「勇者と黒騎士」
翌朝の北方は、ひどく静かだった。
雪は降っていない。
風も弱い。
曇天は低く垂れ込めたまま、空と大地の境目を曖昧にしている。
こういう日は遠くが見えにくい。見えにくいくせに、何かが見えてしまった時だけ妙にはっきりする。
ルークスはそういう朝が嫌いだった。
帝国の斥候として長く北を見てきたが、静かすぎる日はたいていろくなことにならない。
荒れている方がまだいい。吹雪や強風は、人にも魔にも平等に面倒だからだ。
だが静けさは違う。静かな時だけ動くものがある。
雪の上を歩く音。
革紐のきしみ。
吐く息の白さ。
そういう小さなものばかりが耳につく朝は、決まって“大きい何か”が黙って近い。
拠点の外で、連邦巡察隊と帝国側の案内役たちが合流していた。
白い外套。
聖騎士の甲冑。
記録官の結晶板。
監察官の冷えた視線。
その中に、リュミエラの静かな白と、アシュレイの生々しい強さが並んでいる。
昨日より、全員の顔つきが少しだけ変わっていた。
初日はまだ“見る側”の顔だった。
今日は違う。
見たものが内側へ残ってしまった者の顔だ。
「今日は、昨日より浅く行く」
境界線へ向かう前に、ルークスは連邦側へそう告げた。
白い巡察隊の面々は、それぞれに違う顔をしている。
記録官は緊張している。昨夜の結晶板の変質が頭から離れていないのだろう。
監察官は何かを決めてきた顔だ。
落ち着いているように見えて、その実、昨日の曖昧さを今日こそ“意味ある異常”へ押し込みたい意図が透けている。
聖騎士たちは慎重だが、まだ“正しさ”を失ってはいない。彼らは秩序の剣であって、まだ誰かの焦りの刃ではない。
そしてリュミエラとアシュレイは、やはり他とは少し違っていた。
怖れている。
だが、先に意味を置いて楽になろうとはしていない。
そこが他と違う。
「昨日の位置より手前で止まる」
ルークスが続ける。
「今日は監視と、地形の反応確認だけだ。余計な祈祷も、余計な押しもするな」
その言葉に、監察官の一人がすぐ反応した。
「押し、とは」
ルークスは面倒そうに眉を寄せる。
「自覚がないならなお悪いな」
監察官は口を閉じた。
その代わり、目だけがわずかに冷たくなる。
アシュレイはそれを横目で見て、やはり嫌な予感が当たっているなと思った。
この手の目は、表で逆らわず、後で理屈を積む。
真正面から来る敵より、こういう“正しさの抜け道”を探す視線の方がよほど面倒だ。
リュミエラは表情を変えないまま、胸元の聖印へ一瞬だけ指を触れた。
祈るためというより、自分を整えるための仕草に見えた。
彼女もまた、監察官の中に生まれ始めている別の温度を感じているのだろう。
「行くぞ」
ルークスの一声で、一行は昨日と同じ雪原へ足を向けた。
---
境界線へ近づくほど、音は減る。
これは風のせいでも雪のせいでもない。
ただ、人が勝手に口数を減らすのだ。
見えないものが近い時、人は本能で少し黙る。
雪は薄く踏みしめられ、足跡は昨日のものがまだ浅く残っていた。
遠くには半ば埋もれた黒い塔の輪郭。谷の線。霧。白と灰と黒しかない景色。
昨日、祈祷旗が倒れた位置までは行かない。
その手前で止まる。
ルークスの言葉通り、一行は昨日よりも一段浅い場所で立ち止まった。
「ここから先は、見るだけだ」
ルークスが言う。
「帝国側もそれで構わぬ」
帝国兵たちは短く応じる。
連邦側はそれぞれに動く。
記録官が結晶板を開き、聖騎士たちが周囲の警戒へ散る。
リュミエラは静かに空気を確かめ、アシュレイは雪原の奥をじっと見ている。
監察官の一人が、祈祷具の確認を名目に脇の補助修道士へ近づいた。
小さな銀の器具だった。携帯用の聖印増幅具。普通は祈りの質を整えるためのもので、監視時に大きな作用は持たない。
…はずだった。
アシュレイはその男の指先を見て、ほんのわずかに眉を寄せた。
動きが丁寧すぎる。
確認ではなく、調整の手つきだ。
器具を確かめる者の手ではない。
“少しだけ条件を押す”人間の手だ。
「何をしてる」
声をかけると、監察官は平静を崩さず振り向いた。
「祈祷具の整合です、勇者殿」
「この位置で、か?」
「だからこそ、です」
答え方が滑らかだ。
だが、その滑らかさが逆に怪しい。
ルークスも異変に気づいたらしく、視線を向ける。
「やめろ」
低い声だった。
「まだ何もしていないと申し上げたいところですが」
監察官は穏やかに言う。
「聖印の応答を見るには、最低限の基準出力が必要です。昨日のような“感じた”だけでは、記録として弱い」
リュミエラが一歩前へ出た。
「やめてください」
柔らかいが、はっきりした声音だった。
「いま必要なのは、押すことではありません」
「聖女様」
監察官は一礼の形だけ取る。
「押すのではなく、境界線を整えるだけです」
「その言い方を嫌っているのです」
珍しく、リュミエラの言葉は少し硬かった。
その時点で、アシュレイは悟っていた。
もう遅い。
この場はすでに“何が見えるか”ではなく、“誰が先に境界へ自分の理屈を差し込むか”の危ういところまで来ている。
監察官がさらに何かを言い返しかけた、その時だった。
空気が変わった。
風ではない。
魔力の奔流でもない。
ただ、雪原の奥にあった“何もないはずの静けさ”が、一段深く沈んだ。
全員の視線が前を向く。
霧の向こう。
黒い塔より少し手前。
白い雪原のただ中に、黒い一点が立っていた。
人影だと分かるまでに一拍かかる。
それほど景色に対して異質だった。
黒い甲冑。
鴉翼を思わせる肩当て。
長身。
兜の奥は暗く、顔は見えない。
だが立ち姿だけで分かる。あれはただ立っているのではない。
そこに立つことで、雪原そのものを“ここまでだ”と言わせている。
ガルドだった。
連邦側の空気が一斉に強張る。
聖騎士たちの手が剣の柄に触れかけ、記録官の息が止まり、監察官の表情から初めて余裕が消える。
補助修道士の一人など、思わず半歩下がりかけていた。
帝国側は違う。
緊張はした。
だが驚いてはいない。
この“場の密度が変わる感覚”を、彼らはもう知っている。
アシュレイだけが、一歩も引かなかった。
「…来たか」
小さく呟く。
嫌な予感はしていた。
だが実際に目の前へ立たれると、その“嫌”の質が全然違う。
圧倒的だ。
強い、というより重い。
ただの武人ではない。王の意志を背負って立つ武だと、見るだけで分かる。
ルークスが低く唸るように言う。
「連邦の連中、よく見とけ。これが北の門番だ」
あまり自慢げに言うな、とは誰も言えなかった。
実際、そうとしか呼びようがないからだ。
ガルドは何も言わない。
動きもしない。
だが、こちらが動けばそれに応じるという気配だけは明確だった。
監察官の一人が、小さく息を整えてから声を張った。
「我らは聖冠連邦アルディウスの正当なる巡察――」
「黙れ」
ルークスが先に切った。
だが、本当に場を切ったのはその後だった。
ガルドが、ゆっくりと一歩だけ前へ出たのだ。
たった一歩。
それだけで、雪原全体の密度が変わったように感じた。
監察官の喉が止まる。
聖騎士たちの指先がさらに強く剣へかかる。
リュミエラは小さく息を呑み、アシュレイは逆に少しだけ目を細めた。
この騎士は、言葉を切るために動いた。
そう分かったからだ。
ガルドの声は低く、重かった。
「そこまでだ」
ただそれだけ。
説明もない。
威嚇の言葉もない。
だが、その一言だけで十分だった。
この先へ進むことが、単なる前進ではなくなる。
理屈ではなく、場そのものがそう理解させられる。
それが、この黒騎士の立ち方だった。
アシュレイは一歩だけ前へ出る。
ルークスが何か言う前に、彼は口を開いた。
「アシュレイだ」
名乗る。
ここでそれをするべきだと分かったからだ。
ただの巡察の一員ではなく、この場で自分が受けるべき重みを受けるために。
「お前は…何者だ?」
数拍の沈黙。
それから黒騎士が答えた。
「黒翼庭、第二席。《屍山の黒騎士》ガルド・ヴァルカン」
連邦側に小さなどよめきが走る。
第二席。
帝国の報告にあった名が、いま目の前で現実になった。
アシュレイはその名を胸の内で反芻する。
ガルド・ヴァルカン。
やはり、名を持つ。
ただの怪物ではなく、王の配下として立っている。
「お前はここを守っているのか」
アシュレイは率直に問うた。
この場で遠回しな言葉は不要だと思った。
ここで濁せば、むしろ場が悪くなる。
そういう確信があった。
ガルドは一拍だけ置いて答える。
「陛下の庭を」
短い。
だが、それで十分だった。
陛下。
庭。
この二語だけで、連邦側の監察官がさらに顔を強張らせる。
人の言葉で秩序を持つ敵。それは彼らにとって、ただの穢れよりずっと厄介だ。
アシュレイは続ける。
「なら、あの奥に王がいるのか?」
確認というより、半ば確信の形だった。
ガルドの兜は動かない。
だが、声は揺れない。
「見えているなら、それで十分だ」
その返答に、アシュレイの背筋へ小さく何かが走る。
強い。
しかも、自分が何を言っているのか理解した上で言っている。
王を隠したいわけではない。
だが簡単に近づけるつもりもない。
「勇者殿」
後ろで監察官が低く呼ぶ。
「言葉に応じる必要は」
「黙っててくれ」
アシュレイは振り返らずに言った。
今ここで横から教義や理屈を差し込まれると、場そのものが壊れる。そういう予感があった。
監察官は黙ったが、不満は隠せていない。
リュミエラはそのやり取りを見ながら、胸の奥の冷たさがさらに濃くなるのを感じていた。
黒騎士は邪悪に見えないわけではない。
むしろ十分に恐ろしい。
近寄れば死ぬと本能が告げる種類の危険さを、まったく隠していない。
なのに、その恐ろしさが“穢れ”ではなく“秩序”の形をしている。
この場で誰を通し、誰を止め、何を越えたとみなすか。
その選別の感覚が、あまりにも明確すぎる。
それがたまらなく厄介だった。
「あなたがたには」
リュミエラが静かに呼ぶ。
ガルドの気配が、わずかにこちらへ向いた。
「ここは、まだ話合いの余地がある場所なのでしょうか」
自分でも大胆な問いだと思った。
だが聞かずにはいられなかった。
ガルドはすぐには答えない。
その沈黙が、妙に長く感じられる。
やがて返ってきた声は、やはり低く重い。
「踏み違えぬ限りは」
たったそれだけ。
だが、それが神敵の返答にはどうしても聞こえない。
アシュレイも同じ感想を持ったらしい。
ほんの一瞬、口元が動く。笑ったのではない。
ただ、“やっぱりそうか”と内心で噛み締めたような動きだった。
その時、背後の監察官が一歩前へ出た。
「踏み違える、とは何を以て」
やめろ、とアシュレイは思った。
リュミエラも同時に息を止める。
その問いは教義の側では自然なのだろう。
境界を言葉で定義したがる連邦らしい問いだ。
だがこの場でそれをやるのは、間違っている。
案の定、ガルドの周囲の空気が少しだけ沈んだ。
「貴様らが決めることではない」
黒騎士の返答は短い。
そして、その短さこそが重かった。
監察官の顔色が変わる。
反論しかけた、その瞬間。
アシュレイが一歩前へ出て、剣の柄に手を置いた。
抜くためではない。
ただ、ここで場を支えるために必要だった。
「そこまでだ」
今度は勇者が言う番だった。
監察官が目を見開く。
「勇者殿?」
「いまは、まずい」
アシュレイは前を見たまま言う。
「分からないなら、なおさら」
ガルドはその姿を見ていた。
兜の奥の視線は見えない。
だが、確かに見られている。
そしてアシュレイは理解する。
この騎士は、いまの動きで自分を測った。
周囲の言葉に流されず、場を止めたことを含めて。
「勇者」
ガルドが初めてそう呼んだ。
「軽くはないな」
低い一言だった。
アシュレイは剣の柄へ置いた手をゆっくり離す。
「そっちもな」
それが精一杯の返答だった。
数拍の沈黙。
雪原の上で、白と黒が向き合う。
剣は抜かれていない。
だが、これ以上一歩でもずれればたぶん抜かれる。そんな張り詰めた均衡がそこにはあった。
リュミエラはその中で、ひどく静かな確信を得ていた。
黒翼庭は、少なくともこの場においては、無差別の邪悪ではない。
越えたかどうか、踏み違えたかどうか、それを見ている。
それは神敵か否かというより、王の庭を守る者の振る舞いだった。
けれど、それをそのまま口にすれば連邦の中ではさらに危うい言葉になる。
だから今は何も言わない。
ガルドが最後に一度だけ、雪原の奥を背にしたまま告げる。
「今日は、ここまでだ」
命令ではない。
だが、拒めるような声音でもなかった。
ルークスが短く息を吐く。
「戻るぞ」
帝国兵たちはすぐに従う。
連邦側も、さすがにここで異論は挟まない。
いや、挟めない。
アシュレイは最後にもう一度だけガルドを見た。
黒い甲冑は動かない。
ただそこに立っているだけなのに、雪原の中心がそこへ置かれているように見える。
王の剣。
そうとしか言いようがなかった。
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戻り道、誰もしばらく口を開かなかった。
先に沈黙を破ったのはアシュレイだった。
「…リュミエラ様」
「はい」
「やっぱり、違いますね」
何がとは言わない。
だが、十分に通じた。
「ええ」
リュミエラも静かに頷く。
「ただの神敵なら、ああは立ちません」
その答えに、アシュレイは小さく息を吐いた。
やはり同じだ。
怖い。
危険でもある。
なのに、“だから神敵だ”で終わらない。
ルークスがその会話を横で聞きながら言う。
「帝国も、最初はそうだった」
率直な言い方だった。
「で、見続けたらもっと面倒になったと」
「正直で助かります」
アシュレイが苦笑すると、ルークスも少しだけ口元を歪める。
「お前も嫌いじゃない」
それだけで、帝国側と勇者の間に少しだけ信頼が生まれたのが分かった。
だが、その後ろを歩く監察官たちは違う。
彼らの顔には、先ほどのやり取りでむしろ別の確信が強まった気配がある。
言葉を持つ。
秩序を持つ。
だからこそ危険だ。
そういう方向へ。
---
その夜、異端審問局付き監察官たちの小部屋には、ひそやかな緊張があった。
「見ましたね」
「ああ」
「聖女も勇者も、完全に“違う”側へ寄った」
「だからこそ、次です」
年長の監察官が静かに言う。
「これ以上、あれを“神敵と断じきれぬ”として放置すれば、連邦内部の判断も鈍る」
「では」
「次は、境界への聖印反応をもう一段押す」
小さな沈黙。
「それは、少々」
「法王の裁可を越えぬ範囲で、だ」
またその言い方だった。
越えなければ何をしてもよい、とは言っていない。
だが、彼らはそういう含みを自分たちに与えている。
「勇者が止めれば」
「止める前に記録を取る」
「聖女が反対すれば」
「反対する理由ごと材料にする」
冷たい会話だった。
正しさの名で、少しずつ他人の逃げ場を削っていく。
連邦の怖さは、こういうところにある。
---
黒翼庭では、その密談もまた拾われていた。
セラフィナは水鏡の揺れを見つめながら、静かに微笑む。
「ええ」
優しい声だった。
「やはり、押すのは向こうですね」
彼女にとって理想的な流れだった。
聖女と勇者がなお慎重であるほど、異端審問は焦れる。
焦れた者は、やがて自分から線を踏む。
「陛下へ」
影鴉衆が問う。
「もちろん」
セラフィナは頷く。
「連邦は、もうすぐ最初の踏み違えをします」
その言葉に迷いはなかった。
---
夜更け、クロウはその報告を受けていた。
ガルドと勇者アシュレイは、剣を抜かずに向き合った。
リュミエラはなお神敵と呼ばなかった。
監察官たちは逆に押しへ傾いている。
情報だけ見れば、盤面ははっきりしている。
連邦内部の割れ目は深まっている。
次に動くのは、おそらく慎重派ではない。
異端審問側の何かだ。
「…そうか」
小さく呟く。
ヴェルミリアが横で静かに問う。
「どう返されますか」
クロウは少しだけ考えた。
まだ、こちらから刃を見せる段ではない。
だが、押してきたなら何も返さないわけにもいかない。
「踏ませる」
ぽつりと言う。
自分でも少し危ない言い方だと思った。
だが本音だった。
「ただし、踏んだのが誰かは残せ」
ヴェルミリアの瞳が細くなる。
「連邦そのものではなく、異端審問側の独断として」
「そうだ」
そこを間違えると、リュミエラやアシュレイまで一緒に切ることになる。
今はまだ、それは違う。
ヴェルミリアは深く一礼した。
「承知いたしました」
やはり一瞬で翻訳される。
助かる。
怖い。
毎回その両方だ。
「セラフィナには、“押すなら押した方が悪いような形”で整えろと伝えろ」
また少しだけ物騒なことを言ってしまった気がする。
だが今回は、かなり意図して言ってしまった。
「御意」
そう答えたヴェルミリアの声がいやに静かに響いた。
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