「王はまだ動かない」
帝国は一枚岩ではない。
その当たり前の事実が、禁域の沈黙が破られたことで、ようやくはっきりした形を持ち始めていた。
北方方面軍は慎重だった。
ディグラスもグレイン将軍も、相手を軽んじていない。
見続け、測り、盤面を崩さずに次を探ろうとしている。
だが帝都まで視界を広げれば、話は別だった。
皇城の中庭に面した長い回廊を、レオンハルトは早足で歩いていた。
今日は軍装ではなく、皇子としての礼装に近い上着を羽織っている。
だが足取りは軍人のそれだ。
迷いがない。
止まらない。
向かう先は、軍務省の補助会議室。
大きな軍議の場ではない。
主だった決定が下る場所でもない。
だが、そのぶん本音が混じりやすい。
軍務卿の補佐官。
地方貴族出身の若い武官。
北方筋と縁のある役人。
それに皇子の側近たち。
そうした者たちが、最近よく集まり始めていた。
理由は一つ。
禁域だ。
第二報までが帝都へ届き、黒騎士ガルドの存在が共有されたことで、かえって火がついた者たちがいる。
恐れるからこそ押し込みたい者。
帝国の威信が試されていると感じる者。
北の問題を自らの出世や権限拡大に繋げたい者。
あるいは、帝国の皇子たるレオンハルトの名を北方で立てる好機だと見る者。
誰も口にしないだけで、そうした思惑はもう都の下に流れ始めていた。
会議室へ入ると、十名足らずの男たちが一斉に立ち上がった。
「殿下」
レオンハルトは軽く顎を引くだけで、席へ向かう。
長机の中央には北方の地図が置かれ、監視祠、街道、北方方面軍の補給点、そして禁域境界線の推定線が細かく書き込まれていた。
術式灯の光が地図の上で冷たく揺れる。
「始めろ」
皇子が言う。
最初に口を開いたのは、若い武官だった。貴族の次男坊で、北方筋の家門を持つ男だ。
「殿下。現状、帝国は相手の土俵に乗せられております」
言葉が強い。
だが、完全な間違いとも言い切れない。
「禁域側は、境界を見せることで我らの進軍速度を制御しようとしている。見続けるだけでは、向こうに時間を与えるばかりです」
レオンハルトは机の地図を見たまま問う。
「ではどうする」
「押し込みます」
即答だった。
「大軍ではなく、北方方面軍の精鋭のみを短く前へ出す。監視祠の線を一段前へ。遺構の見える尾根を一つ確保し、そこを恒常監視点に変えるのです」
つまり、境界線を物理的に押し込むということか。
軍事的には理解できる。
相手が線を引くなら、こちらも線を引き返す。
そうして前線を少しずつ奪っていくのは、帝国の流儀としては自然だ。
「相手がそれを越境と見たらどうする」
レオンハルトの問いに、今度は別の補佐官が口を挟む。
「だからこそ、軍ではなく監視点として押し出すのです。祈祷師と記録官を前へ出す形なら、露骨な挑発とは取りにくいでしょう」
賢いようでいて、危うい提案でもある。
軍でなければ越境ではない、という理屈は人の側の理屈だ。
禁域の主がその理屈を受けるかどうかは分からない。
「…面白い」
レオンハルトはそう言ったが、即座に賛同したわけではなかった。
自分でも分かっている。
これは好機でもあり、罠でもある。
帝国の側から一歩押すことで、禁域側の反応を引き出せるかもしれない。
だが、逆にそれが“踏み越えた一歩”とみなされる可能性もある。
そして、そうした危うい一手ほど、皇子の名を欲しがる者たちは好む。
「ディグラスは反対するだろうな」
ぽつりと漏らすと、数人の空気が少しだけ固くなった。
その反応で十分だ。
この場にいる者たちも分かっている。
今回の件で、最も現実を見ているのはディグラスと北方方面軍だ。
だが同時に、現実を見すぎる者の慎重さを“鈍さ”と呼びたがる者も出てくる。
レオンハルトはそこで、ようやく顔を上げた。
「まだ決めるな」
低い声だった。
「案としては持っておけ。だが、いま帝国が欲しいのは意地ではない。それをするに足る大義だ」
言った自分でも、少しだけ苦い気分になる。
自分は本当は、もっと前へ出たいのだろう。
だがそれを飲み込み、意味を優先しろと口にしている。
皇子としては正しい。
だが、若い武の側からすれば窮屈だ。
それでも、いまはそうするしかない。
「禁域がこちらをどう見ているのか。そこが定まるまでは、押し込みも後だ」
「…御意」
若い武官は不満を飲み込みながら頭を下げた。
だが火は消えていない。
会議室の空気を見れば分かる。
帝都の中にはもう、“境界を押し返したい”という欲が生まれている。
それはたぶん、時間とともに強くなる。
レオンハルトはそのことを、自分自身の中にも感じていた。
気に食わないのだ。
北の奥で、見えないままこちらを測る何かがいる。
帝国がその前で歩幅を調整させられている。
それがどうしようもなく不愉快だった。
だが、不愉快だからといって、すぐ剣へ飛びつくのは違う。
いまはまだ、そこではない。
---
その夜、黒翼庭の影は帝都のその会議室にも届いていた。
セラフィナは、影鴉衆から上がってきた断片を静かに整理していた。
水鏡の上には人の声の輪郭だけが淡く残り、人物名、発言の強さ、周囲の反応が細い文字で並ぶ。
――監視点を前へ。
――祈祷師と記録官を押し出す。
――露骨な挑発ではない。
――まだ決めるな。
帝都の空気が変わってきている。
恐れて引く者ばかりではない。
恐れた上で押し返したい者が、確実に熱を持ち始めていた。
その報を玉座の間へ持ち込んだのは、ヴェルミリアだった。
「帝都の一部で、“境界そのものを前へ押し込む”案が出ております」
クロウは玉座の上で、その一言を静かに聞く。
やはり来たか。
帝国が見続けると決めた時点で、次にそういう発想へ寄る者は必ず出ると思っていた。
見て、慣れ、慣れたことで“もう少し押せるのではないか”と考える。
人間らしい。
そして一番危ない。
「決定事項ではございません」
ヴェルミリアが続ける。
「ですが、第一皇子の周辺で火種になり始めております」
「レオンハルト自身は」
クロウが問う。
「まだ抑えております」
セラフィナが答えた。
「今は“意味を見極めるべき”との立場です。ですが、周囲が熱を持てばいずれ無視しきれなくなるかと」
つまり、帝国の中枢はまだ留まっている。
だが、都の空気そのものは、少しずつ前のめりになり始めている。
それは好ましくない。
帝国を監視国家として残すなら、無用な衝突で崩したくはない。
「押し込みをやらせると厄介だな」
クロウが言うと、ヴェルミリアは深く頷いた。
「はい。軍ではなく祠や監視点の形で押し出されると、こちらがどこまでを越境とみなすか、曖昧な揺さぶりになります」
そこが問題だ。
軍列なら分かりやすい。
だが記録官や祈祷師を少しずつ前へ出されると、“人の側の理屈”としてはあくまで監視に見える。
だが黒翼庭からすれば、それは十分に境界の押し込みだ。
「やるなら早い段階で止めるべきです」
ガルドが低く言う。
いつの間にか入室していたらしい。甲冑の巨体が玉座の間の端に立っているだけで、空気が一段重くなる。
「一度でも押し込めたと学べば、帝国は次からそこを基準にする」
もっともだ。
「だが、強く返しすぎれば逆に帝都の火がつく」
クロウは言う。
「そうですね」
ヴェルミリアが応じる。
「ゆえに今回は、“押し込みが意味を持たない”と理解させるのが最善かと」
「意味を持たない?」
「はい。境界そのものが固定線ではなく、こちらの認識に従って動くものだと分からせるのです」
なるほど。
帝国が祠を一歩前へ出しても、それで何かを得たことにはならない。
こちらが“まだ外”と見なせば外だし、“越えた”と見なせばその瞬間に越境になる。
そういう認識を植えつける。
それなら、物理的な押し込みは効果を失う。
「できますか」
バルザードが珍しく丁寧に問う。
ヴェルミリアは答えず、代わりにクロウを見た。
まただ。
判断を求められている。
だが今回は、少しだけ見えている。
「やれ」
クロウは静かに言った。
「帝国に、“境界は場所ではなく意志だ”と分からせろ」
言ってから、自分でも少しだけ痺れた。
何だその王っぽい台詞は。
だが、場にはとてもよく効いた。
ヴェルミリアが深く頭を垂れる。
「御意」
セラフィナは微笑む。
「では、押し込んだつもりで何も動いていないと知った時、彼らはようやく理解するでしょう」
バルザードの目が輝いた。
「面白い!では監視点の前進を許容した上で、境界線認識だけをさらに一段ずらしましょう!」
「面白がるな」
クロウは即座に釘を刺す。
「やりすぎるな」
「もちろんですとも!」
たぶんギリギリまではやるな、こいつ。
だが、方向は間違っていない。
ガルドはただ一言。
「必要なら、再び立ちます」
クロウは少しだけ考え、それから首を横へ振った。
「まだお前は出るな」
ガルドの兜がわずかに動く。
意外そうではない。
ただ、理由を待っている。
「今は、相手に“押しても意味がない”と理解させればいい。お前が出るのは、その次だ」
また少し、格好をつけすぎた気がする。
だが本音でもある。
ガルドを何度も出すのは違う。
いざという時の重みが薄れる。
ヴェルミリアはすぐに理解したらしく、静かに言った。
「では今回は、“境界の手触り”だけを変えましょう」
綺麗にまとめるなあ、と思う。
ありがたいが、やはり怖い。
---
同じ頃、聖冠連邦でも空気は変わりつつあった。
法王庁の一室では、北方禁域に関する断片情報が再び整理されている。
帝国が監視祠を増設したこと。
禁域境界線に“黒騎士”らしき存在が出たこと。
帝国がいまだ大規模進軍へ踏み切っていないこと。
その全てが、連邦にとっては判断を急がせる材料でもあり、逆に踏みとどまらせる材料でもあった。
「帝国がまだ動かぬ、ということは」
若い神官が言う。
「相応に重い事態なのでしょう」
記録司祭は頷いた。
「もしくは、帝国もまた何と呼ぶべきか決めかねている」
そこへ、新たな文書が運ばれてくる。
異端審問局からの意見書だ。
――黒翼の王に関する異本照合を進めるべし。
――北方禁域の変事は、単なる局地的異常ではなく、神敵的事象の前兆である可能性高し。
――帝国が動かぬならば、なおさら連邦が言葉を整えるべきである。
言葉を整える。
つまり、名付けるということだ。
名付けた瞬間、連邦は動きやすくなる。
大義ができるからだ。
だが、その机の上に別の紙もある。
聖女リュミエラの意見だ。
――まだ断ずるには早い。
――帝国がなお慎重である以上、連邦もまた軽々しく神敵の名を与えるべきではない。
――恐れと教義だけで先に名を置けば、事実はその後ろへ歪められる。
法王庁の中でも、いま二つの流れが静かに拮抗し始めていた。
帝国では“押し込みたい者”が増え。
連邦では“名付けたい者”が増える。
どちらもまだ主流ではない。
だが、その火は確実に育っている。
そして厄介なのは、その火がどちらも“正しさ”の顔をしていることだった。
帝国側では、国境を守るために押し返すべきだと言う。
連邦側では、民を惑わさぬため早く名を定めるべきだと言う。
どちらも表向きはもっともらしい。
だからこそ危うい。
---
その夜、黒翼庭の静庭で、クロウは一人立っていた。
高い格子越しの外光は薄く、白い葉の低木だけが静かに揺れている。
遠くの水路の音が、妙にきれいだった。
ここに来ると、ほんの少しだけ頭が整理できる。
玉座の間では重くなりすぎる考えも、この静庭なら自分のものとして噛み砕ける気がした。
帝国では押し込みの火が出始めている。
連邦では名付けの火が出始めている。
こちらはまだ剣を抜いていない。
だが、もう“見るだけ”の段階は終わりつつある。
どこかで一度、大きな線を引かなければならないかもしれない。
その時、自分は何をどこまで見せるべきなのか。
「…面倒だな」
思わず口に出る。
実際、面倒だ。
世界規模で面倒だ。
そこへ、後ろから静かな足音が近づいた。
ヴェルミリアだった。
「陛下」
「何だ」
「帝国の押し込み案ですが、今夜のうちに境界線監視へ反映を始めます」
「そうか」
「加えて」
ヴェルミリアは少しだけ間を置いた。
「もし帝国が本当に一歩押してきたなら、その時は陛下のご判断が必要になります」
クロウは振り返らずに聞く。
「なぜだ」
「次は、おそらく“見せ方”だけでは済まないからです」
その一言は重かった。
押し込みは、監視ではない。
境界の解釈争いだ。
そこまで来れば、単なる境界線演出では足りないかもしれない。
「帝国が自ら踏み越えるなら、こちらもまた“何を越えたか”を明確にせねばなりません」
ヴェルミリアの声は静かだった。
「それは、四天王だけでは決めきれぬ線です」
つまり、王の仕事。
クロウは心の中で小さく息を吐く。
結局そこへ戻るのだ。
四天王は有能だ。
だが、最後の線引きだけは自分がやるしかない。
「…分かった」
短く言う。
「その時は、私が決める」
ヴェルミリアは深く頭を垂れた。
「ありがとうございます」
礼を言われるようなことではない。
だが、この城ではそれが当然なのだろう。
少しの沈黙の後、クロウはぽつりと問う。
「ヴェルミリア」
「はい」
「お前たちは、千年ずっと待っていたのか」
聞いてから、自分でも少し意外に思う。
だが、ずっと引っかかっていたことでもあった。
四天王の忠誠は重い。
重すぎる。
だが、その重さはどこから来るのか。
設定だから、というだけではもう済まない気がしていた。
ヴェルミリアはすぐには答えなかった。
風が静庭を抜ける。
白い葉が少しだけ揺れる。
「…はい」
やがて、彼女は静かに言った。
「少なくとも私は」
たったそれだけなのに、クロウは少し言葉を失う。
千年。
その重みを自分は実感できていない。
だが、この城の者たちはその重みの中で今日を待っていたのだ。
だから信頼が重いのだろう。
重いのは当然なのだろう。
その答えに、クロウはしばらく何も言えなかった。
やがて、ようやく短く返す。
「…そうか」
「はい」
それ以上の会話は続かなかった。
だが、その静けさは嫌ではなかった。
重い。
やはり重い。
けれど、その重さを少しだけ別の角度から受け取れた気がする。
忠誠というより、待ち続けた時間そのものが、ここには積もっている。
だからこの城の空気は静かなのに重いのだ。
だから自分の何気ない一言が、彼らにとっては簡単に流せない。
そしてその時、遠くの城内で低い鐘が一つ鳴った。
次の一手は近い。
帝国が押すかもしれない。
連邦が名付けるかもしれない。
そのどちらかが起きた時、たぶん自分も本当に“王としての一手”を打たなければならない。
クロウは静庭の薄い光の中で、ゆっくりと目を閉じた。
王は、まだ動かない。
だが、動かないことそのものが、もう意味を持ち始めている。
沈黙はただの保留ではない。
剣を抜かないこともまた、境界線の一つだ。
それを見て、帝国は測り、連邦は言葉を選び、世界は勝手に重みを受け取っていく。
面倒だ。
怖い。
重い。
それでも。
千年待っていた者たちがいるのなら、少なくとも自分は、その重さから目を逸らすわけにはいかない、そんな気がしていた。
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