プロローグ 「神話は死んでいなかった」
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北方の大山脈。そのさらに奥。
人の国の地図では、そこから先はたいてい白く塗り潰されている。
雪原。氷谷。未踏破地帯。禁域。
書き方はまちまちでも、意味は同じだ。
**人が踏み込んではならない場所**。
国境線すら曖昧になる氷雪地帯の果てに、
《黒鴉城ネヴァーグレイヴ》はある。
――いや、ある、という言い方は、正確ではないのかもしれない。
誰も、その全容を見たことがないからだ。
氷の谷底に沈んでいるともいう。
黒い山脈そのものが城なのだともいう。
晴れた夜には、何もない空に巨大な影だけが浮かぶのだとも。
だが、形がどうであれ、語られる中身は一つだった。
そこには、王が眠っている。
人の時代よりも前、まだ七柱の王が神話としてではなく現実として世界に在った頃、その一角に数えられた存在。
黒き翼を背負い、終わるべきものを見届け、告げ、選別するとされた王。
名を、クロウ・レイヴンハート。
異名はいくつも残っている。
《黒翼の終王》。
《死告げの王》。
《千眼の鴉》。
《黄昏の観測者》。
時代や土地によって呼び名は違う。
だが、それらが指しているものは一つだけだ。
人の世が訪れる以前に姿を消し、
それでもなお、滅びたとは誰にも言い切れない王。
王国が滅んだ時代の古い軍記には、こうある。
【北へ向かった一万の兵が、城門を見ることもなく壊滅した】
聖職者たちの残した封印記録には、こう記されていた。
【黒き翼の王は眠れど滅びず。玉座ある限り、終焉は死なず】
辺境の寒村に伝わる口承になると、もっと単純だ。
あそこには、死の王様がいる。
見つかったら終わりだ。
伝承の形は違っても、含まれる恐れはよく似ていた。
だから各国は、その禁域へ直接手を伸ばすことはしなかった。
手を出せば何が起こるか分からない。
いや、たぶん、ろくなことにはならないと知っていたからだ。
せいぜい、監視することしかできない。
氷雪地帯の境界線に監視塔を築き、
聖印を刻んだ祈祷所を置き、
散逸しかけた古記録をつなぎ合わせる。
もし、何かが起きたなら。
もし、何かが目覚めたなら。
せめて最初に知ることができるように。
その程度の備えしか、人には許されていなかった。
そして今夜。
その“もしも”が、現実になろうとしていた。
---
北方監視塔、第六監視室。
老いた監視官は、壁一面に並ぶ魔力計の針が、ほとんど同時に跳ね上がるのを見て、最初は自分の目を疑った。
「…何だ、これは」
ひび割れた声が、冷えきった石の室内に落ちる。
銀の針が震えていた。
一つではない。
二つでも、三つでもない。
十。二十。
盤面に並んだすべての針が、細かく、異様に、脈打つように跳ねている。
ありえない数値だった。
故障か、と思った。
だが次の瞬間、それが機械の異常ではないと分かった。
窓の外で、空気そのものが変わったのだ。
吹雪が、止んでいた。
つい先ほどまで監視塔の壁を殴りつけるように荒れていた北風が、嘘のように消えている。
雪の唸りもない。
風切り音もない。
静かだった。
異様なほどに。
監視官は椅子を蹴るように立ち上がり、窓際へ駆け寄った。
夜の山脈は暗い。
それ自体は当然だ。
だが今、谷の奥には“夜より濃いもの”があった。
月明かりの届かないはずの場所に、さらに深い闇が沈んでいる。
山の影ではない。雲でもない。
黒を何層も塗り重ねたような、巨大すぎる影。
形が分からない。
いや、巨大すぎて、形として認識できないのだ。
その時だった。
夜空を横切って、何かが落ちた。
最初は雪片かと思った。
だが違う。
監視官が息を呑む。
それは羽だった。
鴉の羽に似ている。
だが、似ているだけだ。
大きさがおかしい。
人の腕ほどもある漆黒の羽根が、わずかな光すら弾かぬまま、音もなく谷の底へ落ちていく。
たった一枚。
それだけなのに、ぞっとするほど重かった。
監視官の頬を、冷たい汗が伝った。
「封印監視所へ連絡!緊急だ!禁域中心部に超高密度反応!」
部下たちが一斉に動く。
記録板が開かれ、伝令術式が起動し、別室から慌ただしい足音が響く。
だが監視官自身は、最後の報告分類を口にしかけたところで、喉を詰まらせた。
分類。
この現象に付けるべき名前を、彼は知ってしまった。
長く記録官として生きてきた。
神話を笑わない程度には年を取り、
だが本物を目にすることは一度もなかった。
だからこそ、分かる。
これが、人の尺度に収まる反応ではないことが。
「…神話級反応」
掠れた呟きが漏れた、その直後。
監視塔の鐘が鳴った。
一打。
二打。
三打。
夜を裂く警鐘が、北方一帯へ鋭く響き渡る。
谷に反響し、氷壁に砕け、遠くの祈祷所にまで届いていく。
だが、その音が人の領域へ広がっていくよりも早く。
禁域の最奥。
永遠に沈黙しているはずだった城の内部では、すでに変化が始まっていた。
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黒曜石に似た石で築かれた巨大な回廊に、順番に灯がともる。
一つ。
また一つ。
青白い光が暗闇を裂き、
千年ものあいだ息を止めていた宮殿が、ようやく肺を開くように動き出していく。
高すぎる天井。
無数の柱。
床を這う複雑な術式。
玉座へと続く、長く黒い階。
そのすべてが、主を迎えるためだけに設えられたような静謐を保ちながら、ゆっくりと目覚めていく。
古い封印環が、低い音を立てて軋む。
眠り続けていた魔力が、石壁の内側を血流のように巡る。
城そのものが、ひとつの巨大な生き物のように再び活動を始めていた。
最奥。
あらゆる光が辿り着く先。
漆黒の玉座の間で、最後の封印環が、音もなく砕け散る。
砕けた光が、冷えた床の上に消える。
そして。
玉座の上で、ひとりの王が、ゆっくりと目を開いた。
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