ルークスは自分でも剣帯を確かめ、そのまま足を速めた。


 胸の奥で、昨日までの不快感とは違う種類の苛立ちが育っていく。

 北の王が面倒なのではない。

 こちら側の人間が、自分たちから面倒を呼び込もうとしている。

 前線の兵間では、そういうのがいちばん嫌われる。

 敵の強さより、自分たちの側の愚かさの方が対処しづらいからだ。


 ---


 一方、連邦側の宿営区画では、リュミエラも同じ頃に異変へ気づいていた。


 朝の祈りを終え、補佐の修道女と短い確認をしていたところへ、巡礼監察院の記録官が血相を変えて駆け込んできたのだ。

 普段なら、法王庁の訓練を受けた記録官がそこまで顔を崩すことはない。

 だからこそ、一目でただ事ではないと分かった。


「聖女様」


「どうしました」


「異端審問局付きの監察官が、第二監視杭を持ち出しています」


 その一言で十分だった。


 リュミエラは表情を変えなかったが、背筋だけがすっと冷える。


「誰の許可でですか?」


「…確認中です」


 確認中、という時点で許可など取っていないのだろう。


 リュミエラは即座に立ち上がった。


「勇者殿へも伝えてください」


「はっ」


 外套を取る。

 聖印を確かめる。

 歩き出す。


 その足は速い。だが乱れてはいない。

 焦りをそのまま足音へしないのは、聖女として身についている癖でもあった。

 白い法衣の裾が翻り、回廊を行き交う修道士たちが思わず道を空ける。彼女はそれに視線も向けない。


 ただ、心は焦っている。


 あの監察官たちは止まらないと思っていた。

 けれど、これほど早いとは思わなかった。


 もし彼らが本当に“自分たちの正しさ”を境界へ押し込んだなら、返ってくるものはもう単なる違和感では済まないかもしれない。

 昨日まではまだ、“断じきれない”で留められていた。

 だが、こちら側から明確に押した時、北の王がそれをどう扱うかは分からない。


 その分からなさが怖かった。

 そして怖いからこそ、彼女は急いでいた。


 ---


 アシュレイは、自分の幕舎を出た瞬間に空気の違いを感じ取った。


 騒がしいわけではない。

 むしろ逆で、妙に静かだ。

 人が何かよくないことを隠そうとしている時の静けさだった。


 宿営地というものは、何かあればだいたい音が出る。誰かが走る、怒鳴る、報告が飛ぶ。

 だが今の静けさは違う。すでに誰かが動いた後で、その動きを知っている者だけが口を噤んでいる静けさだ。


「勇者殿!」


 ラドスが走ってくる。


「監察官どもが動きました!」


「分かってる」


 アシュレイは短く返す。

 もう足は前へ出ていた。


「第二監視杭と増幅具を持って、昨日より手前の位置へ。表向きは“祈祷基準の確認”だそうです」


「表向き、ね」


 胸の奥に、昨日までの違和感とは別種の苛立ちが生まれる。


 北が面倒なのではない。

 自分たちの側の人間が、面倒なことを勝手に増やしているのだ。


「ルークスは」


「追っているはずです」


「聖女様は」


「先ほど出られました」


 なら、なおさら急がなければならない。


 アシュレイは腰の剣を確かめ、そのまま境界への雪路を駆けた。


 走りながら思う。

 もしこれで何かが起きたら、それは北の王だけの責任ではない。

 こちら側が、自分たちで起こしたことになる。

 その形が、たまらなく嫌だった。


 ---


 第二監視杭が立てられたのは、昨日の祈祷旗地点より半歩手前だった。


 監察官たちなりの理屈がそこにあるのだろう。

 昨日より浅い。だから押しではない。

 増幅具も“記録の精度を上げるため”であり、侵食ではない。そう言い張るための位置だ。


 だが、それは人の理屈だ。


 雪原の中に立てられた黒銀の細杭は、先端に小さな聖印具を載せられ、そこから淡い光が脈打っていた。

 監察官二人と補助役の修道士一人。

 護衛はいない。護衛を付ければ余計に“押し込み”らしく見えるからだろう。


 空は低い。

 霧は薄く流れ、雪原の奥の輪郭を曖昧にしている。

 昨日より浅い場所のはずなのに、立っているだけで“ここにいるべきではない”ような感覚が足元からじわじわ上がってくる。


「出力、あと一段階」


 年長監察官が言う。


「ですが、これ以上は記録上」


 若い監察官が躊躇う。


「だからこそ今だ」


 冷たい声だった。


「いまならまだ、“監視の範囲”で処理できる」


 その言葉が終わるかどうかのところで、雪を踏む音がした。


「やめてください」


 リュミエラだった。


 白い外套を翻し、まっすぐこちらへ来る。表情は静かだが、その静けさの下に怒りがあるのが分かった。


「聖女様」


 年長監察官は振り返る。だが手は止めない。


「これは必要な確認です」


「違います」


 リュミエラははっきりと言った。


「これは、あなた方の“都合の良い結果”を得るために行っているだけです」


 若い監察官が目を伏せる。図星なのだろう。


「聖女様は慎重であられる」


 年長監察官の口調は、まだ丁寧だ。


「ですが、慎重であることと停滞することは別です。北の何かが本当に秩序の外にある王であるなら、なおさら早く境界を」


「境界線は、こちらで決めるものではありません」


 リュミエラの声が少しだけ強くなる。


「少なくとも、今はまだ」


 そこへアシュレイも追いついた。


「おい」


 雪を蹴るようにして足を止める。


「聞こえなかったのか。やめろって言ってるだろうが」


 年長監察官の目が、初めて明確に冷えた。


「勇者殿。これは」


「監視、だろ」


 アシュレイは切る。


「でも、その言い訳でやってることは踏み込みだ」


 数歩遅れてルークスも到着する。帝国兵を二名だけ連れていた。


 彼は状況を見た瞬間、露骨に顔をしかめた。


「連邦の連中は、どうしてこう余計なことをする」


 吐き捨てるような声だった。


 監察官は今度こそ語気を落とした。


「帝国側に指図される筋合いはありません」


「ここは帝国の前線だ」


 ルークスが返す。


「しかも相手の性質を一番長く見てるのもこっちだ。筋合いがないのは、お前らの方だ」


 どちらも引かない。

 だが次の瞬間、その押し合いそのものが無意味になる。


 第二監視杭の先端で、聖印光が一段強くなったのだ。


 若い監察官が顔を上げる。


「増幅具が…勝手に」


 違う。

 勝手にではない。

 年長監察官がさっき、触れていた。


 リュミエラは一歩踏み出そうとした。

 だが、その一歩より先に、空気が落ちた。


 雪原の奥から、鐘のような低い音が一打。

 続いて二打。


 風ではない。

 魔力の奔流でもない。

 ただ、雪原そのものが一段深く沈み、その沈みの中で鐘だけが鳴ったような感覚だった。


 周囲の雪だけがごく薄く舞う。

 舞い上がるのではなく、何かへ引かれるように空気の中で方向を失う。

 その様子だけで、ここに立つ誰もが理解する。

 遅れた。

 もう、止める段階ではない。


「まずい」


 ルークスが低く言った。


 その声には前線の確信があった。


「杭を抜け!」


 だが遅い。


 聖印光が杭の先で一度だけ強く瞬き、そこで“通った”。


 通ってしまった。


 境界へ押し込まれた聖の基準が、黒翼庭の静かな選別へ触れた瞬間だった。


 雪原の先の霧が、左右へ裂けるように薄くなる。


 黒い塔。

 谷。

 倒れたままの白い祈祷旗。

 そのさらに奥。


 高い位置に、黒があった。


 最初は影にしか見えない。

 だが、それが輪郭を持つまでに時間はかからなかった。


 黒い王装。

 肩から背へ流れる羽根めいた外套。

 細い黒金の冠。

 雪と霧の世界の中で、その存在だけが異様なほど静かで、異様なほど鮮明だった。


 誰もその名を口にしていない。

 だが、この場にいる誰もが分かった。

 あれが奥にいる王だと。


 リュミエラの息が止まる。

 アシュレイの指先がわずかに剣の柄へかかる。

 ルークスですら、一瞬だけ声を失った。

 監察官たちだけは、恐怖と同時に別の熱を目へ宿す。ついに王が出た、と。


 クロウは動かない。

 ただそこに立ち、こちらを見ている。


 その“見ている”という事実だけで、第二監視杭の周囲の空気がさらに重くなる。


 年長監察官が、震えを隠しながらも一歩だけ前へ出た。


「我らは聖冠連邦アルディウスの正当な――」


 言い終わる前に、杭の光が消えた。


 音もなく。

 ただ、消えた。


 増幅具も、聖印具も、何も壊れてはいない。

 なのに、その場だけが“聖の基準を保持できない場所”になったかのように、光だけが断たれる。


 そして、クロウが初めて口を開いた。


「そこまでだ」


 低くはない。

 怒鳴りでもない。

 けれど、静けさそのものが裁定へ変わったような声だった。


 リュミエラは、その一言を聞いた瞬間に理解する。


 これは威嚇ではない。

 宣告だ。


 越えた。

 だから、ここまでだ。


「貴方は」


 年長監察官がかすれた声を絞る。


「我らを、裁くと?」


 その問いに、クロウの表情はほとんど動かなかった。


「違う」


 短い返答だった。


「越えた行為を戻すだけだ」


 その言葉に、アシュレイは目を見開く。


 やはりだ。

 この王は、見境なく敵を滅ぼすために出てきたのではない。

 越えたものだけを、越える前へ戻そうとしている。


 だが、それが異端審問側にとってむしろ耐え難い。


「神敵めが――」


 年長監察官が叫びかけた瞬間、クロウの背後で黒い羽が一枚だけ舞った。


 それだけだった。


 ただ一枚の羽が、空間を横切り、第二監視杭の前を通る。


 次の瞬間、杭が音もなく雪へ沈んだ。


 折れたのではない。

 砕けたのでもない。

 まるで最初から“そこに立っていなかった”かのように、雪へ半ば呑まれて静止する。


 増幅具も、聖印具も、そのままだ。

 ただ、“押し込んだ事実”だけが無効化された。


 同時に、年長監察官の膝が崩れ落ちた。


 死んではいない。

 傷もない。

 だが立てない。

 全身から力だけが抜け落ちたように、その場へ膝をつく。


 若い監察官も後ずさる。

 補助修道士は雪へ座り込み、声にならない息を漏らした。

 聖騎士たちは剣を抜かない。

 抜けないのではない。

 いまここで抜くのが違うと分かっているからだ。


 リュミエラは胸元の聖印へ手を当てたまま、クロウを見ていた。


 恐ろしい。

 それは間違いない。


 だが、同時に、はっきりと分かる。

 あの王は今、“自分たち”を裁いてはいない。

 独断で押し込まれた杭と、その行為だけを裁いている。


 アシュレイもまた、低く息を吐く。


「…そう来るか」


 その言葉には、驚きと、妙な納得が混じっていた。


 全面戦闘ではない。

 皆殺しでもない。

 王が出たのに、切られたのは“越えた事実”だけだ。


 だからこそ、余計に重い。


 クロウの視線が、年長監察官からリュミエラとアシュレイへ移る。


 その間に、敵意はない。

 だが、甘さもない。


「まだ戻れる」


 静かな声だった。


 リュミエラの胸が小さく震える。


 戻れる。

 つまり、まだこの場は“神敵と聖戦”には落ちていない。

 こちらが戻る限りは。


 クロウはさらに言う。


「次は、選ばせない」


 短く、それだけ。


 だが、その一言で十分だった。


 最後の慈悲。

 あるいは、最後の選び直しの余地。

 そういうものが、いま確かにこの場へ置かれたのだとリュミエラには分かった。


 アシュレイはゆっくりと剣の柄から手を離す。


 もはや、ここで振るうべきではない。

 この王に対してではなく、この場そのものに対して。


「…撤収だ」


 ルークスがようやく声を出した。


 帝国兵たちがすぐに動く。

 連邦の聖騎士たちも、遅れて従う。

 年長監察官はなお膝をついたままだったが、若い監察官と修道士が支えて立たせた。

 彼の目には怒りと恐怖、それに屈辱が混ざっている。


 だが、その怒りさえ今は空回りしていた。

 なぜなら、自分たちは殺されていないからだ。

 殺されていないのに、完全に“越えた側”として裁かれてしまったからだ。


 それが最も痛い。


 リュミエラは最後にもう一度だけクロウを見た。


 黒い王装。

 静かな冠。

 雪原の奥で、ただ立っているだけなのに、この場全体の意味を決めてしまう存在。


 神敵。


 その言葉が浮かびかけて、すぐに消える。

 違う。

 少なくとも、今見たものはその言葉だけでは足りない。


 あれは、王だ。


 人の外にある。

 だからこそ危険だ。

 けれど、危険だから即ち“ただの邪悪”というわけでもない。


 そのズレが、リュミエラの中で決定的になった。


 ---


 撤収後、拠点の会議室は重苦しい沈黙に沈んでいた。


 年長監察官は椅子へ座っているが、まだ顔色が悪い。

 若い監察官は声を出せない。

 巡礼監察院の担当者は青ざめ、記録官たちは紙へ落とす言葉を探している。


 何と書くべきか。


 それ自体がもう、この場の敗北だった。


 “神敵が現れた”と書けば、あまりに雑だ。

 “越境行為に対する限定的な応答”と書けば、連邦側の独断が際立つ。

 “王の裁定”と書けば、それはもはや神学の外にある秩序の承認に近づく。

 どの言葉も、どこかで何かを失う。


「…神敵です」


 ようやく年長監察官が絞り出す。


「やはり、あれは神敵だ。裁く王など、教義の外にある…」


「違う」


 アシュレイがはっきり切った。


 部屋の空気が揺れる。


「違う、とは何ですか、勇者殿!」


 監察官が顔を上げる。

 怒りに支えられた声だった。


「神敵ではないとでも」


「そこじゃない」


 アシュレイは前へ出る。


「お前が越えたんだ」


 その一言で、監察官の顔が硬直する。


「会議の承認なく。聖女の制止を無視して。帝国側の警告も無視して。あの杭を押し込んだ」


「それは監視の」


「監視じゃない」


 今度はリュミエラが言った。


 その声は静かだった。

 だが、この場に入って最も冷たかった。


「少なくとも、あの場においては違いました」


 監察官は言葉を失う。

 リュミエラは続ける。


「そして、黒翼の王が裁いたのも、私たち全員ではありません」


 そこが最も重要だった。


「あの方は、越えた行為だけを戻したのです」


 もし神敵として無差別に連邦を憎む存在なら、あの場でいくらでもやりようがあった。

 勇者も聖女も、帝国兵も、まとめて圧し潰すこともできただろう。


 だが、そうしなかった。


 その事実は重い。

 重いからこそ、年長監察官には耐え難い。


「だからこそ危険なのです!」


 彼は叫ぶ。


「理があるように見える!秩序があるように見える!ゆえに人は惑わされる!」


 リュミエラはその叫びを、少しだけ悲しいもののように聞いた。


 この人はもう、自分の恐怖を教義へ変えることしかできない。


「…それでも」


 彼女は静かに言う。


「いま見たものを、そのまま神敵の証とだけ呼ぶことはできません」


 アシュレイも頷いた。


「俺もだ」


「勇者殿まで!」


「必要なら斬る」


 アシュレイの声は低く、まっすぐだった。


「でも、まだその名ではない」


 それが彼の結論だった。


 剣の側から見ても、まだ神敵と断じきれない。

 それは連邦にとって、きわめて重い意味を持つ。


 年長監察官は唇を噛み、何も言えなくなった。

 だがその目だけは、むしろさらに先鋭化している。

 この男はここで終わらない。

 むしろ今の体験をもって、“だからこそ危険だ”と硬直していく。


 ---


 同じ夜、黒翼庭。


 玉座の間へ戻ったクロウは、ようやく背もたれへ体を預けていた。


 大したことはしていない。

 少なくとも本人の感覚ではそうだ。

 境界へ押し込まれた聖印と杭を“そこへ立っていなかった位置”へ戻し、押した張本人たちの力だけを一時的に剥がした。それだけである。


 …それだけ、で済まないのがこの世界なのだが。


「見事な裁定でした」


 ヴェルミリアが言う。


 やめてほしい。

 その“やはりそうされましたか”みたいな声は胃に悪い。


「見事というほどではない」


 クロウは短く返す。


「越えたから戻した。それだけだ」


「はい」


 ヴェルミリアは微笑みすらせず頷いた。


「ゆえに見事でした」


 話にならない。


 だがセラフィナもまた、静かな微笑みを浮かべている。


「聖女と勇者には、道を残されました」


「監察官には」


 クロウが問う。


 セラフィナの声が少しだけ冷える。


「“越えた”と知る痛みだけを」


 それでいい。

 いや、痛みという表現は少し怖いが、やったこと自体はその程度のはずだ。


「連邦はどうなる」


 クロウが続けると、ヴェルミリアがすぐに答えた。


「割れます」


 断言だった。


「聖女と勇者は、今見たものを“ただの神敵”では片づけきれません。一方で異端審問側は、むしろより強く神敵認定へ傾く」


 つまり、この場面の狙い通りだ。


 連邦は単純な聖戦の形に落ちない。

 いや、落ちようとする者はいる。

 だが、聖女と勇者がその言葉へ素直には乗らない。


「…悪くない」


 クロウはぽつりと言った。


 それは本音だった。


 全面戦争を避けつつ、相手の内部に“考えなければならない違和感”を残せたなら、少なくとも最悪ではない。


 するとヴェルミリアが静かに頭を垂れる。


「陛下が“まだ終わらせるには早い”とご判断くださったからこそです」


 そんなに綺麗な話でもない。

 ただ、まだ殺したくなかっただけだ。

 だが今さらそう言い直すのも違う気がする。


「…連邦には、まだ選ばせる」


 クロウは言った。


「だが次は、本当にない」


 それは脅しではなく、確認に近かった。


 セラフィナが深く頷く。


「しかと」


 ガルドもまた、少し離れた位置から低く言う。


「次に立つ時は、剣が要るでしょう」


 たぶん、そうなるのだろう。


 クロウはしばらく黙ってから、静かに息を吐いた。


 連邦はこれで終わらない。

 聖女と勇者は戻れる。

 だが異端審問は戻らない。


 その割れ方を見届けるのが、この先の大きな仕事になる。


 ---


 白き巡察隊の宿営地では、深夜になっても誰もよく眠れなかった。


 リュミエラは祈りの後、長く窓の外を見ていた。

 アシュレイは剣を傍らへ置いたまま、かなり遅くまで目を閉じられなかった。

 年長監察官は怒りと屈辱で逆に冴え切っている。

 若い監察官は自分がどこに立っているのか、急に分からなくなり始めている。


 そしてその全てが、翌日の帰還報告へ持ち込まれたのだった。




最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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