「白い都の下、静かな選別」
黒翼庭の境界線は、目覚めた城でありながら、まだ完全には目覚めていなかった。
それは弱さではない。
むしろ意図したものだった。
北方禁域の奥、黒鴉城ネヴァーグレイヴを中心に広がる外周地帯には、古い回廊跡、崩れた祭壇、雪に埋もれた石碑、半ば地中へ沈んだ見張り塔のような構造物がいくつもある。
いずれも人の手で最近作られたものではない。
神話時代の残滓とでも呼ぶべきものだ。
そこへ今、黒翼庭は“見せるための静けさ”を重ね始めていた。
風の流れをわずかに整える。
霧の濃さを場所ごとに変える。
境界線へ差し込む光を薄く歪める。
崩れた石碑の前にだけ雪を積もらせず、逆に見えなくしたい通路には夜のうちに白を厚く乗せる。
やっていることは地味だ。
地味だが、それを積み重ねられると、入ってきた側は“何かがある”と感じながらも、“何があるのか”を掴めなくなる。
ある場所は妙にはっきり見える。
ある場所は、見えそうで見えない。
昨日まではただの雪原だったはずなのに、今日になるとそこへ意味が滲み出してくる。
見ている者の頭の中で、勝手に神話が補完されていく。
その調整の中心にいるのは、当然ヴェルミリアとバルザードだった。
玉座の間から一段下がった監視室では、境界線の立体図が何重にも重なって浮かんでいた。
谷、尾根、監視祠、帝国の監視点、それに対してこちらが見せる遺構や沈黙区画までが、層ごとに整理されている。
「帝国が増やした監視祠は三つです」
ヴェルミリアが言う。
「本格的な前進ではございません。ですが、長期的な監視へ切り替える意志は明白です」
「よろしいことではありませんか」
バルザードは片眼鏡を押し上げながら、楽しそうに図面を切り替える。
「見せる範囲を限定できる。相手が定点監視に寄るなら、こちらは“見せたい異常”を規則的に積めます」
言っていることは分かる。
分かるが、その言い方だとまるで展示会だ。
クロウは監視室の上段からそれを見下ろしながら、少しだけ複雑な気分になった。
昨日までは、“いきなり戦争にならないように何とかする”で頭がいっぱいだった。
だが今は、相手の出方を見た上で、“どう見せていくか”をこちらが選ぶ段階に入りつつある。
規模が大きい。
そして手触りが妙に政治的だ。
「具体的には」
クロウが言うと、ヴェルミリアがすぐに返す。
「帝国には三つだけを見せ続けます」
指が一本立つ。
「一つ。こちらは常に見ていること」
もう一本。
「二つ。今はまだ境界線以上へ出る気がないこと」
最後の一本。
「三つ。境界線を踏み越えれば次はないこと」
簡潔で、よくまとまっている。
クロウはそれを頭の中で反芻した。
見ている。
今はまだ出ない。
だが線を越えれば終わり。
確かに、いま帝国へ与える印象としてはちょうどいい。
「…悪くない」
口にすると、ヴェルミリアはわずかに頭を下げた。
「恐れ入ります」
バルザードはその言葉を聞いた瞬間、さらに図面を展開しそうな顔になったので、クロウは先に釘を刺す。
「ただし、やりすぎるなよ」
「もちろんですとも!」
元気よく答える。
信用しきれない。
だが今のところ、ヴェルミリアの監督があるなら大丈夫だろう。たぶん。
「工廠側で弄るのは境界線の気流制御と視界誘導だけに留めます!監視阻害は薄く、威圧は濃く、しかし実害はなし!いやあ、絶妙な線引きというのは技師魂が燃えますね!」
「燃やすな」
クロウは即座に言った。
「静かにだ」
「はっ!」
返事だけはいい。
返事だけは。はぁ。
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帝国北方方面軍の対応は早かった。
禁域外周に点在する監視祠には、追加の記録官と祈祷師が送り込まれ、監視結晶の数も増やされた。
簡易な柵だった場所には雪除けの幕が張られ、仮設の監視台が建つ。
兵の数自体は多くない。
だが明らかに“ここで長く見るつもり”の布陣だった。
ルークスはその様子を見ながら、なんとも言えない気分になっていた。
自分たちが昨夜持ち帰ったものは、帝国をすぐに動かす火ではなかった。
だが、消えるでもなかった。
静かに、重く、長く燻る火だ。
「隊長」
副官が雪を払いながら近づいてくる。
「北祠と西祠、両方とも増員完了です」
「早いな」
「中央が本気ですから」
それはそうだ。
ルークスは監視祠の外で足を止め、谷の向こうを見た。
昨夜、羽が落ちたあたりは今はただ白い。
何もない。
何もないのに、目を逸らしたくなる感じだけは残っている。
人が一度“あそこに意味がある”と思ってしまうと、ただの雪原には戻らない。
見えるものが変わらなくても、見方そのものが変わってしまう。
「…見てると思うか」
ぽつりと出た言葉に、副官は少し困った顔をした。
「さあ…ですが、気づかれていないとは思えません」
「だろうな」
ルークスは苦く笑う。
こちらが祠を増やしたことも、監視を厚くしたことも、たぶん全部気づかれている。
気づかれた上で、今のところ何も返ってきていない。
それが逆に落ち着かない。
叩かれた方がまだ分かりやすい。
黙って見られる方が、人は勝手に想像を膨らませる。
「ディグラス殿は、今日の夕刻までには北縁へ着くそうです」
「聞いてる」
ルークスは短く答える。
帝国最強の竜騎士団長が来る。
それだけで兵の空気が変わっていた。
安心する者もいる。
逆に、“そこまでしなければならないのか”と不安を強める者もいる。
どちらにせよ、昨夜までとは違う。
「隊長は、どう思いますか」
「何がだ」
「禁域の向こうです」
副官は声を落とした。
「本当に、“王”みたいなものがいると思いますか」
ルークスは答えずにしばらく雪原を見た。
それから、率直に言う。
「分からん」
それが本音だった。
「ただ、主のいない城ではないと思う」
昨夜の羽。
谷で感じた視線。
祠に届いた“警告”という言葉。
そして戻ってきてからの空気の重さ。
「何かがいる。しかも、俺たちのことを見て考える程度には、頭もある」
副官は小さく唾を飲む。
「それって、かなり嫌ですね」
「ああ」
ルークスは短く笑った。
「かなり嫌なことだ」
そして心のどこかで思う。
この“嫌さ”を共有できること自体が、もう昨夜までの帝国とは違うのだと。
禁域はただ恐れるだけの怪談ではなく、判断を要する相手になった。
それが、兵の会話の底へまで染み始めていた。
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帝都の地下には、古い排水路が張り巡らされている。
帝国が大きくなる前からある石造りの水路だ。
いまは多くが補修され、主な流れは新しい術式管へ移っている。
だが、使われなくなった古い区画は残ったままだった。
その暗い水路の一角に、影が二つあった。
人の形をしている。
だが光を受けても輪郭が曖昧で、直視しようとすると石壁の黒ずみに混ざるような気配がある。
影鴉衆だった。
「上では軍務省の出入りが増えています」
一人が囁く。
「第一皇子の私兵筋も、独自に動き始めました」
「早いですね」
もう一人が返す。
「皇子本人が前へ出られぬなら、その周辺が先に熱を持つのは自然かと」
水面がかすかに揺れる。
水路のさらに奥、暗闇の中には影鴉が何羽も留まっていた。
梁、割れ目、石の継ぎ目。
帝都の下ですら、黒翼庭の目はすでに静かに根を張っている。
「第一皇子レオンハルト。彼のことはどう扱いますか」
問いが落ちる。
「今は何もしません」
返ってきた声は、影鴉衆のものではなかった。
暗闇の奥からセラフィナが姿を現す。
いつの間にそこにいたのか分からない。
白銀の髪と白い翼だけが、この地下では逆に浮いて見えそうなものだが、不思議と場へ溶けていた。
影鴉衆が即座に膝をつく。
「まだ、帝国は選んでいる最中です」
セラフィナは穏やかに言う。
「ならばこちらも、余計な手は足しません。熱を持つ者が誰か、誇りで動く者が誰か、利で動く者が誰か。それを見切るまではまだ」
「では監視を優先、と」
「ええ」
セラフィナは水路の天井を見上げる。
その上には帝都がある。
兵が歩き、役人が走り、皇子が考え、軍務が回る都だ。
「帝国は今、まだ一枚岩ではありません。恐れる者、怒る者、測ろうとする者、そして…陛下の御存在を、自らの野心に結びつけようとする者もいずれ出るでしょう」
影鴉衆の一人が顔を上げる。
「その者は」
「いずれ、斬ります」
柔らかい声だった。
だが、その穏やかさが逆に冷たい。
「陛下の沈黙を、自らの都合で解釈する者は不要です」
そこに一切の迷いはなかった。
セラフィナにとって、殺すかどうかは感情ではない。
基準だ。
陛下の意図を汚すか、汚さないか。
その一点だけで、彼女の中では判断が済む。
「ですが、まだその時ではありません」
彼女は静かに続ける。
「帝国には、もう少し動いていただきましょう。誰が前へ出るのか。誰が後ろから押すのか。誰が見ているふりをして刃を研ぐのか」
影鴉衆たちは深く頭を垂れる。
「追え。ただし、見つかるな」
「はっ」
帝都の下、光の届かない古い水路で、黒翼庭の影はさらに静かに広がっていった。
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黒鴉城ネヴァーグレイヴの境界線では、変化がごくゆっくりと積み上がっていた。
帝国の監視祠から見える位置に、崩れた塔が一つだけ半ば雪から姿を現す。
昨日までは見えなかったものだ。
逆に、遠く尾根の上にあったはずの黒い祭壇跡は、今朝から霧に隠れて見えない。
風は一定方向にしか流れないようでいて、監視結晶の前だけ妙に乱れる。
谷筋は静かだが、耳を澄ますとごく低い鐘のような音が時折混ざる。
どれも些細な変化だ。
だが、定点で見続ければ必ず気になる。
黒翼庭は、帝国に対して“監視を許している”ようでいて、実際には“監視するたび分からなくなる境界線”を作り始めていた。
その調整結果を、クロウは再び立体図で見せられていた。
「…本当にこうなるのか」
思わず口に出る。
崩れた塔の見え方ひとつで、境界線の印象がまるで変わる。
古い遺構が目に入ると、人はそこに意味を見出そうとする。
逆に、本当に見られたくない場所が霧と雪で自然に隠れていると、その“自然さ”のせいで逆に疑いを持ちにくくなる。
ヴェルミリアが答える。
「はい。人は“見えたもの”より、“見えそうで見えないもの”に意識を奪われますので」
妙に納得できる話だった。
実際、自分もこの立体図を見ていて、霧で隠れた祭壇跡の方が気になっている。
「帝国側は、遺構の位置変化に気づくかと」
バルザードが指先を振る。
「もちろん、本当に移動させているわけではなく、視界誘導の結果そう見えるだけです!近づけば違うと分かる程度には薄く、しかし遠目には違和感として残るようにしてあります!」
「面倒なことを」
クロウが言うと、バルザードはむしろ嬉しそうだった。
「面倒な程度がちょうどよいのですよ!“確信は持てないが、気になる”。これが監視者には一番効きます!」
それはもう、ほとんど嫌がらせの設計思想なのではないか。
だが、帝国が見続けると決めた以上、こちらが見せ方を選ぶのは理にかなっている。
クロウは少しだけ黙り、それから言った。
「一つだけ守れ」
全員の視線が集まる。
「“いずれ分かる”と思わせろ」
口にしながら、自分でも何を言っているのか少し考える。
だが、感覚としては正しかった。
「最初から全部隠すと、向こうは無理に挑む。だが、“もう少し見れば分かるかもしれない”と思わせておけば、勝手に止まる」
言い終えてから、監視室が数秒だけ静まり返った。
また何かまずいことを言ったか、とクロウは一瞬身構える。
だが次に反応したのはヴェルミリアだった。
「…お見事です」
やめてほしい。
その感心した声は本当に心臓に悪い。
「確かに、それなら帝国は自ら監視を継続し、こちらから深く踏み込ませずに済みます」
バルザードも目を輝かせる。
「素晴らしい!完全拒絶ではなく、永遠の手前に置き続けるわけですね!」
言い方が怖い。
セラフィナも静かに微笑んだ。
「陛下は、やはり人の扱い方をよくご存じです」
そこまで大それた話ではない。
ただ普通に、全部見えないと人は無理をするが、“もう少しで分かる”と思うと勝手に様子を見る、というだけだ。
…いや、王の立場で言うと確かにそれっぽく聞こえるのかもしれない。
クロウは表情を保ったまま、心の中だけで小さくため息をついた。
こうしてまた、自分の何気ない一言が黒翼庭の方針へ変わる。
重い。
だが同時に、この四人がそれを形にできてしまうのも事実だ。
「始めろ」
短くそう言う。
「帝国には、監視を続けさせる」
四天王が一斉に頭を垂れた。
「「「「御意」」」」
その返事と同時に、立体図の境界線がわずかに組み替わる。
まだ小さい。
まだ静かだ。
だが、確実に盤面は変わり始めていた。
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その日の夕刻、帝都の一角。
レオンハルトの私室には、北方からの追加報告が運び込まれていた。
封を切り、目を通し、皇子は無言で数行を読み返す。
竜騎士団長ディグラス、禁域境界線にて黒騎士と接触。
剣の交錯なし。
明確な境界提示あり。
敵対意志は限定的。ただし、段階的警告とみられる応答を再度確認。
報告を机へ置く。
「…黒騎士、か」
口にすると、嫌な実在感があった。
ただの伝承だったはずの相手が、今は具体的な名を持って帝国の報告書に載る。
《屍山の黒騎士》ガルド・ヴァルカン。
皇子はその名を心の中で繰り返した。
禁域の王ではない。
だが、王の代わりに立つだけの格を持つ者。
つまり、奥にはやはり“それ以上”がいる。
その事実に、胸の奥がざわつく。
恐れではない。
少なくとも、それだけではない。
自分の知らぬところで、北の奥に“帝国と並べて考えるべき何か”が立ち上がっている。
そのことが、どうしようもなく気に食わなかった。
同時に、目を逸らせない。
「殿下」
扉の向こうから私兵長の声がした。
「北方筋より追加の客人が」
「誰だ」
「聖冠連邦の巡礼監察官だと名乗っております。北方禁域の変事について、帝国側の認識を伺いたいと」
レオンハルトの目が細くなる。
早い。
思ったよりずっと早い。
帝国がまだ盤面を読んでいる最中に、もう連邦が嗅ぎつけてきた。
これで北の問題は、帝国だけのものではなくなる。
「通すな」
皇子は即答した。
「軍務省へ回せ」
「はっ」
足音が去る。
レオンハルトは窓の外を見た。
帝都の空はもう暗い。
だが北の方角だけは、なぜか少しだけ色が違って見えた。
そこに本当に王がいるのか。
まだ断定はできない。
だが、もし本当にいるのなら。
帝国は、そう遠くないうちに、その王を神話の中ではなく、現実の相手として迎えることになる。
その時、自分はただ見ているだけでいられるのか。
レオンハルトは机の上の報告書へ再び手を伸ばした。
火種は、もう帝都にも落ち始めている。
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