「黒鴉城ネヴァーグレイヴ」
目が覚めた。
最初に見えたのは、高い天井だった。
黒い石で組まれた天井に、細い金の線がいくつも走っている。
規則的なようでいて、全体で見れば星座のようにも見えた。
暗いのに、わずかに光を返している。
夜空を、そのまま石の内側へ閉じ込めたような天井だった。
知らない天井だ。
そう思った直後、別の違和感が背中を這い上がった。
視界が、高い。
寝起きで頭がぼんやりしているとか、そういう曖昧な話ではない。
もっと単純で、もっと気味が悪い。
ものを見る位置が、明らかに普段より高かった。
ベッドが大きいのかと思った。
だが違うらしい。
視界に入る柱も壁も何もかも大きい。
それなのに、自分との距離感だけが妙に自然だった。
つまり、おかしいのは周囲ではなく自分の方だ。
ゆっくりと上体を起こす。
その動きが、さらに妙だった。
重くない。
軽い、というのとも違う。
ただ、思った通りに動きすぎる。
筋肉を使って体を起こした感覚が薄い。
なのに動作だけは、驚くほど滑らかにつながっていく。
糸で吊られた人形が、理想形のまま静かに持ち上がったような、不自然な正確さがあった。
「…何だ、これ」
声に出した瞬間、また変だと思った。
自分の声なのに、自分の声ではない。
低い。
落ち着いている。
よく通る。
寝起き特有の掠れもない。
数秒、黙る。
いや、待て。
落ち着け。
こういう時は順番だ。
順番を決めろ。
視界。
体。
周囲。
頭の中でそう区切ってから、彼――鴉羽蓮也は、自分の手を見た。
黒い手袋かと思った。
違う。
手袋ではない。
黒金の装飾が刻まれた長い袖口の先にあるのは、青白い手だった。
生気の薄い、人間離れした白さ。
指は細く長く、爪はわずかに黒い。
関節の位置は人のそれのはずなのに、どこか整いすぎていて、作り物めいて見えた。
指先を動かしてみる。
動く。
当たり前だ。自分の手なのだから。
だが感覚が薄い。
あるにはあるのに、皮膚の生っぽさが遠い。
温度も、汗ばみも、脈打つ感じも、全部がひどく希薄だった。
反射的に胸元へ手をやる。
服も知らない。
――いや。
知らない、というのは違う。
見覚えがあった。
黒を基調に、細い銀と金の刺繍が走る長衣。
布地は重そうなのに、身につけている感覚はほとんどない。
肩から背にかけて、羽根を思わせる意匠が幾重にも重なっている。
装飾は多い。だが嫌味ではない。
豪奢というより、威厳の方が先に立つ服だった。
知っている。
どこで見た、ではない。
もっと最悪の形で知っている。
背筋を冷たいものが走った。
「…クロウの、衣装」
口にした瞬間、嫌な確信が輪郭を得た。
クロウ。
クロウ・レイヴンハート。
《黒翼の終王》。
自分がかつて使っていた、VRMMOの自作キャラクターの名前だ。
そこでようやく、蓮也――いや、今はもうクロウと呼ぶべきなのかもしれない存在は、周囲へ視線を巡らせた。
広かった。
言葉にしてしまえばそれだけだが、現実感がまるで追いつかない。
自分がいるのは寝台ではない。
寝台らしきものは近くにあったのかもしれないが、今いるのは数段高くなった壇上の上だった。
床は鏡のように磨かれた黒い石で、淡い青白い光を返している。
左右には太い柱が何本も並び、その根元には見たこともない術式文様が刻まれていた。
正面には、長い階がある。
その先に、大きく開けた空間。
広間だ。
巨大な玉座の間。
しかも、見覚えがあった。
妙に、ではない。
間違いなく、ある。
黒鴉城ネヴァーグレイヴ。
その最奥。
終焉の玉座の間。
自分で作り、自分で設定を盛り、自分で何度もゲーム内で眺めたはずの場所が、今は現実の質量と空気を伴って目の前にあった。
「…は?」
間の抜けた声が出た。
いや、仕方ないだろう。
おかしい。
自分はついさっきまで――ついさっき、だったはずだ。
そこだけ妙に曖昧なのが逆に嫌だったが、とにかくこの場所にはいなかった。
記憶の最後にあるのは、薄暗い自室と、椅子と、モニターの光だ。
少なくとも、こんな巨大な玉座の上で眠っていた覚えはない。
夢か。
そう思って頬に触れようとして、指先が止まる。
夢にしては、あまりにも感覚が細かすぎる。
空気が冷たい。
だが寒くはない。
衣装は重そうなのに邪魔にならない。
視線を動かすたび、金の装飾がわずかに光を返す。
そして何より。
視線の先に、人がいた。
いや、正確には、人に見える何かが四人。
玉座の下。
長い階の終わる位置で、四つの影が揃って片膝をついていた。
クロウは息を止めた。
最初に目に入ったのは、女だった。
長い黒髪を床まで流し、漆黒のドレスを纏っている。
喪服にも、宮廷衣装にも見える奇妙な服だ。
白い手袋を嵌めた両手を胸元で静かに重ね、伏せた顔は整いすぎていて、人形めいてすらいた。
だが、目だけが違う。
伏せられた紫の瞳に、抜き身の刃のような冷たさがあった。
その隣には、黒い甲冑の騎士がいた。
巨躯だった。
片膝をついてなお大きい。
全身を覆う鎧は重厚で、肩当ては鴉の翼を模した形をしている。
兜の奥は暗く、顔は見えない。
だが黙っているだけで、そこに黒い城門でも置かれているような圧があった。
さらにその横。
白銀の髪の女が、祈るように頭を垂れていた。
背には翼がある。
純白だ。
だが先端だけが墨を流したように黒い。
清らかさと不吉さが同時に存在していて、嫌でも目を引く。
衣装は修道服に似ていた。似ているが、神に仕える者の服というより、神に代わって裁きを下す者の服に見えた。
最後の一人は、細身の男だった。
片眼鏡をかけ、黒い技師服の上に長い外套を羽織っている。
学者か職人のようにも見える。
四人の中では一番人間らしい。
だが、その指先だけが妙だった。
骨とも金属ともつかない質感で、今にも勝手に動き出しそうな落ち着きのなさがある。
全員に見覚えがあった。
しかも最悪の形で。
知っている。
全員、知っている。
自分が作った。
正確には、自分が設定した配下だ。
黒鴉城ネヴァーグレイヴを支える四天王。
筆頭にして宰相、
《黒葬の宰相》ヴェルミリア。
軍勢の長、
《屍山の黒騎士》ガルド・ヴァルカン。
影と粛清を司る、
《告死の白翼》セラフィナ。
そして技術と兵装の管理者、
《冥匠》バルザード。
心臓があるなら、たぶん今ごろ相当ひどい音を立てていた。
クロウは黙った。
いや、黙るしかなかった。
何を言えばいい。
何が起きている。
なんでこいつらがここにいる。
というか、なぜ揃って自分に跪いている。
何一つ分からない。
だが、一つだけ分かることがある。
この場で変なことを言ったら、たぶん終わる。
何がどう終わるのかは分からないが、とにかく取り返しのつかない方向へ行く。
それだけは、社会人として長年炎上案件の気配を嗅ぎ分けてきた勘が告げていた。
余計なことは言うな。
狼狽えるな。
まず情報だ。
すると、黒髪の女――ヴェルミリアが静かに顔を上げた。
ほんのわずかな動きだった。
だが、それだけで場の空気が引き締まる。
紫の瞳が、まっすぐ玉座へ向く。
「陛下」
声は穏やかだった。
静かで、柔らかく、よく通る。
そのくせ、ひどく冷たい。
「長きご静養、誠にお待ち申し上げておりました」
その一言で、背筋に冷たいものが走った。
陛下。
陛下?
設定上そう呼ばれる立場なのは分かる。
だが、実際にそう呼ばれるのは全く別物だった。
しかもヴェルミリアだけではない。
黒甲冑の騎士が頭を垂れたまま、低く言う。
「ご帰還を、心よりお祝い申し上げます」
白翼の女が、祈るように手を組んだ。
「再び御姿を拝せたこと、これ以上の喜びはございません」
最後に、片眼鏡の男が、興奮を押し殺しきれない声で続く。
「城内機構、全域で再起動を確認しております!ああ、いや、失礼、まず申し上げるべきはそこではなく――陛下!お目覚め、まことに歓喜でございます!」
お目覚め。
再起動。
ご静養。
聞こえてくる単語が、どれもこれも現実感を削ってくる。
クロウは必死に頭を回した。
整理しろ。
状況は最悪だ。
だが、たぶんまだ詰んではいない。
…いや、詰んでいる可能性は十分あるが、少なくとも今この場でそれを顔に出したらもっと詰む。
分かっていることは三つ。
一つ。
自分は今、クロウ・レイヴンハートの姿をしている。
二つ。
ここは黒鴉城ネヴァーグレイヴ、その玉座の間らしい。
三つ。
目の前の四人は、自分を主として扱っている。
逆に言えば、分からないことは全部だ。
なら、まず必要なのは情報。
顔には出ていない。
…はずだ。
この体の表情筋がどこまで動いているのか分からないが、少なくとも四人の反応を見る限り、取り乱したようには見えていない。
なら、このまま押し切るしかない。
クロウはゆっくりと息を吸った。
実際に肺がどう動いているのかはよく分からなかったが、とにかくそういう体裁で一拍置く。
それから、できるだけ短く、できるだけ自然に、最も無難そうな言葉を選んだ。
「…まずは、現状を報告しろ」
一瞬、沈黙が落ちた。
失敗したか、と思う間もなく。
四人が一斉に、さらに深く頭を垂れた。
「「「「はっ」」」」
揃いすぎていて逆に怖い。
クロウの内心など知るはずもなく、ヴェルミリアが静かに顔を上げる。
その表情には、迷いも疑いも、一欠片もなかった。
「御意のままに、陛下」
紫の瞳が、まっすぐこちらを見る。
「千年の空白を含め、すべてを」
その言葉に、クロウは表情一つ変えないまま、心の中だけで頭を抱えた。
千年って何だ。
いや待て。
そこからなのか。
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