「勇者の違和感」
勇者アシュレイの朝は、だいたい剣から始まる。
それは信仰心が薄いからではない。
むしろ逆だ。
祈りだけでは守れないものがあると知っているから、体を動かす。
剣を振る。
汗を流す。
そうしてようやく、自分が今日も“勇者”でいられる気がするのだ。
聖冠連邦アルディウスの勇者居館に付属する稽古場は、朝の光をよく通す造りになっていた。
高い天井。
白い柱。
整えられた砂床。
壁際には訓練用の木剣と槍、それに実戦用の武具が順番に並んでいる。
聖都の他の建物と比べれば簡素だが、その簡素さがかえって落ち着いた。
余計な飾りがない場所は好きだった。
剣は剣として、体は体として、はっきりそこにあるからだ。
祈りの場では時に、人は自分の役割へ寄りすぎる。
だが稽古場では誤魔化せない。
振りが鈍ければ鈍いと分かるし、足が死ねばその場で届かない。
それがよかった。
アシュレイは一人、木剣を振っていた。
踏み込みは深くない。
だが浅くもない。
必要以上に力まず、必要なところだけ速い。
見栄えのする演武ではなく、実際に人を斬るための動きだった。
白い息が薄く出る。
額に汗が滲む。
木剣が風を切る音だけが、広い稽古場に淡く残る。
踏み込み。
返し。
斜めに払って、止める。
止める位置に無駄がない。
誰も見ていない時ほど、その人間の剣筋は本性に近づく。
アシュレイの剣は真っ直ぐだった。
だが、単純ではなかった。
真っ直ぐ進むために、どこで止まり、どこで残し、どこで余白を作るべきかを知っている剣だった。
最後の一振りを終え、木剣を下ろす。
そこでようやく、朝の静けさが戻ってきた。
外では聖都の鐘が低く鳴り、人々の朝がもう始まっている。
白い都は、今日も何事もない顔で目を覚ましている。
だが、その何事もない顔の下で、北方禁域の名が少しずつ重みを持ち始めていることを、アシュレイはもう知っていた。
「…黒翼庭、か」
誰に聞かせるでもなく呟く。
ここ数日、その言葉が頭から離れない。
北方禁域。
帝国の監視強化。
夜空の異変。
黒翼の王。
神敵かもしれない何か。
どれもまだ断片だ。
だが断片だからこそ、かえって気持ちが悪い。
もし本当にただの邪悪なら、もっと分かりやすく現れるはずだ。
街を焼く。
人を呪う。
祈りを拒絶する。
聖なるものへ唾を吐き、明確に人の敵として立つ。
そういう、勇者として分かりやすい形で来るならまだいい。
斬るべきものとして斬れるからだ。
そこに迷いは生まれない。
だが今、北で起きていることは妙に静かすぎる。
帝国が慌てていないのも、そこが気になる理由の一つだった。
あの国は、怖ければ剣を向けるし、押せると思えばすぐ押す。
そんな帝国が、慎重に“見続けている”。
それはつまり、まだ簡単な敵と決められていないということだ。
「辛抱が足りんな」
自分に向けてそう言う。
結論を急ぎたがる雰囲気のせいなのか。
それとも、理由が見えないまま違和感だけで留まっている自分の忍耐力が足りないのか。
どちらかはまだ分からない。
木剣を壁際へ戻そうとした時、稽古場の入口で人の気配が止まった。
「勇者殿」
聖騎士の一人だった。
年はアシュレイより少し上。
連邦の正規聖騎士らしく、背筋がきれいに伸び、声にも無駄がない。
だが、稽古中の勇者へ声をかける時だけは少しだけ気を遣っているらしい。
その“少しだけ”が、かえって親しみを感じさせた。
「何だ、ラドス」
「法王庁より、巡察準備の概要が届きました」
アシュレイは木剣を戻し、近くの長椅子へ腰を下ろした。
汗で湿った前髪を手の甲で払いながら言う。
「見せてくれ」
ラドスが差し出した紙束を受け取る。
巡察隊の構成。
同行司祭。
記録官。
巡礼監察院の担当者。
聖騎士団からの護衛。
必要に応じた祈祷具と結界器具の搬送。
北方街道での帝国側との折衝役。
休泊予定地。
そして、アシュレイとリュミエラの同行。
「本気だな」
紙から目を離さずに言う。
法王庁がこの布陣を出すなら、もう“ただの確認”ではない。
慎重に見極めるつもりではあるが、それでも北方禁域をかなり重い案件として扱っている。
外へ見せる名目は巡察でも、中身は半ば公式使節に近い。
しかも、見に行くのはただの役人ではなく、連邦における象徴そのものだ。
「異端審問局の監察官も同行するそうです」
ラドスが言った。
アシュレイは小さく息をつく。
「だろうな」
そこは想定通りだった。
グラウスが、自分たちだけ素直に見に行かせるはずがない。
記録の整合だの聖具の管理だの、名目はいくらでも作れる。
あの男はたぶん、“見に行く”という行為そのものを、自分に有利な証拠集めの場へ変えたいのだろう。
「勇者殿は」
ラドスが少しだけ言いづらそうに口を開く。
「本当に行かれるおつもりなのですか」
アシュレイは顔を上げる。
「おかしいか」
「いえ」
ラドスはすぐに首を横へ振った。
「ただ…危険です。もし本当に神敵の類であれば、勇者殿を最初から前へ出す必要は…」
「必要があるかどうかは、行って見て決める」
アシュレイはそう返した。
「見る前から、俺が行くべきかどうかまで決まってるのは嫌なんだ」
それは性分だった。
勇者だから前へ出る。
勇者だから神敵を斬る。
そういう期待があるのは分かるし、否定もしない。
だが、その役割が先にありすぎると、目の前の現実まで役割に合わせて見てしまう気がする。
アシュレイはそれが嫌いだった。
剣を持つ以上、最後には斬ることもある。
だが、斬るために最初から相手をその形へ押し込めるのは、剣の仕事ではないと思っている。
ラドスはしばらく黙っていたが、やがて言った。
「…勇者殿らしいですね」
「それ、よく言われるが便利な言葉だよな」
アシュレイは少しだけ笑う。
「褒める時にも、困った時にも使える」
ラドスもわずかに口元を緩めた。
「では、今回はどちらで使えば」
「困ってる方だろ」
即答すると、ラドスは今度こそ小さく笑った。
そういう笑いが出る程度には、勇者居館の空気は外よりも人間くさい。
白き都の中でもここだけは、少しだけ肩の力が抜ける。
アシュレイは紙束を膝の上で軽く叩く。
「連邦はたぶん、黒翼庭を“神敵”にしたい奴と、まだ違うと感じてる奴で割れる」
「はい」
「帝国は逆だ。最初に見た分だけ慎重になってる」
「ええ」
「だから余計に、見ないで決めるのが嫌なんだ」
ラドスは返事をしなかった。
その沈黙は、否定ではない。
勇者が何を考えているか、自分の中へちゃんと入れている沈黙だった。
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稽古を終えた後、アシュレイはそのまま居館の回廊を歩いていた。
白い壁。
広い窓。
遠くで鳴る鐘。
磨かれた床へ射し込む、朝の細い光。
聖都の朝はやはりきれいだ。
だがきれいなだけに、今この都の中で静かに進んでいる“名前を置こうとする空気”が、妙に目立たず広がっているのも感じる。
神敵。
その言葉を一度置けば、後は楽になる。
何を見ても“やはり神敵だ”と言えるからだ。
だからこそ危ない。
アシュレイはそう思う。
だがその危うさを、うまく言葉にできるほど器用でもない。
自分は学者ではないし、聖職者でもない。
あくまで剣の側の人間だ。
だから結局、見るしかない。
「勇者殿」
ふいに聞き慣れた、だがさっきまでとは違う柔らかな声がした。
リュミエラだった。
聖女は回廊の窓辺に立っていた。
白い法衣の裾を光が淡く透かし、肩口の刺繍だけがごく控えめに輝いている。
柔らかく見えるのに、その立ち姿には妙な芯があった。
周囲が彼女を聖女として扱うからそう見えるのではなく、彼女自身が静かに立っているだけで、そこが少しだけ“祈りの場”へ変わるのだ。
「聖女様」
「先ほど、法王庁より正式に通達がありました」
「巡察の件ですね」
「はい」
リュミエラは頷いた。
その表情は落ち着いている。
だが昨夜と比べれば、やはり少しだけ緊張しているのが分かった。
怖くないわけではないのだろう。
当然だ。
怖くない方がおかしい。
「勇者殿は、本当に北へ向かわれるのですね」
「そのつもりです」
アシュレイが答えると、リュミエラは小さく息をついた。
それは安堵にも、心配にも聞こえる。
自分一人ではないと分かった安堵と、本当に始まってしまうのだという緊張が、一緒になった吐息だった。
「何か気になることでも?」
そう問うと、聖女は少しだけ迷ってから口を開いた。
「…昨夜、祈りの後に黒翼庭を感じました」
アシュレイは黙って聞く。
「見た、というほどはっきりしたものではありません。けれど、祈りに手を伸ばした時、逆にこちらが見られたような感覚があったのです」
その言葉に、アシュレイはほんの少しだけ目を細めた。
「敵意は」
「はっきりとは」
リュミエラは首を横へ振る。
「怖さはありました。ですが、憎しみや飢えのようなものではなく…」
「測られていた?」
アシュレイが言うと、リュミエラの瞳がわずかに揺れた。
「…はい。その感覚に近いです」
それだ。
帝国の報告にも、似たような気配があった。
見られている。
ただの怪異ではなく、意志を持つ何かに。
リュミエラは続ける。
「だからこそ、怖いのです」
声は静かだ。
「ただの邪悪なら、もっと分かりやすいでしょう。なのに、そうではないかもしれない。そこが、いちばん恐ろしい」
その言い方に、アシュレイは妙に納得した。
剣を向ける相手なら、まだ楽だ。
目の前に立ち、殺し合えばいい。
だが“まだ何者とも定まらないのに、こちらを見ている”というのは、確かに別種の怖さがある。
「聖女様は、黒翼庭をどう思ってます」
率直に聞いてみる。
リュミエラはすぐに答えなかった。
窓の外、白い都の尖塔を見つめ、それから静かに言う。
「神敵であってほしくない、とは思っていません」
その返答は意外だった。
だが、続きで納得する。
「神敵であるなら、そう呼ぶべきです。必要なら戦うべきです」
そこに迷いはない。
この聖女は甘いだけではないのだ。
「でも、まだ違う可能性があるのなら、先にその言葉を置きたくない」
「…なるほど」
アシュレイは頷く。
やはり、この人は分かっている。
ただ優しいから迷っているわけではない。
言葉が先に真実を歪める怖さを知っているのだ。
「俺も似たようなものです」
アシュレイが言う。
「嫌な相手なら斬れます。邪悪な相手でも、たぶん斬れます。でも、まだ見てもいないのに“斬るべきもの”として剣を持っていくのは、何か違う」
リュミエラが少しだけ表情を緩めた。
「同じことを考えてくださる方がいて、少し安心しました」
「それは俺の台詞でもあります」
正直なところだった。
法王庁の会議室で、自分と同じ方向の違和感を言葉にしてくれたのがリュミエラだった。
あの場で彼女がいなければ、アシュレイも今ほど素直に“見る前に決めたくない”とは言いづらかったかもしれない。
短い沈黙の後、アシュレイは少しだけ笑って言う。
「まあ、行ってみれば分かるかもしれません」
「はい」
「本当に神敵なら、たぶん見れば分かる」
「ええ」
「そうじゃないなら――」
そこで言葉が止まる。
そうじゃないなら、何なのか。
そこはまだ自分にも分からない。
リュミエラはその続きを求めなかった。
「その時は、その時に考えましょう」
穏やかな返答だった。
だが逃げでもない。
“分からないまま考える”ことをちゃんと選んでいる人間の声だ。
アシュレイは少しだけ肩の力を抜いた。
「そうですね」
二人はそれ以上長く話さなかった。
だが、この短いやり取りだけで十分だった。
聖女もまた、ただの象徴ではない。
自分の目で世界を見ようとしている。
それが分かっただけでも、北へ向かう理由は少し強くなる。
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その頃、法王庁の別棟では、別の会話が交わされていた。
異端審問局補助会議室。
狭い。
窓が細い。
光が薄い。
白い都の中でも、この部屋だけは最初から影と一緒に造られているように見える。
グラウスは卓を挟んで三人の監察官と向き合っていた。
「勇者は慎重です」
監察官の一人が報告する。
「聖女もまた、同様に」
「知っている」
グラウスは短く返した。
それ自体は想定の内だ。
「だが、慎重であることと無害であることは別だ」
低い声が落ちる。
「むしろ、本当に危険なものほど“まだ決めきれぬ”という感覚を人へ残すことがある」
監察官たちは黙って聞いている。
「巡察には二名を送る」
グラウスは続けた。
「表向きは記録の整合確認と、祈祷具の監督だ。だが、見るべきは現象そのものだけではない」
「では何を」
「聖女と勇者が、どこで何を躊躇うかだ」
その答えに、監察官たちの空気が少しだけ変わる。
なるほど、と納得した顔だった。
「断じきれぬ理由には、必ず根がある」
グラウスの目は冷たい。
「そこを掴めば、逆に何を崩せばよいかが分かる」
もしセラフィナがこの場にいたなら、“ああ、この男はいずれ確実に越える”とさらに確信を深めただろう。
もっとも、その確信はもう十分持っているのだが。
「必要なら、状況を少しだけ押してもよろしいので?」
監察官の一人が問う。
その“押す”が何を意味するかは言葉にされない。
だが、軽い探りや祈祷具の調整、監視条件の誘導くらいは含まれているのだろう。
グラウスは数秒だけ考えた後、淡々と答えた。
「法王猊下の裁可を越えるな」
まず、それを置く。
「だが、真実が綻ぶなら見逃すな」
監察官たちが一斉に頭を垂れる。
「はっ」
綺麗な返答だ。
綺麗すぎて危ない。
グラウスはその光景を見ながら、心の中ではすでに次の一手を並べ始めていた。
巡察で終わる気はない。
見るだけで済むとも思っていない。
北方禁域に本当に“王”がいるなら、それは連邦の秩序の外にある存在だ。
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夕方、勇者居館。
アシュレイは北行きに向けて荷を整えていた。
必要な衣。
結界布。
小さな聖具。
旅用の外套。
剣の手入れ道具。
祈祷燭。
水袋と保存食。
重くしすぎないように、だが足りなくもならないように。
長旅より、前線に近い支度だ。
部屋の隅では、彼の専属に近い若い従者が荷の確認をしている。
「勇者殿、聖印布は二枚でよろしいですか」
「三枚にしとけ」
「では祈祷燭は」
「軽い方を四本」
実務的なやり取りをしながら、アシュレイは剣を鞘へ収める。
銀を基調とした長剣だ。
装飾はある。
だが過剰ではない。
勇者の剣として見映えがする一方で、ちゃんと実戦へ使うための重さもある。
華美さだけではなく、何度も抜き差しされた痕が柄に薄く残っているあたりが、この男らしかった。
鞘へ収まる金属音が、小さく部屋に響いた。
「勇者殿」
従者が少しだけ躊躇ってから言う。
「…黒翼庭は、本当に危ないのでしょうか」
アシュレイは答えをすぐには出さなかった。
「危ないだろうな」
やがて、そう言う。
「たぶん、想像してるよりずっと」
従者が顔をこわばらせる。
アシュレイはそこで少しだけ苦笑した。
「でもな」
「はい」
「危ないからって、何でも同じ顔には見えない」
それが、うまく説明できる範囲の本音だった。
もし北の王が本当に目を覚ましたのなら、きっと危険だ。
それは間違いない。
だが危険であることと、雑に“討つべき敵”であることは同じじゃない。
その違いだけは、たぶん現地へ行かないと分からない。
従者は難しい顔をしたまま頷く。
「…やはり、勇者殿は勇者殿ですね」
「またそれか」
アシュレイが呆れたように言うと、従者は少しだけ笑った。
「褒めております」
「便利な言葉だな」
そう返しながらも、アシュレイは心の中で小さく息を吐く。
勇者であることは、時々とても便利だ。
人は勝手に意味を見てくれるし、言葉も通りやすい。
だが、その便利さに乗りすぎると、自分の目まで曇る気がする。
だから北へ行く。
見て、確かめる。
そして必要なら斬る。
そうでないなら、その時考える。
今はそれで十分だ。
---
夜。
白い都セラフィスの上空を、影がひとつ静かに渡っていく。
人の目には止まらない。
止まっても鳥にしか見えない。
影鴉だった。
勇者居館の屋根をかすめ、聖女区画の高窓を横切り、異端審問局の細い窓の奥を覗き込み、最後には鐘楼の陰へ留まる。
その視界を、黒翼庭の奥でセラフィナが静かに共有していた。
「勇者は」
彼女は小さく呟く。
「思ったよりも、ずっと真っ直ぐですね」
だが、その真っ直ぐさは脆さではない。
見てから決める。
自分の目で測る。
それは、連邦という国の中ではかなり強い抵抗になるはずだ。
「聖女は」
別の影が、リュミエラの祈りの姿を映す。
「言葉を急がぬ光」
それもまた厄介だ。
そして最後に、異端審問局の小会議室で灯る光が映る。
「審問長は、やはり早い」
セラフィナの微笑みが少しだけ深くなる。
「良いですね」
その言い方は優しい。
だが意味は逆だ。
「強き者は、早く越える」
そして、越える者は裁きやすい。
彼女は視線を上げる。
北方禁域でも、白い都でもない、もっと遠い場所へ向けるように。
「陛下」
小さな声だった。
「連邦は、まもなく動きます」
その声は祈りにも聞こえたし、報告にも聞こえた。
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