「神敵認定会議」
翌朝のセラフィスは、いつもより少しだけ静かだった。
白い石畳。
細い尖塔。
空へ昇る祈りの煙。
都そのものの姿は何も変わっていない。
巡礼者はいつも通り広場を渡り、修道士たちは決まった時刻に水を運び、パンを焼く香りも朝の鐘と共に路地へ流れていく。
だが、法王庁の中を行き来する神官たちの歩調が、ほんのわずかに早い。
大きな変事というものは、たいてい最初から大きな音を立てない。
むしろ逆だ。
誰もがまだ平静を装っている時期の方が、空気は鋭くなる。
目立った悲鳴もない。
混乱もない。
だからこそ、人々は余計に小さな違和感へ敏感になる。
昨夜、北の空がわずかに沈んだ。
それを見た者は多くない。
だが少なくとも、見た者たちの証言は一致していた。
ただ暗くなったのではない。
空そのものが、一瞬だけ重くなった。
それだけのことだ。
それだけのことなのに、祈りの都にとっては十分すぎるほど不穏だった。
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法王庁本棟、諮問会議室。
昨夜よりひと回り大きいその部屋には、すでに必要な者たちが揃っていた。
長い白木の卓。
壁には光神ルミナスの聖印。
高い窓から差し込む朝の淡い光。
豪奢というより、清潔さと権威を優先した室内だ。
余計な装飾は少ない。
だが、少ないからこそ、この場で交わされる言葉の重みがよく分かる。
卓の奥に座るのは、法王ユリオス十三世。
老いている。
だが衰えてはいない。
白い法衣と金の刺繍、細い指、穏やかな目。
表面だけを見れば柔和な老人だ。
だが、その穏やかさは相手を油断させるためのものではない。
長い年月、祈りと政治と権威の交わる場所で座り続けてきた者だけが持つ、静かな支配の形だった。
その右手には異端審問長グラウス。
左には聖典管理局長、記録司祭長、巡礼監察院の代表。
そして少し離れた位置に、聖女リュミエラと勇者アシュレイが並んでいた。
全員が席についたのを見て、法王がゆっくりと口を開く。
「始めましょう」
穏やかな声だった。
だが、その穏やかさがこの場の重みを消すわけではない。
「北方禁域に関する異常報告は、昨夜の段階で都の夜番、大聖堂、聖典管理局、異端審問局のすべてに届いています。加えて帝国側では、すでに監視強化が進んでいる」
法王は手元の報告書へ視線を落とす。
「問題は、これを何と見るかです」
その一言で、室内の空気がさらに締まった。
まさにそこが焦点だった。
異常か。
兆しか。
災厄か。
あるいは――神敵か。
最初に口を開いたのは、巡礼監察院の代表だった。
五十代の痩せた男で、常に言葉を測って喋る癖がある。
良く言えば慎重、悪く言えば決して最初の責任を負いたがらない種類の人間だ。
「現時点では、断片報告に過ぎません」
慎重な入り方だった。
「夜空の暗度変化についても、複数証言はありますが、天候との切り分けは未了です。帝国の監視強化についても、北方禁域という特性上、通常より敏感に反応している可能性はございます」
穏当な整理だった。
だが、それだけで終わるはずがないことは誰もが知っている。
「監察院は、いつも通り“まだ何も言えぬ”で済ませるおつもりか」
グラウスが言った。
声は静かだ。
静かだが、ひどく乾いている。
巡礼監察院代表は表情を崩さなかった。
「断言できぬことを断言しないのは、職務のうちです」
「結構」
グラウスは小さく頷く。
「ですが、断言できぬことを“だから何もしない”へ繋げるのは、怠慢と呼びます」
その一言で、室内の数人がわずかに眉をひそめる。
あからさまな非難だ。
朝からやるな、とクロウなら思っただろう。
だがここでは、これが普通なのかもしれない。
法王は制止しない。
むしろ、あえて言わせているようにも見えた。
グラウスは卓上の異本写本を一枚持ち上げる。
「北方禁域。黒翼の王。沈黙で裁く者。終王。古く、断片的で、詩的で、解釈の余地に満ちた記述ばかりです。ええ、承知しております」
そこで一度紙を机へ置く。
「ですが、こうした断片が“現象”と重なり始めた時点で、連邦はそれを神学的案件として扱う義務がある」
神学的案件。
便利で、重い言い方だった。
政治でも軍事でもなく、教義と秩序の領分へ引きずり込む言い回しだ。
「帝国が監視を強めたのは何故です?」
誰へともなく問う。
「単なる気象異常であれば、そこまでの反応は不要です。昨夜、都の夜番が北に違和感を覚えたのは何故です?ただの雲なら、ここまで一斉には揺れない」
そこまではその通りだ。
誰も否定できない。
「ならば、いま我らが問うべきは“まだ分からない”ではなく、“何に備えるべきか”でしょう」
この男は話がうまい。
断定していないように見せながら、論点をすでに“危険がある前提”へ移している。
リュミエラはそれを聞きながら、小さく息を整えた。
この流れの危うさは分かる。
怖いからこそ、先に言葉を置きたくなる。
だが、そうして置かれた言葉は、その後に見えるものの形そのものを変えてしまう。
「聖女様は」
不意にグラウスが視線を向けた。
「どうお考えですかな」
真正面から来た。
昨夜の会議では法王が場を運んでいたが、今朝は違う。
グラウスは、ここで“聖女が何を言うか”自体を材料にするつもりだ。
リュミエラは視線を逸らさない。
「重く見るべきだと思います」
まず、それを認める。
ここで“何もないかもしれません”とは言わない。
それでは説得力を失う。
「ですが」
続ける。
「重く見ることと、先に名前を置くことは別です」
会議室が少し静まる。
グラウスは表情を変えない。
だが、聖典管理局長はわずかに目を細めた。
「北で起きていることが危険かもしれない。それは否定しません」
リュミエラは言葉を整えながら続ける。
「ですが、怖いからという理由で“神敵”の名を置けば、その後に見るものすべてが神敵の証明へ引き寄せられます」
巡礼監察院代表が、わずかに視線を上げた。
記録司祭長も手元の紙から顔を上げる。
響いている。
「我らは光を掲げる者です」
リュミエラの声は大きくない。
だが、白い部屋にはよく通った。
「ならばこそ、恐れで先に形を決めるべきではありません。見えていないものを裁けば、その裁きはいつか自分たちの眼を曇らせます」
数拍の沈黙。
そこへ、アシュレイが口を開く。
「俺も、近い意見です」
勇者がそう言った瞬間、会議室の空気がまた少し変わった。
リュミエラ一人の慎重論なら、“聖女らしい甘さ”と片づけたがる者もいただろう。
だが勇者まで同じ方向へ立つと、話は変わる。
「勇者殿も、断定には反対と?」
グラウスが問う。
「反対というより」
アシュレイは肩肘を張らないまま答えた。
「見てもいない相手に、斬るべき理由がないからです」
勇者らしい言葉だった。
だが、熱血ではない。
「本当に敵なら、見るほどにはっきりしてくるでしょう。逆に、見てもなお定まらないなら、その曖昧さには理由があるはずだ」
「曖昧であることこそ脅威かもしれませんぞ」
グラウスが返す。
「その可能性はあります」
アシュレイはあっさり頷いた。
「だから見に行くんです」
その言い方はシンプルで、強い。
斬るかどうかは見てから決める。
だが、見ること自体から逃げない。
それがこの男の芯なのだろう。
「俺は、理由もなく斬るのが嫌いなんです」
アシュレイは続けた。
「敵なら斬ります。そこは迷いません。でも、まだ何者かも分からないものへ“これは斬るべきだ”って理由だけ先に置くのは、俺にはできない」
その言葉に嘘はなかった。
彼は敵を斬ること自体は厭わない。
だが、見誤ったまま斬ることを恥だと思っている。
そこが、この男の格になる。
法王ユリオス十三世は三人のやり取りを聞き終え、指先を組んだ。
「よろしい」
穏やかな声だった。
「ならば、言葉を置くのは後にしましょう」
グラウスが何か言いかけたが、法王は先に続ける。
「ただし、重く見ないわけではない。神敵認定は保留。ですが、北方禁域の件は放置しません」
その一言で、場の方向が決まる。
「まずは聖冠の眼で見ましょう。帝国の報だけでなく、我ら自身の視点で」
法王は視線を順に巡らせた。
「聖女リュミエラ。勇者アシュレイ。お二人には、今回の巡察に関わっていただきたい。北方禁域の件は、もはや文書だけで扱うには重い」
リュミエラは一礼する。
「承知いたしました」
アシュレイも頷く。
「行きます」
即答だった。
そこへ、記録司祭長が慎重に言葉を挟む。
「陛下、異本照合については」
「続けなさい」
法王は答える。
「ただし、民衆向けの言葉へはまだ下ろさぬこと。今の段階で神敵の語を広めれば、連邦自身がその語に引きずられます」
この老獪さが、この人をただの温厚な老人に見せない。
グラウスがそこで一度だけ口を開いた。
「法王猊下」
「何です」
「仮に、巡察の結果が不明瞭であった場合は」
その問いの意味は明白だった。
見てもなお曖昧ならどうするのか。
その時こそ神敵認定へ進むのか。
法王はすぐには答えなかった。
窓の外の白い光を一瞬だけ見て、それから静かに言う。
「不明瞭であること自体が、次の材料になります」
それは、あまり異端審問長が好まなそうな答えだった。
だが間違ってはいない。
曖昧さもまた情報だ。
「ゆえに今は、曖昧であることを恐れて先に名前を置かぬことです」
会議はそこで締められた。
椅子が引かれ、書記が筆を止め、神官たちが静かに動き始める。
表向きは整然としている。
だが、その整然さの下では、それぞれが違う計算を始めていた。
巡礼監察院は、観測の段取りを。
聖典管理局は、異本照合を。
聖騎士団は、北行きの護衛と儀礼の準備を。
異端審問局は――おそらく、それとは別の何かを。
---
会議室を出た後、アシュレイは回廊の窓際で足を止めた。
朝の光が白い壁を這っている。
都はもう完全に起きていた。
鐘楼の下では信徒たちが歩き、広場では修道士たちが朝の配給を整えている。
平和な都の朝だ。
だが、その平和の上に今、北の影が落ち始めている。
「勇者殿」
後ろから声がして、アシュレイは振り返る。
リュミエラだった。
彼女は少しだけ表情を和らげていた。
会議中の張り詰めた顔ではない。
だが、完全に安堵しているわけでもない。
「聖女様」
「今朝は、ありがとうございました」
「礼を言われることはしていません」
アシュレイは肩をすくめる。
「ただ、見てもいない相手を斬る気になれなかっただけです」
「それでも」
リュミエラは小さく言う。
「私には心強かったです」
その言葉に、アシュレイは少しだけ目を瞬かせた。
聖女というのは、もっと遠い存在かと思っていた。
だがいま目の前にいる彼女は、思ったよりずっと“考えている人”に見える。
「聖女様も、やはりおかしいと思っておられるんですね」
「はい」
リュミエラは北の方角へ視線をやる。
「怖いのです。だからこそ、余計に」
「早く敵と決めたくない」
「…ええ」
そこは同じだった。
アシュレイは壁へ軽くもたれたまま、少しだけ考えてから言う。
「なら、北で見ましょう」
「はい」
「本当に敵なら、俺が斬ります」
言い切る声には、軽さがなかった。
「でも、そうじゃないなら」
そこで少しだけ間が空く。
言葉の先が、彼自身にもまだ見えていないのだろう。
リュミエラはその続きを促さない。
ただ静かに頷く。
「その時は、その時に考えましょう」
それで十分だった。
二人は短く礼を交わし、それぞれ別の方向へ歩き出す。
だがその背を、少し離れた回廊の陰から静かに見ている視線があった。
グラウスだった。
彼は二人の会話をすべて聞いていたわけではない。
だが、表情と間合いだけで十分だった。
聖女は慎重に傾いている。
勇者もまた、簡単には斬らぬ側にいる。
好ましくない。
だが、想定内でもある。
「…ならば、こちらは別の確証を積むだけです」
誰にも聞こえない声で呟く。
会議で保留が置かれたからといって、北の脅威が薄れたわけではない。
むしろ逆だ。
曖昧なものほど、秩序にとって危険だ。
グラウスは回廊の奥へ歩き出す。
白い都セラフィスは、まだ揺れている。
だが、その揺れが続けば続くほど、いずれ誰かが“早く決めよう”とする。
その時、言葉を置くのは自分でなければならない。
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同じ頃。
黒翼庭の遥か奥では、白い都で交わされた会話のいくつかが、すでに影鴉の耳を通じて拾われ始めていた。
だがそれを知る者は、まだ・・・誰もいない。
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