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配下からの信頼が重すぎる  作者: きなこもち
第2章 『聖冠連邦は黄昏を拒む』

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「聖女は神敵と呼ばない」

 

 帝国側の中継拠点へ戻った後も、境界線の空気は巡察隊の中に残り続けていた。


 白い祈祷旗が、風もないのに静かに倒れたこと。

 記録結晶に刻まれた文言が、穢れでも破損でもなく、まるで“こちらの理解だけを少しずらす”ように変質したこと。

 祈りが届かないわけではないのに、届いた先で何かが選別されているような手触りがあったこと。


 どれも決定打ではない。

 だが、決定打ではないまま、人の心へ薄く張りつく。


 それがひどく厄介だった。


 もし分かりやすく呪われ、明確な敵意が示され、祈りを拒絶されていたなら、まだ楽だっただろう。

 危険だと断じ、警戒を強め、必要なら戦う。

 そういう一直線の反応が取れる。


 だが、今の北方禁域は違う。

 拒まない。

 壊さない。

 それでいて、こちらの理解だけを僅かにずらしてくる。


 その“僅か”が、最も人を迷わせる。


 昼の会議用に割り当てられた拠点内の一室では、早くも最初の記録整理が始まっていた。


 帝国らしく、部屋は実用一辺倒だ。

 厚い木机。地図。結晶板。雪を払うための布。最低限の暖炉。

 壁に掛けられた軍用外套からは、まだ外の冷気が薄く立ちのぼっている。


 聖都の会議室と比べれば味気ない。

 だが逆に、余計な荘厳さがない分、そこに置かれた言葉の重さがそのまま見えた。

 白き都の会議室では、言葉の背後に教義や権威が透ける。

 ここでは違う。

 書かれたことが、そのまま前線の現実になる。


 記録官が結晶板を前に座り、監察官がその横で腕を組んでいる。

 ルークスは壁際。

 リュミエラとアシュレイは机を挟んで向かい合う形になった。


 誰も大声は出さない。

 だが沈黙の質が、それぞれ微妙に違っていた。


 帝国側は、見たものをどう扱うか慎重に量る沈黙。

 連邦側の監察官は、どう書けば後で有利になるかを探る沈黙。

 リュミエラとアシュレイは、見たことにまだ言葉を与えきれずにいる沈黙。


「まず、事実の確認から」


 監察官が言う。


 声は落ち着いている。

 だがその落ち着きが、逆に“先に枠組みを作りたい”意志を滲ませてもいた。

 ただ整理したいのではない。

 整理という名で、現象へ先に解釈の枠をかけたいのだ。


「祈祷旗の傾倒、記録結晶の文言変質、境界線空気の応答性。以上三点が今回の主要異常です」


「“応答性”と決めてよいのですか」


 リュミエラが静かに問う。


 監察官は一瞬だけ間を置いた。


「現時点では仮称です」


「なら、“異常反応”程度に留めるべきかと」


 淡い声だったが、きっぱりしている。


 監察官は口元を動かさなかった。

 だが不満は明らかだった。

 聖女がただ慎重であるだけではなく、文言の危険さをちゃんと理解していることが透けて見える。


「聖女様は、意図を感じておられるのでしょう?」


「感じています」


 リュミエラは否定しない。


「ですが、感じていることと、言葉として確定させることは別です」


 その一言に、ルークスが壁際でほんの少しだけ目を細めた。

 帝国の人間から見ても、その線引きは納得できるものだったのだろう。


 彼もまた、禁域の前では“感覚”の重要さを知っている。

 だが同時に、感覚をそのまま言葉へ固定した瞬間に、後戻りできなくなる危険も理解している。


「では勇者殿は」


 監察官が視線を向ける。


 アシュレイは結晶板の上の文字を見ながら答えた。


「俺は嫌な感じがした」


 ずいぶん雑な答えだった。


 監察官の眉がわずかに寄る。


「…もう少し具体的に」


「分かりやすい邪悪ではない、って意味です」


 アシュレイは顔を上げる。


「瘴気だの呪いだのなら、まだ話が早い。けど今のは違う。何かがある。しかもこっちを見てる。でも、こっちを壊すためだけに動いてる感じじゃない」


 部屋が少し静まる。


 監察官にとって、その感想は扱いづらいのだろう。

 危険だと言っている。

 だが、神敵だとも言い切っていない。

 最も面倒な言い方だ。


「それはむしろ」


 監察官がゆっくりと言う。


「高位存在による偽装、あるいは対監視誘導の可能性を示すのでは?」


「可能性はある」


 アシュレイはあっさり頷いた。


「だから見続けるんだろ」


 そこで言葉を切る。

 視線だけがまっすぐ監察官へ向く。


「でも、見る前から“それに違いない”で固めるのは違う」


 監察官は反論したそうな顔をした。

 だが、法王庁の正式方針が“神敵認定保留”である以上、ここで強く押し切るわけにもいかない。

 そのもどかしさが、逆に表情へ滲んでいる。


 リュミエラは机上の結晶板へ視線を落とした。


 ――静かに応答。


 その四文字が、まだ薄く残っている。


 汚染ではないのかもしれない。

 穢れでもないのかもしれない。

 そう思いたいからそう見えるのではなく、むしろそう見えてしまうのが怖い。


 まるで、こちらが記録したつもりの言葉の方が、少しだけ向こうに触れてしまっているようだった。

 破壊ではない。

 侵食とも少し違う。

 理解が、ほんの半歩だけ向こう側へ引かれる。


「聖女様」


 ルークスが初めて口を開いた。


「聞いても?」


「はい」


「あなたは、“神敵ではない”と思ってるんですか」


 直球だった。

 帝国の男らしい問いだと思う。


 連邦ならもっと回りくどく、“現時点での神学的整理としては”だの“断定を避ける理由としては”だのと飾るところだ。

 だがルークスは違う。

 核心だけを抜いて投げてくる。


 リュミエラは少しだけ考え、それから答えた。


「いいえ」


 部屋の空気がわずかに動く。


「“神敵ではない”とも、まだ思っていません」


 正確に言い直す。


「ただ、“もう神敵だ”とも言えないのです」


 ルークスはしばらく黙っていたが、やがて短く頷いた。


「なるほど」


 それだけだった。


 だが、無駄に言葉を継がないところがありがたい。

 この男は、分からないなら分からないで一度置いておけるタイプなのだ。


「今日のところは、そこまででいい」


 彼は監察官へも視線を向ける。


「境界線は初日だ。見えたものを勝手に育てるな」


 監察官は明らかに不満だったが、帝国の拠点内で帝国側の実質責任者に真正面から逆らうほど愚かでもないらしい。


「承知しております」


 口調だけは丁寧だった。


 だがその声音を聞いた瞬間、リュミエラはむしろ嫌な予感を強めた。

 この手の人間は、“承知”した後で別のところから回す。

 表で従い、裏で解釈を積む。

 そういう動き方をする。


 ---


 夕刻。


 宿営地の外れには、帝国側が仮設で設けた小さな祈祷区画があった。


 連邦の巡察隊に配慮して作られたらしい。

 石を円く並べ、その中央に簡素な祭壇を置き、雪除けの幕を張っただけの質素なものだ。

 木枠も粗く、布も軍用の厚手のものを流用している。

 聖都の小祈祷室のような清らかな整いはない。


 だが、質素だからこそ誤魔化しがない。

 見栄えのためではなく、必要だから置かれた祈りの場所だった。


 リュミエラはそこへ一人で入った。


 誰にも言われたわけではない。

 ただ、改めて祈りの通り方を確かめたかった。


 祭壇の前へ立ち、目を閉じる。

 いつも通りの祈りを捧げる。

 言葉は同じ。

 呼吸も同じ。

 心の整え方も変えない。


 だが、やはり違う。


 届いている。

 拒絶されてはいない。

 けれど“真っ直ぐ届いている”感じが薄い。


 まるで、水の上へ糸を落としているような感覚だった。

 沈みもしない。

 弾かれもしない。

 ただ、どこかで揺れている。


 その揺れの奥に、またあの感覚があった。


 見られている。


 しかも、以前より近い。


 リュミエラは目を開いた。


 幕の向こうに、雪原がある。

 風は弱い。

 空は鈍く曇っている。

 帝国拠点の木柵も、兵の影も、遠くではただの静かな輪郭にしか見えない。


 何も見えない。


 だが、見えないということが逆に輪郭を持って迫ってくる。


「…あなたは」


 小さく声が漏れる。


「何故、拒まないのですか」


 それが、今の彼女にとって最も大きな違和感だった。


 邪悪なら、祈りを嫌うはずだ。

 聖なるものを拒絶し、穢し、断ち切ろうとするはずだ。


 なのに北の何かは、そうしない。


 通す。

 ただし、そのままでは通さない。


 それはまるで、こちらの祈りを見た上で、“ここまではよい”と選別しているような感覚だ。


 そんなものを、どうやって単純に神敵と呼べばいいのだろう。


 その時、幕の外で足音が止まった。


「聖女様」


 アシュレイだった。


 リュミエラが振り返ると、彼は外套の肩に雪を少し載せたまま立っていた。

 昼間より少し顔色が沈んで見えるのは、疲れのせいだけではないのだろう。

 彼もまた、境界線の手触りを内側へ持ち帰ってしまっている。


「お邪魔でしたか」


「いいえ」


 リュミエラは首を横へ振る。


「どうなさいました」


「少し、気になって」


 曖昧な言い方だった。

 だが、たぶん本当にそれ以上ではないのだろう。

 彼はこういう時、余計な理由づけをしない。


 アシュレイは幕の端へ寄り、外を見た。


「やっぱり、ここでも違うんですね」


「はい」


 リュミエラは答える。


「祈りは届きます。ですが…」


「真っ直ぐじゃない」


「ええ」


 アシュレイは腕を組む。


 剣士である彼には、祈りそのものの質は分からない。

 だが“真っ直ぐではない”という感覚なら、たぶん剣でも同じなのだろう。

 振れば届く。

 だが届いた先で、その意味だけをずらされる。

 そんな嫌さを、彼なりに感じ取っているのかもしれない。


「さっき、隊の何人かと話してました」


「はい」


「もう“やっぱり神敵だ”って言いたがってるのがいる」


 リュミエラは少しだけ目を伏せた。


「そうでしょうね」


「でも、俺は逆に難しくなった」


 アシュレイの言葉は率直だった。


「本当に神敵なら、もっと楽なんです」


 その一言は、ひどく正直だった。


「嫌な相手だ、危ない相手だ、斬るしかない――それならまだ分かる。けど今のは違う。こっちを見てる。通すものと通さないものを選んでる。そういう相手を、ただの邪悪って呼ぶのは…」


「違う」


 リュミエラが静かに引き取る。


「はい」


 アシュレイは頷いた。


 その時、幕の向こうで風が少しだけ鳴った。


 同時に、祭壇の上に置いていた小さな聖燭の火が、ふっと細くなる。


 消えない。

 だが、弱くなる。


 二人は同時にその火を見る。


「…いま」


 アシュレイが低く言う。


「ええ」


 リュミエラも分かっていた。


 火は風で揺れたのではない。

 何かに“覗かれた”ように細くなったのだ。


 それは攻撃ではない。

 妨害とも少し違う。

 ただ、こちらの祈りと火を、向こうが一瞬だけ指先でなぞったような変化だった。


 そして次の瞬間、聖燭の火は再び元へ戻る。


 ほんの一瞬だった。

 だが、それで十分だった。


 ここにいる何かは、ただ境界線の地形や空気だけを操っているのではない。

 祈りそのものも見ている。


 アシュレイが、小さく息を吐いた。


「…嫌な感じだ」


「はい」


「でも、やっぱりそれだけじゃない」


 リュミエラはその横顔を見る。


 勇者もまた、同じ場所に立っている。

 怖れている。

 だが、そこから先に“だから神敵だ”へ飛ばない。


 そのことが、今は少しだけ心強かった。


「勇者殿」


「何でしょう」


「もし、この先で本当に“神敵”と呼ぶしかないと思った時は」


 そこでリュミエラは少しだけ間を置いた。


「私は止めません」


 アシュレイは驚かなかった。

 むしろ、当然だと分かっている顔だった。


「はい」


「けれど、まだ違うと思ううちは」


 アシュレイが静かに続ける。


「俺も、簡単には振りません」


 短い約束だった。

 だが、それで十分だった。


 連邦の中で、少なくともこの二人は、まだ見ようとしている。


 ---


 だが、その“まだ見ようとしている”を快く思わない者も、すぐ近くにいた。


 祈祷区画から少し離れた雪除け幕の陰で、異端審問局付きの監察官が二人、低く言葉を交わしていた。


「見ましたか」


「ああ」


 彼らもまた、祈りと聖燭の変化を見ていた。


「聖女はなお慎重、勇者も同様」


「厄介ですね」


「だからこそ、確証が要る」


 監察官の一人が言う。


「いまの段階では、彼らは“断じきれない”を根拠に保留し続ける」


「なら、どうします」


 少しの沈黙。

 それから、より年長の監察官が低く言った。


「祈祷具の反応条件を、次は少しだけ押してみる」


 その一言で、空気が変わる。


「よろしいのですか」


「法王猊下の裁可を越えぬ範囲でだ」


 綺麗な言い回しだった。

 つまり越えなければよいという理屈で、かなり危ういところまでやる気なのだ。


「聖女と勇者が“まだ違う”と思うなら、違うと言い切れなくなる状況を作ればいい」


 その発想が、もう危うい。


 だが本人たちには自覚が薄い。

 秩序のために必要な押しだと思っているからだ。


 連邦の怖さは、いつもそこにある。

 正しさの名で、現実の方を押し曲げようとする。

 しかもそれを善意と責務の延長だと信じているから、なおさら厄介だった。


 ---


 夜、黒翼庭。


 セラフィナは上がってきた報告を聞き終えると、しばらく何も言わなかった。


 白き巡察隊の一日。

 リュミエラの祈り。

 アシュレイとの会話。

 聖燭の変化。

 そして監察官たちの密談。


 水鏡の上を、それらの断片が静かに流れていく。

 白い幕。

 小さな祭壇。

 細くなった火。

 勇者の横顔。

 聖女の沈黙。

 監察官の口元の硬さ。


「やはり」


 ようやく口を開く。


「早いですね」


 声音はやわらかい。

 だが、その奥には冷えた確信があった。


「聖女と勇者は、なお“違う”側へ寄る。なら、異端審問はそれを崩しに来る」


 当然の流れだ。

 だからこそ、扱いやすい。


「陛下へ報告を」


 影鴉衆が深く頭を垂れる。


「はっ」


 セラフィナは白い指先で、水鏡へ映るリュミエラの姿をそっとなぞるように見た。


「光はまだ、自らを急がせていません」


 その次に、アシュレイの姿へ目を移す。


「剣もまた、まだ決めていない」


 最後に、監察官たちの暗い会話の残響へ視線を落とす。


「ならば」


 微笑みが少しだけ深くなる。


「押すのは向こうです」


 こちらはまだ、最後の慈悲を残している。

 だが、向こうが勝手にその余地を踏み潰すなら話は変わる。


 セラフィナにとって、それは“待つに値する良い流れ”だった。

 こちらから無理に断罪へ持っていく必要はない。

 相手が自ら越えるなら、その方がずっと整う。


 ---


 その夜更け。


 クロウのもとへも報告が届けられる。


 リュミエラはなお慎重。

 アシュレイも同様。

 監察官は、次で少し押すつもりらしい。


 報告を聞いたクロウは、しばらく黙っていた。


 やはり、そうなるか。


 連邦は一枚岩ではない。

 だが、慎重な側がいればいるほど、強引な側はそれを嫌って押し始める。

 曖昧さを保とうとする力があるほど、逆に“早く定義したい”力も強くなる。

 この種の綱引きは、だいたいそういう形で悪化する。


「…まだだ」


 小さくそう言う。


「まだ、こちらからは動くな」


 それはセラフィナへの命でもあり、自分自身への確認でもあった。


 まだ、連邦には選ぶ余地がある。

 聖女も勇者も、まだその余地の内側にいる。

 なら、今ここで刃を見せるべきではない。


 だが同時に、次に押してくるのが監察官たちだということは、もう見えてしまっている。


 面倒だ。

 だが、ここまで見えているなら、逆に対処はしやすい。


「…押すなら、押した方が悪い形にしてやるか」


 ぽつりと漏れる。


 すると、横に控えていたヴェルミリアが静かに頭を垂れた。


「承知いたしました」


 違う。

 今のは独り言に近い。


 だが、もう遅い。


「連邦には、なお選び直す余地を残したまま。異端審問側には“越えた”という事実だけを積ませるべきですね」


 綺麗に解釈された。


 クロウは小さく息を吐く。

 結果的にはそうだ。

 そうなのだが、こうも早く翻訳されると本当に心臓に悪い。


「過剰にやるな」


 それだけは先に言う。


「はい」


 ヴェルミリアはすぐに頷いた。


「ですが、越えた者の足跡だけは消しません」


 それは、怖気を感じるほどの冷たい声だった。




最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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