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配下からの信頼が重すぎる  作者: きなこもち
第1章 『黒翼の終王、目覚める』

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「試された帝国」

 


 押し込みの案は、結局、帝都で正式な軍令にはならなかった。


 皇帝ヴァルゼオン三世は最後まで慎重だったし、ディグラスとグレイン将軍も“まだその時ではない”という立場を崩さなかった。

 軍務卿もまた、いまの段階で露骨に前へ出るのは悪手だと分かっている。


 だが、だからといって火種が消えるわけではない。


 帝都で生まれた欲は、別の形で前線へ降りる。


 命令としてではなく、現場の裁量として。

 進軍ではなく、監視の延長として。

 境界を越えるのではなく、“少しだけ前へ出る”という理屈で。


 そういう形で、人はだいたい一線を踏み外す。


 北方監視祠、第三監視点。


 朝の空は鈍く白い。

 雪は弱い。

 風も強くない。

 こういう日は、外へ出る口実が増える。

 監視しやすいからだ。


 祠の外では、祈祷師が二人、記録官が一人、それに護衛の兵が四人、準備を整えていた。

 手に持つのは槍ではない。

 観測結晶と祈祷板、細い標柱、それに簡易の風向計だ。


 名目だけ見れば、ただの監視増設班だった。


 だが、それを見ているルークスの眉間には、最初からしわが寄っていた。


「本当にやるのか」


 低く問う。


 班を率いる中年の監視官が顔を向ける。

 学者肌の男で、軍人ほどには顔に感情を出さない。

 だがその目の奥には、薄く硬い熱があった。

 恐れていないわけではない。

 ただ、恐れより先に“確かめたい”が先に立つ人間の目だ。


「正式に止める命令は出ておりません」


 その言い方が気に入らない。


 止める命令が出ていないのと、やっていいのは別だ。


「前へ出すのは一本だけです」


 監視官は続ける。


「祠の位置を動かすわけではない。谷の境界線に標柱を一本立て、そこへ短時間だけ監視結晶を繋ぐ。相手の“線”が本当に固定なのかを見極めるには必要でしょう」


 言っていることの理屈は分かる。


 分かるが、分かることと、やるべきことは別だ。


「誰の発案だ」


 ルークスが聞くと、監視官は一瞬だけ黙った。


「帝都からの私的な助言です」


 それで十分だった。


 正式命令ではない。

 だが、都のどこかから“押せるなら押してみろ”の圧が来ている。


 現場にとって一番厄介な種類の話だ。


 ルークスは舌打ちこそしなかったが、喉の奥に苦いものが残るのを感じた。


「押して何が分かる」


「境界線の性質です」


 監視官は平然としている。


「もし相手が場所に固執しているなら、すぐ返してくる。そうでないなら、まだ余地がある」


 そこまではいい。


 だが問題はその先だ。


 “余地がある”と感じた時、人は必ずもう一歩を欲しがる。


「隊長」


 副官が小さく声をかける。


「止めますか」


 ルークスは数秒だけ考えた。


 止めることはできる。

 前線指揮官として、現場判断で差し止める理由はある。

 だが、それをやれば都の火種は別の形で燃える。

 “北方方面軍は怯えている”とでも言われれば、それはそれでまた面倒だ。


 そして、何より。


 ルークス自身も、この押し込みがどう返るかを見たい気持ちがゼロではなかった。


 それが一番厄介だった。


 昨夜、谷で羽を見た。

 鐘のない場所で鐘のような音を聞いた。

 見えないものに見られていると分かった。


 あれが本当に“境界線”なのか。

 それとも、もっと別のものなのか。


 怖い。

 だが、怖いからこそ確かめたい。


「…短時間だけだ」


 結局、そう言ってしまう。


「標柱一本。監視結晶も一本。護衛は祠の境界線から出るな」


 監視官の顔がわずかに明るくなる。


「承知しました」


「だが」


 ルークスはきつく続けた。


「何か一つでも返ってきたら即座に引け。意地は張るなよ」


「分かっていますとも」


 その“分かっています”が信用ならないのだが、もう止めても遅い気もした。


 監視班が雪原へ出る。


 祠から見て、ほんの半歩。

 ほんの少しだけ前だ。


 だが、こういう“ほんの少し”が一番危ないのだ。


 ルークスは祠の入口に立ち、じっとそれを見つめた。


 ---


 黒翼庭では、その動きは祠を出る前から拾われていた。


 境界線監視室に浮かぶ立体図の上で、第三監視点から小さな光が一つ、線の前へ滲むように出る。

 兵ではない。

 祈祷師でもない。

 監視官と標柱、結晶一式。

 それだけだ。


 だからこそ、意図が見えた。


「来ましたね」


 ヴェルミリアが静かに言う。


 クロウは玉座の間から移ってきた監視室の上段で、それを見下ろしていた。


 帝国が押し込みたがっているのは聞いていた。

 だから驚きはない。

 だが、実際にその一歩が地図へ出ると、やはり空気が変わる。


「正式な軍列ではございません」


 セラフィナが告げる。


「監視班を装った押し込みです。帝都由来の火種が、前線へ降りた形かと」


 やはりそうか。


 帝国中枢が全面許可したのではない。

 だが、都の一部の熱が“現場の裁量”として滲み出ている。


「ルークスは」


 クロウが問う。


「止めきれておりません。ですが、護衛を祠境界線から出さず、短時間だけに制限した模様です」


 完全に前のめりではない。

 だからこそ面倒だ。


 ここで一刀両断に潰すと、前線の慎重派ごと押し流しかねない。

 だが何も返さなければ、“押せる”と学ばせる。


「…返す」


 クロウは言った。


「だが、血は見せるな」


 これが本音だった。


 ここで死傷者を出せば、帝国の中で“やはり敵だ”の声が一気に強くなる。

 まだその段階になるのは嫌だ。


「境界は動かないものと思わせるな」


 続ける。


「こちらが見て決めていると分からせろ」


 言った瞬間、ヴェルミリアの目がわずかに細まった。


「御意」


 そして、すぐに理解したらしい。


「では、“立つ場所は同じなのに、境界線を越えたことにする”形で返します」


 怖い。


 だが理にかなっている。


 押し込みが場所の問題だと思っている相手へ、“境界線は場所ではなく意志だ”と見せるには、それが最も分かりやすい。


「具体的には」


 クロウが聞くと、バルザードが待ってましたとばかりに口を開いた。


「標柱の位置はそのままに、周囲の見え方だけをずらします!谷の輪郭、遺構の影、雪線、それと微弱な音響を重ねれば、相手は“同じ場所にいるはずなのに、もう内側へ入った”と錯覚します!」


 また説明が長い。


 だが要するに、帝国が“半歩前”へ出たつもりの場所を、こちらの認識では“もう一歩深い位置”に変えてしまうのだ。


「ガルドは」


 クロウが問う。


「出しません」


 ヴェルミリアが即答した。


「今回は、まだ段階ではありません。あくまで境界の性質だけを教えるべきです」


 それももっともだ。


 ここでまた黒騎士が立てば、帝国は“押すたびに同格の武が出る”と学ぶ。

 今回はそこまで重くなくていい。


「セラフィナ」


「はい」


「帝国側の反応を拾え。特に、ルークスと監視官だ」


「承知いたしました」


 白い翼がわずかに揺れる。


 影鴉はすでに配置済みなのだろう。


「始めろ」


 短く命じると、監視室全体の術式が低く唸り始めた。


 ---


 雪原の空気は、最初は何も変わらなかった。


 第三監視点から出た監視班は、祠の前を真っ直ぐ進み、谷の入口から少し外れた場所に標柱を立てる。

 細い黒金の柱だ。

 雪へ半ば埋め、頂点へ監視結晶を据える。

 護衛兵は祠の近くで止まり、槍を持ったまま周囲を警戒している。


 ルークスはそのすべてを、祠の入口から見ていた。


 問題はない。


 少なくとも今のところは。


 風も静かだ。

 空も曇ったまま。

 霧も薄い。

 遠くに見える崩れた塔の位置も、さっきと変わらない。


 標柱が立つ。


 監視官が結晶へ術式を通した、その時だった。


 鐘のような音がした。


 遠い。


 だが、はっきりと聞こえる。


 甲高くはない。

 むしろ低く、空気の奥を鳴らすような音だ。

 どこかの塔で鳴る鐘というより、雪原そのものの底が震えているような響きだった。


 監視官が顔を上げる。


「聞こえたか」


 記録官が青ざめた顔で頷く。


「い、いま…」


 音は一度きりでは終わらなかった。


 二打。三打。


 雪原のどこからともなく、低い鐘が連なって響く。

 しかも奇妙なことに、鳴るたび風景の奥行きがずれて見えた。


 崩れた塔が、さっきより近い。


 いや、違う。

 塔だけではない。

 谷の入口そのものが、監視班のすぐ先へ寄ってきたように見える。


「…待て」


 ルークスは反射的に声を張った。


「標柱を触るな。全員、位置確認――」


 言い終わる前に、監視官の顔色が変わった。


「隊長、位置が違います」


「何?」


「さっき立てた場所と…谷までの距離が、違う」


 ありえない。


 だが目で見えるものがそう告げている。


 祠から見れば、監視班は最初よりほんの半歩前へ出ただけのはずだ。

 なのに今、あの標柱は“谷へ踏み込んだ位置”に立っているようにしか見えない。


 記録官が震える声で言う。


「ま、まるで…」


「同じ場所じゃないみたいだな」


 ルークスが代わりに言った。


 嫌な汗が背に滲む。


 これだ。


 押し込めるかどうかを試そうとして、逆に分からされた。

 境界は地面に引かれた線ではない。

 向こうが“ここから内側だ”と見なした瞬間に、そこで意味が変わる。


 鐘の音がもう一度鳴る。


 今度は近い。


 護衛兵の一人が思わず後ろを振り返った。


 その動きと同時に、雪原の上へふわりと黒いものが落ちる。


 羽だ。


 だが昨夜のような大きな羽ではない。もっと小さい。

 けれど意味は十分だった。


 標柱の根元へ、黒い羽が一枚だけ、音もなく落ちた。


 監視官の顔から血の気が引く。


「…戻れ」


 ルークスが低く言う。


 監視官は一瞬だけ抵抗した。

 いや、抵抗というより、“もう少しだけ見たい”という顔だ。


「ですが、まだ監視値が――」


「戻れ」


 今度ははっきり言った。


「それ以上は越える」


 その言葉で、ようやく監視官も動いた。


 標柱は抜けない。

 だが結晶だけ外し、後退する。

 記録官も護衛も一斉に引く。

 誰も走らない。

 走らないが、急いでいることは見れば分かる。


 祠の前まで戻った時、鐘の音は止んでいた。


 雪原も元に戻ったように見える。


 崩れた塔は遠い。

 谷の入口もさっきまでと同じ位置だ。

 だが、標柱だけがぽつんと、明らかに“こちらが越えてはならない場所”へ刺さっていた。


 現実に地面が動いたわけではない。


 にもかかわらず、今あそこへ立てた標柱は、こちらの感覚では完全に境界の向こう側にある。


「…ふざけてる」


 監視官が乾いた声で言った。


 ルークスは首を横へ振る。


「違う」


 それは、ふざけているのではない。


 もっと悪い。


「教えられたんだ」


 境界は場所ではない、と。

 押し込んだつもりの半歩は、向こうの認識ではもう一歩深かったのだと。


 祠の中に戻った後も、誰もしばらく口を利かなかった。

 結晶を外した手がまだ震えている。

 護衛兵の一人は、祠の外をちらりとも見ようとしない。


 ルークスだけが、窓越しにあの標柱を見ていた。


 たった一本の柱だ。


 だが、その細い黒金の線は、今や帝国の理屈が通じなかった証明そのものに見えた。


 ---


 その夜の報告は、前二回よりずっと速く帝都へ飛んだ。


 標柱一本。

 監視班一つ。

 兵の死傷はなし。

 だが、押し込みは失敗。


 失敗というより、“押し込みという発想そのものが通じない”と示された。


 レオンハルトはその報告書を受け取って、しばらく何も言わなかった。


 会議室にはいつもの数人しかいない。

 だが、今日は誰も軽口を叩かない。


 若い武官が沈んだ声で言う。


「やはり、相手は地面の線では見ていないようです」


 レオンハルトは文面から目を離さない。


 鐘の音。

 標柱の位置の知覚変化。

 羽一枚。

 死傷なし。


 やられ方としては最悪ではない。

 むしろ、表面的な損害はほとんどゼロだ。

 だが、その分だけ意味が重い。


 相手は兵を殺さず、標柱一本で返した。

 それなのに、帝国側は“押せなかった”と理解してしまった。


 これでは、押し込みそのものが学習されてしまう。


「…敵は上手いな」


 レオンハルトが小さく言う。


 誰も否定できなかった。


 若い武官は唇を噛み、補佐官は視線を落とし、私兵長は無表情を保っている。

 全員が分かっている。

 ここで本当に問題なのは、標柱が戻らなかったことではない。

 帝国側の理屈が通じなかったことだ。


 監視を前へ出しても、それで境界を押し返したことにはならない。

 向こうがそう見なさなければ意味がない。


 つまり、盤面の主導権は依然として向こうにある。


「殿下」


 補佐官が慎重に言う。


「この件、どう上へ」


「隠すな」


 レオンハルトは即答した。


「だが、敗北のようにも書くな。“境界の性質が固定ではないと判明”で上げろ」


 その表現は苦い。


 だが正しい。


 面子を守りつつ、事実も消さない。

 そうしなければ、次の手が打てない。


「帝国は試された」


 誰かが小さく呟いた。


 レオンハルトはその言葉に何も返さなかった。


 返さなかったが、否定もできなかった。


 今夜のこれは、まさにそういう意味だった。


 向こうは、帝国が何をもって前進と考え、どこで留まり、どのくらい理屈に頼るかを見た。

 そしてその上で、こちらの理屈だけを空振りさせた。


 武で折られたわけではない。

 なのに、悔しさは剣を弾かれた時より深い。


 レオンハルトは机の端に置かれた報告を指先で叩いた。


 押し込みは通じなかった。

 なら次に都で強くなるのは、もっと別の声だ。


 ――監視では足りない。

 ――もっとはっきりした札を切るべきだ。


 そういう声が、今度はもっと大きくなる。


 それを思うと、胸の奥が静かに熱を持った。


 ---



 黒翼庭では、そのやり取りが終わった頃にはもう結果が共有されていた。


 監視室に浮かぶ立体図の中、第三監視点の前へ残された標柱が、ひどく小さく見える。

 たったそれだけのものだ。

 だが、それが帝国へ返った意味は大きい。


「成功です」


 ヴェルミリアが言う。


「帝国は、押し込みが物理的前進ではないと学びます」


 バルザードも満足げに頷いている。


「いやあ、美しい返しでした!しかも血を見せずに!」


「だから、面白がるな」


 クロウが言うと、バルザードは姿勢を正した。


「失礼しました!」


 形だけは。


 だが、今回ばかりはヴェルミリアも機嫌が悪くないように見える。


 帝国の中で燃え始めた“押し込みたい者たち”の火へ、こちらは強すぎない水をかけることができた。


 死傷を出せば火は大きくなっただろう。

 何も返さなければ、今度は押し込みが常態化しただろう。


 その中間を取れたのは大きい。


「帝国はどう受け取る」


 クロウが問う。


「前線はより慎重に」


 ヴェルミリアが即答する。


「帝都は一度、静かになります。押し込みを主張していた者たちも、“少し出れば少し押せる”とは言えなくなりましたので」


 セラフィナが続ける。


「ですが、その代わりに別の声が強くなるでしょう」


「別の声?」


「“もはや監視だけでは足りない”という声です」


 その言葉に、クロウは少しだけ目を細める。


 なるほど。


 押し込みは通じなかった。

 見続けるだけでも本質には届かない。

 なら次に出るのは、“もっとはっきりした札を切るべきだ”という意見か。


 それはたぶん、ディグラスのような慎重な武ではなく、別の種類の熱を呼ぶ。


「第一皇子か」


 ヴェルミリアは静かに頷く。


「あるいは、それに連なる者たちです」


 やはり来るか。


 帝国の押し込みが失敗した以上、都の火は別の形へ変わる。

 誇り、威信、皇子の名。

 そういうものを前へ出してくる可能性がある。


 面倒だ。


 だが、見えているだけましでもある。


「連邦は」


 クロウが聞く。


「帝国のこの反応を見て、さらに断定しづらくなります」


 ヴェルミリアが言う。


「帝国がまだ“戦うべき敵”と決めきれていない以上、連邦もまた初手の大義を作りにくい」


 悪くない。


 帝国に返した一手が、そのまま連邦への牽制にもなる。


「なら、しばらくはこれでいい」


 クロウは言った。


「帝国には考えさせろ。連邦には決めさせるな」


 また綺麗にまとまりすぎた言い方だと思う。


 だが、今はそれでいい気がした。


 ヴェルミリアは深く頭を垂れる。


「御意」


 セラフィナも微笑む。


「では、帝都の次の火種を拾ってまいります」


 ガルドは短く。


「必要なら、いつでも」


 バルザードは今度こそ少し控えめに。


「監視系はさらに静かにしておきます!」


 重い。


 相変わらず重い。


 だが、クロウは玉座の上でそれを受け止めながら、もう昨日ほどは迷っていなかった。


 世界は、こちらを神話ではなく“現実の相手”として見始めている。

 なら、自分もまたその前提で一手を返すしかない。

 その一手を、四天王はことごとく形にしてくる。


 遠くで鐘が鳴る。


 境界は、また一段重くなった。


 帝国は次に、押し込みではなく“名のある札”を切ってくるかもしれない。

 連邦は“断じきれない”ことに苛立ち始めるだろう。

 魔導王国も、そろそろ匂いを嗅ぎつける。

 商盟はその全てを値踏みし始める。


 盤面は広がっている。

 その中心で、クロウは静かに息を吐いた。




最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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