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配下からの信頼が重すぎる  作者: きなこもち
第2章 『聖冠連邦は黄昏を拒む』

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プロローグ 「白き都」

第2章の始まりです。

 


 聖冠連邦アルディウスの首都セラフィスは、夜であっても完全には眠らない。


 それは歓楽の灯りが絶えないという意味ではなく、祈りが止まらないという意味だった。


 都の中央にそびえる大聖堂は、月の光を受けて白く光っている。

 幾重にも連なる尖塔。

 天へ伸びる細いアーチ。

 外壁を巡る浮き彫りには、光神ルミナスの御業と、それに仕えた聖者たちの姿が刻まれていた。


 高く、美しく、清らかだ。


 誰が見てもそう思うだろう。


 だが、その美しさを維持するために、どれほど多くの祈りと秩序と、人知れぬ切り捨てが積み上げられているのかを知る者は少ない。


 静寂は、ただ静かなだけでは保てない。

 濁りを外へ押しやり、綻びを見えない場所で縫い留め、異物を異物として隔て続けて初めて、都はこの白を名乗れる。


 その夜もまた、大聖堂の鐘は正確に時を告げていた。


 ひとつ。

 ふたつ。

 みっつ。


 深夜の祈祷刻を知らせる静かな音だ。


 鐘の響きが白い都の上を流れ、石畳をなで、法王庁の高窓を震わせ、修道院の回廊へ沈んでいく。


 そして――


 その最後の余韻が消えるより少し早く、北の空が、わずかに沈んだ。


 それは雷ではなかった。


 雲が厚くなったわけでもない。

 月が翳ったのとも違う。


 夜そのものが、ほんの一瞬だけ深くなる。

 そんな感覚だった。


 見上げていた者は少ない。

 だが、見た者は皆、同じものを感じた。


 重い。


 ただ暗いのではない。

 空気ごと落ちてくるような、底知れぬ黒が頭上をかすめたような感覚。


 大聖堂の外回廊で夜半の巡礼記録をまとめていた若い神官が、思わず顔を上げる。


「…何だ?」


 隣で燭台を持っていた見習い修道士も、遅れて空を見る。


「いま、空が」


 だが、その時にはもう元に戻っていた。


 白い尖塔も、月明かりを受けた石の壁も、何事もなかったかのように静かだ。

 風もない。

 雲の流れも変わっていない。


 若い神官は眉をひそめる。


「見間違いか…?」


 そう言いかけて、口を閉じる。


 同じ回廊の先で、別の神官も同じように空を見上げていたからだ。


 広場の向こう、鐘楼の下でも二人ほど立ち止まっている。


 見間違いではない。


 少なくとも、自分だけではない。


 その事実が、胸の奥へ小さな冷たさを落とした。


 ---


 同時刻。


 法王庁に隣接する聖典管理局の保管室では、一人の記録司祭が机へ向かっていた。


 年は四十を過ぎている。

 痩せた指先に白手袋を嵌め、薄い結晶板へ古文書の照合結果を書き込んでいる。

 机の上には開きっぱなしの異本がいくつも積まれ、燭火ではなく、淡い乳白色の術灯が静かに紙面を照らしていた。


 夜の記録仕事には慣れている。


 こういう仕事は昼より夜の方が進む。

 人の足が減り、祈りの声も遠くなり、紙の擦れる音だけが残る時間の方が、古い言葉の癖を読み取りやすい。


 司祭は一枚の異本へ視線を落としたまま、羽根ペンの代わりに細い術筆を走らせる。


 ――北に眠る黒翼の王、目を開くとき。

 ――白は白のままではいられず、光は自らの正しさを試される。


「…詩的すぎる」


 小さく呟く。


 こういう文言は苦手だった。


 信仰文書は、時に意味より響きを優先しすぎる。

 後世の解釈者泣かせだ。


 そう思いながら次の行へ手を伸ばした、その時。


 保管室の窓へ、薄く影が落ちた。


 司祭が顔を上げる。


 何かがあったわけではない。

 ただ、窓の外の月光が一瞬だけ鈍くなったように見えたのだ。


 席を立つ。

 窓辺へ寄る。

 外を見る。


 白い中庭。

 静かな回廊。

 遠い鐘楼。

 すべては普段通りだった。


 だが、その“普段通り”の中に、説明しづらい違和感だけが残っている。


 司祭はしばらく北の方角を見つめていた。


 この都から北方禁域は遠い。

 地図の上ではつながっていても、感覚としては神話の向こう側だ。

 帝国の北にある古い恐れ。

 連邦の者が口にする時には、たいてい寓話と警句が混ざる。


 北へ行くな。

 黒き翼を見るな。

 沈黙の王が目を開く時、秩序は試される。


 子供に聞かせるには出来の良い話だ。


 少なくとも、今まではそうだった。


 司祭は窓から離れ、机へ戻る。


 だが、さっきまでただの古文書だった文言が、急に落ち着かない実在感を帯び始めていた。


 術筆を置き、机の端に積まれていた別の報告束を引き寄せる。


 帝国から流れてきた断片的な記録。

 北方禁域における監視強化。

 監視祠の増設。

 境界線異常。

 黒い羽の目撃。


「…冗談ではなさそうですね」


 誰に言うでもなく、そう漏らす。


 そして、その直後。


 保管室の扉が二度叩かれた。


「入ってください」


 扉が開き、若い神官が一人、少しだけ顔色を変えて入ってきた。


「司祭殿」


「どうしました」


「いま、大聖堂外回廊から異常報告が上がりました」


 司祭は眉をひそめる。


「異常、とは」


「複数の夜番が、北の空の暗度変化を証言しています」


 司祭の視線が、無意識に机上の異本へ落ちる。


 北に眠る黒翼の王。

 目を開くとき。


 偶然だと笑うには、出来すぎた順番だった。


「報告はどこまで」


「まだ当直までです。ですが、法王庁へ上げるべき案件かと」


「…ええ。上げましょう」


 司祭は手袋を整え、異本を一冊閉じる。


「ついでに、聖典管理局側でも照合を始めます。北方禁域、黒翼の王、終王、沈黙、黒き羽――そのあたりの関連異本を全部出してください」


 若い神官は明らかに戸惑った顔をした。


「全部、ですか」


「全部です」


 司祭の声は静かだったが、迷いはなかった。


「こういう時に後回しへした記録が、後から一番効くのですよ」


 若い神官は深く頭を下げ、足早に出ていく。


 扉が閉まる。


 保管室の静けさが戻る。


 だが、さっきまでとは別の静けさだった。

 記録は、記録のままではなくなった。

 古文書は、死んだ文字ではなくなった。


 司祭は閉じた異本の表紙へ、指先を一度だけ置く。


「北方禁域…」


 聖冠連邦アルディウスにとって、それは帝国ほど切実な地名ではない。

 だが、神話に触れる国である以上、決して軽く扱える言葉でもない。


 もし本当に、北で何かが目を覚ましたのだとしたら。


 連邦が最初にやるべきことは二つしかない。


 見極めること。

 そして、名を与えること。


 問題は、その順番だ。


 ---


 異端審問局は、法王庁本棟から見れば少し奥まった位置にある。


 同じ白い石造りだ。

 だが、装飾は少なく、窓も細い。

 清らかというより、研ぎ澄まされている印象の建物だった。


 その最上階の一室で、異端審問長グラウスは起きていた。


 夜更けでも珍しくはない。

 この男は、世界に綻びが出たと聞けば、自ら眠りを切り捨てる。


 机の上にはまだ少ない報告が並んでいる。

 帝国の監視強化。

 北方禁域の異変。

 空の暗度変化。

 聖典管理局から仮回しされた異本抜粋。


 グラウスは無言でそれらを読み、最後の紙を机へ置いた。


 年は五十代半ば。

 背は高く、痩せている。

 法衣は黒寄りの濃い灰で、胸元には連邦の正統を示す銀の聖印。

 髪には白いものが混ざり、頬は削げているが、目だけは鋭い。


「北の空が暗んだ、か」


 独り言のように口にする。


 声は低く、乾いている。


「帝国が監視を増やした」


 次の紙へ目を落とす。


「黒い羽を見たという」


 最後に異本へ視線を移す。


 ――沈黙で裁くもの。

 ――白が正しさを疑うとき、黒き王はなお目を閉じぬ。


 グラウスは鼻で笑った。


「報告ではなく詩だな」


 だが、その笑いには侮蔑だけではなく、警戒もあった。


 詩で済んでいるうちはいい。

 こういう文言が現実の現象と重なり始めた時が、一番厄介なのだ。


 異端審問という仕事は、曖昧さを嫌う。


 曖昧なものは人心を食い、教義を濁し、やがて秩序そのものを壊すからだ。


 邪悪であるなら邪悪と断じられる。

 異端であるなら異端として切り捨てられる。

 だが、何者か分からず、それでも大きな力を持つものは最も危険だ。


「…神敵の兆し、か」


 グラウスはそう呟いてから、紙を整えた。


 まだ断定はしない。

 するには早い。

 だが、“その可能性がある”というだけで十分に危険だ。


 特に帝国が慎重な時ほど、危うい。


 武の国が怯み、言葉を失い、様子見に入る時。

 そういう時こそ、連邦が先に言葉を置かなければならない。

 そうしなければ、人々は未知へ勝手な意味を与え始める。


 グラウスは机の脇に置かれた呼び鈴を一度だけ鳴らした。


 すぐに控えの神官が入ってくる。


「閣下」


「法王庁へ上がった北方異常報告を、異端審問局でも同時照合する」


「はっ」


「聖典管理局にも照会を出せ。黒翼の王、終王、沈黙、裁定、それらに連なる異本は全部だ」


 神官は一瞬だけ目を瞬かせたが、すぐに頭を下げた。


「承知しました」


 そこでグラウスは、ほんの少しだけ声を落とした。


「それと――聖女殿下の周辺に上がる報告も拾え」


 神官が顔を上げる。


 意図を測りかねている目だった。


「聖女様、ですか」


「この種の話には、必ず“まだ早い”と言う者が出る」


 グラウスは淡々としていた。


「それが必要な時もある。だが、本当に危険なものほど、そうした慎重さに紛れて育つこともある」


 神官は深く一礼し、部屋を辞した。


 扉が閉まる。


 グラウスは再び机上の異本へ目を落とした。


 北の空が暗んだ。

 帝国が動いた。

 都の夜番がざわめいている。


 これを怪談と笑うには、あまりにも出来すぎている。


「もし本当に目を開いたのなら」


 低く呟く。


「こちらが先に名を置いてやらねばなるまい」


 神敵、と。


 その言葉を口にはしなかったが、胸の中ではすでに形を取り始めていた。


 ---


 一方その頃、大聖堂に近い静かな回廊では、別の足音が夜を歩いていた。


 聖女リュミエラだった。


 長い祈りを終え、補佐の修道女も下がらせ、ようやく一人になったところだ。

 白い法衣の裾が床を静かに撫でる。

 窓から差す月の光が、その横顔を薄く照らしていた。


 彼女はまだ若い。


 年にすれば十代半ば。

 白銀に近い淡金の髪は肩のあたりで揺れ、瞳は水を思わせる淡い青をしている。

 華やかではない。

 だが目を向ければ自然と声を潜めたくなるような、静かな清らかさがあった。


 回廊の端で立ち止まり、北の空を見る。


 見えるわけではない。


 この都から北方禁域は遠い。

 帝国のさらに向こうだ。


 だが今夜、都の夜番たちが空に違和感を覚えたという話は、祈りの後にもう耳へ入っていた。


「北…」


 小さく呟く。


 北方禁域。

 黒翼の王。

 子供の頃から、祈りの書や説話の端々で聞いてきた名だ。


 光が届かぬ地。

 死を従える王。

 裁きを告げる黒い翼。


 どれも恐ろしく書かれていた。

 けれど、同時にどこか曖昧でもあった。

 人は本当に知らないものほど、過剰に恐ろしく書く。


 リュミエラは手を胸の前で組み、目を閉じる。


 祈るつもりだった。

 ただ、いつもの夜と同じように。

 世界が大きく揺らがぬように。

 人の心が恐れに呑まれすぎぬように。


 だが、その時だった。


 胸の奥に、ひやりとした感覚が落ちる。


 寒さではない。

 恐怖とも少し違う。

 誰かに、見られたような感覚だった。


 リュミエラは目を開く。


 回廊には誰もいない。

 月は静かだ。

 風もない。


 それでも、確かに何かがあった。


 祈りに手を伸ばした瞬間、逆にこちらが見られたような気配。


「…あなたは」


 思わず、声にならない声が漏れる。


 敵意は感じない。


 だが、優しさとも違う。

 ただ、こちらの在り方そのものを見極めようとする視線のようなもの。


 その感覚に、リュミエラは息を呑んだ。


 北の王。


 もし本当に、それがいるのなら。


 それは単に人を殺す怪物の目ではない。


 もっと静かで、もっと厄介なものだと、本能が告げていた。


 そこへ、控えめな足音が近づく。


「リュミエラ様」


 補佐の修道女が立っていた。

 顔色が少し青い。


「法王庁より呼び出しがございます」


「…今からですか」


「はい。緊急諮問会だと」


 リュミエラは北の空から目を離し、静かに頷いた。


「分かりました」


 歩き出す。


 けれど、その胸の奥に残った感覚は消えなかった。


 怖い。

 それは間違いない。


 けれど、ただ怖いからといって、すぐに“神敵”と呼んでよいものにも思えなかった。


 そう呼んだ瞬間に、本当に大切な何かを見誤る。

 そんな気がしたからだ。


 ---


 法王庁本棟、内側会議室。


 広くはない。

 だが狭くもない。

 必要な者だけが入り、余計な視線を通さないための部屋だった。


 中央に長い卓があり、壁には光神ルミナスの紋章。

 窓は高く細い。

 夜の白い光が、床へ薄く落ちている。


 リュミエラが入った時には、すでに三人の人物がいた。


 一人は、法王ユリオス十三世。


 老いている。

 だが衰えてはいない。

 白い法衣と金の刺繍、細い指、穏やかな目。

 表面だけを見れば柔和な老人だ。

 だがその目の奥には、長い年月を権力の中で生きた者だけが持つ冷たい深さがある。


 一人は、異端審問長グラウス。


 先ほどまで別の部屋にいた男だ。

 細身、灰黒の法衣、削げた頬、鋭い目。

 室内の空気そのものを少し冷やすような存在感があった。


 そしてもう一人。


 壁際に立つ若い男が、リュミエラの入室と同時に軽く姿勢を正した。


 勇者アシュレイ。


 若い。

 二十代前半。

 明るい金髪を短く整え、青を基調とした軽装の上に白い外套を羽織っている。

 法衣姿の者たちの中ではひどく異質だ。

 だが、異質なのに場から浮いていない。

 それは彼が“勇者”という役割をちゃんと背負っているからだろう。


「お待たせしました」


 リュミエラが一礼する。


 法王がゆっくり頷いた。


「よく来てくれました」


 声は穏やかだ。


 だが、その穏やかさの下にあるものを、リュミエラはよく知っている。

 この人は、大事以外ではこういう場を開かない。


「遅い時間に申し訳ありません」


「いえ」


「ですが、北の件は今のうちに耳を揃えておくべきでしょう」


 法王はそう言って、卓上の報告書を指先で軽く押した。


「聖典管理局、異端審問局、そして都の夜番からも同様の報が上がっています。北の空に異常あり。加えて帝国側の監視強化。北方禁域にまつわる異本の再照合も増えています」


 アシュレイが低く問う。


「つまり、何かが起きていると」


「少なくとも、そう考えるべきでしょう」


 法王は否定しない。


「そして、起きている何かが、帝国をして慎重にさせている可能性が高い」


 そこに、グラウスが口を開く。


「陛下」


 低く乾いた声だった。


「慎重という言葉は、時に事実を曇らせます」


 法王は目だけを向ける。


「と言うと」


「帝国が監視を強め、なおかつ北方禁域に関する異本が同時に浮上している。これを“まだ不明”の一言で置くのは、危険の先送りにすぎません」


 グラウスの声には熱がない。

 それがかえって強い。


「もし本当に北で何かが目を開いたのなら、それは人の秩序の外にあるものです。秩序の外から来るものへ、こちらが先に名を与えねば、民は勝手な名で恐れ始める」


 先に名を与える。


 リュミエラはその言葉へ、小さな違和感を覚えた。


 必要なことだ。

 確かに必要なことではある。

 だが、まだ見えていないものへ先に名を置くことの危うさもまた知っている。


「神敵、ですか」


 アシュレイが言った。


 グラウスは勇者へ視線を向ける。


「可能性としては高いでしょう」


「実際に確認したわけではないのに?」


 アシュレイの問いは素直だった。


 挑発ではなく、ただ確認したいという色がある。


「見ずとも分かることはあります」


 グラウスの返しは鋭い。


「例えば、火を見れば熱いと知れる。毒を見れば触れてはならぬと分かる。世界において、名とはそういうものです」


「だが」


 今度はリュミエラが口を開く。


「火は本当に熱く、毒は本当に人を蝕みます。まだ何も確かめていないものへ同じように名を置くのは、違うのではありませんか」


 グラウスの目が細まる。


 だが声は変わらない。


「聖女様は、慎重であられる」


「慎重であるべき時だと思います」


 リュミエラも退かない。


「北で起きていることが重いのは確かでしょう。けれど、怖いからといって先に“神敵”の名を置いてしまえば、その後に何を見ても神敵の証としてしか受け取れなくなります」


 室内が静かになる。


 アシュレイは黙ったまま聞いている。

 法王は表情を動かさない。

 グラウスだけが、ごくわずかに顎を引いた。


「では、聖女様は何も置かずに見るべきだと?」


「いえ」


 リュミエラは首を横へ振る。


「重く見るべきです。ですが、まだ断ずるには早い」


 その言葉に、アシュレイがほんの少しだけ目を細めた。


 彼も同じことを考えていたのかもしれない。


「勇者はどう思う」


 法王が初めてアシュレイへ問う。


 若い勇者は一拍だけ考えた。


「俺は」


 声は低く、静かだった。


「見てからでなければ、剣は抜けません」


 部屋の空気が少しだけ変わる。


「帝国が慎重になっているなら、そこには理由がある。黒い羽だの空の異変だの、怪談めいた報しかないのは気に入りませんが、逆に言えばそれだけで決めつける気にもなれない」


 グラウスが冷ややかに言う。


「勇者殿は、ずいぶんと寛容ですな」


「違う」


 アシュレイは短く切る。


「理由がなく斬るのが嫌いなだけです」


 その返答に嘘はなかった。


 彼は敵を斬ること自体は厭わない。

 だが、見誤ったまま斬ることを恥だと思っている。

 そこが、この男の格になる。


 法王ユリオス十三世は三人のやり取りを聞き終え、指先を組んだ。


「よろしい」


 穏やかな声だった。


「ならば、言葉を置くのは後にしましょう」


 グラウスが何か言いかけたが、法王は先に続ける。


「ただし、重く見ないわけではない。神敵認定は保留。ですが、北方禁域の件は放置しません」


 その一言で、場の方向が決まる。


「まずは聖冠の眼で見ましょう。帝国の報だけでなく、我ら自身の視点で」


 法王は視線を順に巡らせた。


「聖女リュミエラ。勇者アシュレイ。お二人には、巡察と監視に関わっていただきます」


 リュミエラは静かに頷く。


「承知いたしました」


 アシュレイも一礼する。


「はい」


「異端審問長グラウス」


「は」


「局としての照合と備えは進めてください。ですが、言葉を先に民へ流すことは許しません」


 グラウスは一拍だけ黙ったあと、深く頭を下げた。


「御意のままに」


 その返答は恭しい。


 だが、リュミエラはその声音の奥に、少しも納得していない冷たさを感じ取っていた。


 会議はそこで終わった。


 椅子が引かれ、紙が閉じられ、それぞれが静かに席を立つ。


 アシュレイが先に扉へ向かう途中、リュミエラの横でほんの一瞬だけ足を止めた。


「聖女様」


 小さく呼ぶ。


「はい」


「俺も、まだ断ずるには早いと思います」


 それだけ言って、彼は先に出て行った。


 リュミエラはその背を少しだけ見送り、それから視線を落とす。


 味方がいる、と思ったわけではない。

 ただ、この場に自分と同じ違和感を持つ者がもう一人いた。

 それだけで少し、呼吸がしやすくなった。


 だが同時に、別の冷たさも感じる。


 扉の向こうへ消えたグラウスの背中からは、会議で結論が出たようには見えなかったからだ。


 法王が保留を置いた。

 聖女と勇者も急がぬ側へ立った。

 それでもなお、異端審問長の中では別の何かが動き出している。


 そんな予感があった。


 ---


 会議室を出たグラウスは、長い回廊を一人で歩いていた。


 白い壁。

 高い窓。

 夜の術灯。

 そのどれもが清らかで、整っていて、だからこそ彼の思考を邪魔しない。


 神敵認定は保留。


 法王はそう言った。


 それ自体に異論はない。

 表向きは、だが。


 しかし、だからといって手を止める理由にはならない。


 むしろ、こういう時こそ備えを深めるべきだ。

 慎重派が“まだ早い”と言う間に、危険は根を張る。

 曖昧さを曖昧なまま許せば、人はやがてそれへ馴染む。


 北の空が暗んだ。

 帝国が監視を増やした。

 古い異本が再び口を開き始めた。


 これを神敵の兆しと呼ばずして何と呼ぶ。


 グラウスは回廊の途中で足を止め、控えていた神官へ視線を向けた。


「準備を進めます」


 神官が即座に頭を下げる。


「何を、でしょうか」


「記録の集約、異本照合、北方巡察への目の差し込み。すべてです」


 低い声だった。


「法王は見ると仰った。ならば、こちらも見る。ただし、何を見るべきかはこちらで決める」


 神官は深く一礼する。


「承知しました」


 グラウスは歩き出す。


 その背には迷いがなかった。


 白き都セラフィスは、北を神話のままにはしておけなくなった。

 ならば次は、それを何と呼ぶかの戦いになる。


 そしてグラウスは、その戦いが始まる前から、もう剣を抜いていた。



最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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