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配下からの信頼が重すぎる  作者: きなこもち
第2章 『聖冠連邦は黄昏を拒む』

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「聖女との間には、まだ…」

 


 白き都セラフィスの夜は、静かに深い。


 昼のあいだ人々の祈りと足音を受け止めていた白い石は、夜になると別の顔を見せる。

 冷たく、透き通るようでいて、どこか夢の内側めいているのだ。

 昼のセラフィスが“見られる都”だとするなら、夜のセラフィスは“聞かれる都”だった。

 人々の声は引き、鐘の余韻と祈りの残り香だけが壁や柱のあいだへ沈んでいく。

 だからこそ、小さな違和感ほどよく響く。


 大聖堂の奥にある小祈祷室は、その夜も灯りを落としていた。


 大きな聖堂とは違い、ここは少人数のための空間だ。

 高い天井はあるが威圧感はない。

 壁の浮き彫りも簡素で、中央の祭壇も、民衆へ見せるための豪奢さではなく、祈る者が集中するための静けさで整えられている。

 この部屋には、法王庁の会議室とも、大聖堂の公的な荘厳とも違う空気がある。

 信仰を“示す”ためではなく、信仰へ“戻る”ための部屋。

 リュミエラが一人になりたい時、自然と足が向くのはいつもここだった。


 祭壇の前に、リュミエラは一人で跪いていた。


 補佐の修道女も下がらせている。

 夜更けの祈りは、時に誰の声もない方がよい。


 胸の前で組んだ指先は白い。

 法衣の袖口に落ちる術灯の光も静かだ。

 目を閉じれば、自分の呼吸の音さえ少し遠くなる。


「光神ルミナスよ」


 小さく祈りを紡ぐ。


「どうか、曇りなき眼を」


 それはいつもの祈りでもあり、今夜だけの祈りでもあった。


 人を守るための強さ。

 傷つけぬための優しさ。

 それらも大事だ。


 だが今のリュミエラに必要なのは、たぶんそれだけではない。

 怖いからといって先に名を置かず、かといって怖れから目も逸らさないための眼。

 それがほしかった。


 北方禁域。


 その名を思い浮かべるだけで、胸の奥に静かな冷たさが落ちる。

 嫌悪ではない。

 忌避でもない。

 もっと輪郭の曖昧な、けれど確かに“近づいてはいけないものへ意識が触れた時”の冷たさ。


 ただ、それだけでは終わらない。


 リュミエラは、自分がまだ北を神敵と呼べない理由を、ここ数日ずっと考えていた。


 怖いのに。

 危険かもしれないのに。

 帝国すら慎重になっているほどの何かであるのに。


 それでもなお、言い切れない。


「何故なのでしょう」


 祈りの合間に、小さく言葉が漏れる。


 答えはすぐには出ない。


 だが、考え続けるうちに、少しずつ輪郭だけは見えてきていた。


 もし北にいるものが本当にただの災厄なら、人はもっと楽にそれを憎めるはずだ。

 もっと単純に、恐れを怒りへ変えられるはずだ。

 なのに帝国は、怖れたまま止まり、見続けることを選んだ。

 法王もまた、名付けを急がなかった。

 勇者アシュレイも、見なければ斬れないと言った。


 つまり、自分だけではない。


 北の何かは、人に“簡単な判断”を許していない。


 そのこと自体が、リュミエラにとっては重要だった。


 神敵であるなら、いずれそう呼ぶべきだ。

 必要なら戦うべきだ。

 彼女はそこから逃げたいわけではない。


 けれど、まだ違う可能性があるなら。

 ただ恐ろしいからという理由だけで、その名を置いてしまえば。

 その後に見えるものすべてが、最初に置いた名へ従って形を変えてしまう。


 信仰は人を救う。

 だが、信仰の言葉が先に結論になる時、人は見たいものしか見なくなる。


 その怖さを、リュミエラは知っていた。


 聖女であるということは、ただ祈りが深いだけでは務まらない。

 人々が何を求め、何を信じたがり、どんな時に“正しさ”の名で残酷になれるのかを見る立場でもあるからだ。

 祈りは人を高める。

 だが同時に、祈りの名を借りて人はどこまでも自分に都合のよい結論へ近づける。

 そのことを知らないほど、リュミエラは無垢ではなかった。


「だから…急ぎたくないのですね」


 ようやく、自分の中へ少しだけ言葉が落ちる。


 怖いから急ぎたくないのではない。

 怖いからこそ、言葉を急ぎたくない。


 そこでようやく、息がひとつ深くなった。


 ---


 祈祷室を出たのは、かなり遅い時刻だった。


 白い回廊にはもう人の気配が少ない。

 遠くで夜番の足音が響く程度で、あとは燭台の灯が石壁へ淡く揺れているだけだ。

 この時間の法王庁は、不思議なほど軽く見える。

 昼には権威と秩序で満ちている回廊が、夜にはただの白い石の道へ戻る。

 けれど、その軽さの下にある重みを、リュミエラは知っている。

 昼に交わされた言葉も、決められなかったことも、保留された危惧も、全部この静けさの下に沈んでいる。


 リュミエラは窓辺の前で足を止めた。


 黒翼庭は見えない。

 正確には、方角としては分かるが、この都から禁域そのものが見えるわけではない。

 それでも、夜になるとついそちらへ目が向く。


 静かすぎる空だった。


 白い都の上空は薄い雲に覆われ、月はときどきその向こうで輪郭を曖昧にする。

 昼間は清らかに見えるこの都も、夜の下では少しだけ脆く見えた。


「リュミエラ様」


 補佐の修道女が、回廊の先で一礼する。


「お休みの前に、明朝の巡察準備について確認を」


「ええ。今行きます」


 そう返しかけた、その時だった。


 胸の奥へ、またあの感覚が落ちる。


 冷たい。

 けれど凍るような冷たさではない。

 もっと深いところへ触れられるような、静かな感覚。


 リュミエラの呼吸が、ほんのわずかに止まる。


 見られている。


 回廊には誰もいない。

 夜番は遠い。

 修道女はまだ向こうだ。


 なのに、今だけはっきりと分かった。


 こちらが北を見ているのではない。

 北の側が、こちらを見ている。


「…あなたは」


 声にならない問いが、喉の奥で形になる。


 敵意はない。

 だから安心できるわけでもない。


 もし憎しみや殺意なら、もっと楽だっただろう。

 危険だと決めて、祈りで距離を取り、必要なら剣を求めればいい。


 だがこれは違う。


 測られている。

 もっと言えば、見極められている。


 その感覚が、妙に心へ残った。

 強く押し込まれるわけではない。

 だが、その分だけ逃げ場がない。

 相手はただこちらを知ろうとしている。

 その知ろうとする静けさが、かえって恐ろしかった。


 リュミエラは無意識に、胸元の聖印へ触れる。


 祈りを返すべきかと思った。

 拒むべきかとも思った。

 だが、どちらも違う気がした。


 北の何かは、今、戦いを求めていない。

 少なくとも、この感覚はそうではない。


 ならば自分がここで返すべきものも、恐れでも断罪でもない。


「…まだ、分かりません」


 誰へともなく、そう呟く。


「ですから、勝手に決めないでください」


 その言葉が誰へ向けたものなのか、自分でも少し曖昧だった。


 北の王へか。

 自分自身へか。

 あるいは、この都の中で神敵の名を急ぐ者たちへか。


 補佐の修道女がこちらへ近づいてくる音で、感覚はふっと薄れた。


 見られている気配も消える。


 けれど、今あったものは気のせいではない。

 たぶんもう、二度と気のせいとは言えない。


「リュミエラ様?」


 修道女が心配そうに問いかける。


「どうかなさいましたか」


「…いえ」


 リュミエラは手を離し、いつもの静かな顔へ戻る。


「少し、考えごとを」


 それは嘘ではない。

 ただ、考えている内容を言葉にするには、まだ早かった。


 ---


 翌日。


 法王庁の一角では、巡察準備が目に見えて進み始めていた。


 記録官が結晶板の保護布を数え、監察官が携行文書の封を確認し、聖騎士たちが長旅用の軽装へ祈祷印を縫い付けている。

 廊下には物資が並び、補助修道士たちが静かに行き交う。

 見た目は整然としている。

 だがその整然さの下に、張り詰めた緊張がある。


 巡察とは名ばかりで、誰もが分かっているのだ。

 これから行く先が、ただの巡礼路ではないことを。

 しかもこの巡察は、旅立つ前からすでに始まっている。

 何を持っていくか、誰が同行するか、どういう文言で記録するか。

 その一つひとつが、現地で何を見るかの輪郭を先に作ってしまうからだ。


 リュミエラがその準備の様子を見ていると、横から声がした。


「聖女様」


 アシュレイだった。


 今日はすでに軽い旅装に着替えている。

 白を基調にしつつも動きやすい形でまとめられ、腰の剣も儀礼用ではなく実戦用だ。

 英雄らしい華やかさは残しながら、ちゃんと戦う人間の姿に見える。

 法王庁の中ではどうしても“勇者”という役割が先に見える。

 だがこうして実戦に近い装いをしていると、その役割の奥にいる若い剣士そのものが見えてくる。


「勇者殿」


「準備は順調そうですね」


「ええ。皆、早いですから」


 リュミエラが答えると、アシュレイは小さく笑う。


「こういう時の連邦は、本当に早いですね」


 少しだけ皮肉が混ざっていた。


「悪いことではないのですが」


「はい」


「ただ、時々“早すぎる”とも思います」


 その言い方に、リュミエラもほんの少しだけ口元を和らげた。

 この勇者は、やはり見えている。

 ただ国の勢いへ流されているわけではない。


「昨夜」


 アシュレイが少し声を落とす。


「聖女様が仰っていた、“見られた感覚”ですが」


 リュミエラは頷いた。


「はい」


「俺にはまだありません」


 率直だ。


「でも、似たものはあります」


「似たもの?」


「北のことを考えていると、時々“考え返されている”ような気分になる」


 不器用な言い方だ。

 だが、その不器用さの方が嘘がない。


 リュミエラは少しだけ驚き、そして納得する。


「…分かります」


 二人の間に、小さな沈黙が落ちる。


 そこへ、別の足音が近づいてきた。


 異端審問局付きの監察官だった。

 三十代半ばほどの男で、法衣の上へ黒に近い灰色の外套を羽織っている。

 表情は丁寧だが、目だけが妙に冷たい。

 礼儀は完璧だった。

 だが、その完璧さがかえって人間味を薄くしている。

 こういう相手はいつも、言葉の中へ先に結論を忍ばせる。


「聖女様、勇者殿」


 一礼はきれいだ。


「巡察に関わる記録の整合の件で、後ほど少々お時間を」


 アシュレイが軽く眉を寄せる。


「記録の整合?」


「はい」


 監察官は穏やかに答える。


「祈祷具の扱い、監視結果の保存形式、対外報告へ載せる文言の統一など、早めに揃えておくべきことがございますので」


 もっともな言い方だった。

 だが、リュミエラには分かる。


 この男は、ただ整えたいのではない。

 “どう見たことにするか”を今のうちから決めたいのだ。


「分かりました」


 リュミエラは静かに答える。


「ただし、現地で見たものを削るつもりはありません」


 監察官の目がわずかに細くなる。


「もちろんですとも」


 その返答に、アシュレイは少しだけ不機嫌そうな顔をした。

 彼もたぶん、同じ違和感を持ったのだろう。


 監察官が去った後、アシュレイが小さく言う。


「始まってますね」


「ええ」


 リュミエラも頷く。


「まだ行く前なのに」


 その“まだ行く前なのに”が、この巻の連邦らしさだった。


 見てから決める者たちと、見る前から枠を作りたがる者たち。

 巡察そのものが、すでにその綱引きの場になり始めている。


 ---


 一方その頃、黒翼庭では。


 セラフィナが監視室の片隅で、白い都から上がる断片を静かに整理していた。


 リュミエラの夜の祈り。

 アシュレイとの短いやり取り。

 監察官の介入。

 巡察準備の進行。


 どれも小さな動きだ。

 だが、小さいからこそ人の本質が出る。


「聖女は、やはり光を急がぬ」


 小さく呟く。


 彼女は恐れている。

 けれどその恐れを、すぐ神敵という言葉へ変えようとはしない。

 その点で、連邦という国の中ではかなり例外的だ。


「勇者は、聖女と同じ違和感を持ち始めています」


 影鴉衆の報が続く。


「ただし言語化はまだ不完全かと」


「十分です」


 セラフィナは微笑む。


「人は、自分の違和感を一度他者と共有すると、そこへ後戻りしづらくなりますから」


 そして異端審問局付きの監察官の動きも拾われていた。


「監察官は、記録文言の整合を名目に現地解釈へ先回りしようとしています」


「やはり、そこからですね」


 セラフィナの声が少しだけ冷える。


 見たものではなく、見たことにする言葉を先に揃える。

 実に連邦らしい。

 だからこそ、黒翼庭と相性が悪い。


 なぜなら黒翼庭は、陛下が何を見て、何を見ないかで動くからだ。

 外の言葉で先に定義されることを、最も嫌う陣営と言ってもいい。


「陛下」


 セラフィナは視線を上げる。


 その先にはいない。

 だが、報告相手は常に明確だった。


「白き都は、もうすぐ北へ参ります」


 その声音はやわらかい。


「そしてその道中で、すでに自らの正しさを持ち込み始めています」


 やがて、その正しさは北方禁域の沈黙とぶつかる。

 ぶつかった時、割れるのはどちらか。

 あるいは、どちらも少しずつ欠けるのか。


 セラフィナは薄く笑う。


「楽しみですね」


 やはりその言い方は優しい。

 だからこそ、ひどく冷たい。


 ---


 夜、白き都セラフィス。


 リュミエラは再び窓辺に立っていた。


 昨夜と同じ方角を見る。

 黒翼庭は見えない。

 それでも、そこに何かがあるともう知ってしまった。


 怖い。

 だが、目を逸らしたくはない。


 神敵かもしれない。

 それでも、まだ違うかもしれない。


「…明日ですね」


 そう呟く。


 北へ向かえば、きっと何かが変わる。


 この都の中だけで言葉を回していた時とは違う。

 境界線の空気へ触れれば、もう後戻りはしにくい。

 見る前の議論では守れていた曖昧さも、現地では別の重みを持つだろう。


 そして、その時に何を見るのか。

 何を見てしまうのか。


 リュミエラは胸元の聖印をそっと握った。


「どうか」


 祈りというより、願いに近かった。


「見るべきものを、見誤りませんように」




最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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また、ブックマークや感想も今後の執筆の支えになります。

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