「宰相の解釈」
ガルドが黒翼庭へ戻った時、クロウは再び玉座の間にいた。
正確には、戻ったというより“呼ばれた”に近い。
上層静庭でヴェルミリアと話していたところへ、セラフィナ経由で「ガルドの接触が終わった」と伝わり、そのまま玉座の間へ移ったのだ。
またここか、とクロウは内心で思う。
いや、当然といえば当然だ。
黒翼庭の中枢なのだから、重要な報告はここへ集まるのだろう。
だが、あの巨大な玉座に座るたび、まだ少しだけ“自分がここにいていいのか”という感覚が浮く。
もちろん顔には出さない。
もう出せる段階でもない。
玉座の間は相変わらず広く、静かで、どこか冷えていた。
高い天井。
黒い柱。
長い階。
淡い青白い灯が、床を走る術式の線だけを細く照らしている。
この場所では、ただ座っているだけで意味が発生する。
それがありがたくもあり、ひどく疲れる。
玉座の下では、ヴェルミリア、セラフィナ、バルザードがすでに揃っていた。
そこへガルドが入り、長い階の終わる位置で片膝をつく。
「戻りました、陛下」
低い声が玉座の間に響く。
「ご苦労」
クロウは短く返した。
それだけで、四天王の視線が一瞬だけこちらへ集まる。
頼むから毎回そんなに重みのある空気を作らないでほしい、と思うが、もう今さらだ。
「報告を」
そう言うと、ガルドは必要なことだけを順に述べ始めた。
ディグラスとエルマが少数で北へ来たこと。
正面で接触したこと。
帝国側は昨夜の境界を踏まえた上で、さらに線の意味を測りに来ていたこと。
こちらが黒翼庭第二席として立ったこと。
相手はそこで止まり、問うべきことだけを問い、最終的には引いたこと。
無駄のない報告だった。
戦闘の詳細ではなく、判断の経緯と相手の質だけが残る。
いかにもガルドらしい。
斬った数や威圧の強さより、“何が交わされ、何が越えられなかったか”だけがまっすぐ残っている。
「…つまり」
クロウは地図の浮かぶ床を見下ろしながら言う。
「ディグラスという男は、踏み込まずに引ける」
「はい」
ガルドは即答した。
「少なくとも、無用に誇りを優先する類ではありません。踏めば越えると分かった上で、留まる胆力があります」
なるほど。
それはかなり重要な情報だった。
強い上に、止まれる。
そういう相手は厄介だが、逆に言えば“対話にならない獣”ではない。
ヴェルミリアが静かに補足する。
「帝国最強の武がそうであるなら、現時点の帝国はまだ“測る段階”に留まる可能性が高いでしょう」
「同感です」
セラフィナも続けた。
「少なくとも今の帝国は、こちらの境界を境界として扱う余地を残しています」
言い方はやはり冷たいが、中身はもっともだ。
クロウは少しだけ考える。
帝国は昨日、斥候で見た。
今日、強者で確かめた。
そしてそれでもまだ大軍を動かさない。
なら今この瞬間、帝国は“黒翼庭をどう扱うべきか”で判断を保留しているのだろう。
それは悪くない。
少なくとも、いきなり戦争よりははるかにましだ。
「陛下」
ヴェルミリアが呼ぶ。
「今回の接触から、帝国に関して三点ほど読み取れます」
来たな、と思う。
この宰相は、出来事をそのまま置いておかない。
必ず次の盤面へ変換する。
「言ってみろ」
「第一に」
ヴェルミリアが一本指を立てる。
「帝国は、恐れるべき時には恐れます。これは軽視できません」
クロウは黙って続きを待つ。
「恐れを持たぬ国は愚かです。愚かな国は、対応が単純な代わりに損害が大きい。ですが帝国は違う。恐れを抱いた上で、それでも前へ出る人材を切れる」
ディグラスのことだろう。
斥候の怯えを“臆病”として切り捨てず、その上で次に強い札を出す。
雑ではない。短気でもない。
帝国は武の国だが、武しかない国ではないということだ。
「第二に」
二本目の指が立つ。
「帝国は、こちらの示した線を“意味あるもの”として受け取り始めています」
「それは、昨日から分かっていたのではないか」
クロウが言うと、ヴェルミリアは首を横へ振った。
「昨日はまだ、斥候の現場判断です」
なるほど。
「ですが今日は違う。帝国は、最強の武と知を用いて確認し、それでもなお線を越えなかった。つまり、その線を帝国の中央もまた無視できぬものとして受け取り始めたということです」
確かにそうだ。
昨日の斥候が怖がっただけなら、中央が「臆病者め」で切ることもできる。
だが今日、ディグラスとエルマが見て引いたなら、話は別になる。
「第三に」
ヴェルミリアの声が少しだけ低くなった。
「帝国は、次から“こちらの反応を前提に”動きます」
それは、どういう意味か。
クロウが問い返す前に、彼女は続きを述べる。
「昨夜までは、禁域は未知でした。今は違う。こちらが見ている、線を引く、段階的に返す――その前提が帝国の中に入った。ならば次の帝国は、こちらが何を返してくるかを読みながら動くようになります」
つまり、これまで以上に駆け引きになる。
もはや“ただ近づいてみた”では済まない。
帝国の一手一手に、黒翼庭の出方が組み込まれる。
面倒だ。
すごく面倒だ。
だがそれは同時に、向こうが無造作には踏み込めなくなるということでもある。
「…悪くないな」
クロウはぽつりと言った。
本音だった。
戦争が近づくのは困る。
だが、相手がこちらを“考えるべき相手”として扱い始めるのは悪くない。
雑に踏み潰されないという意味では、むしろ必要ですらある。
だがその一言は、四天王にとって別の意味を持ったらしい。
ヴェルミリアがわずかに目を伏せる。
「やはり、帝国を次の監視対象として残されますか」
違う。
いや、半分くらいそうかもしれないが、その言い方は大げさすぎる。
クロウは心の中で一度だけ頭を抱え、それでも外面は崩さずに言葉を選ぶ。
「帝国は、使える」
出た。
口にした瞬間、自分でも“やってしまった”と思った。
言い方があまりにも王っぽい。
しかも曖昧で広い。
配下が好きに深読みできる余地しかない。
案の定、玉座の間の空気がすっと変わる。
「なるほど」
ヴェルミリアの声は静かだった。
「帝国を“敵”として確定するにはまだ早い。むしろ今は、他国に向けた鏡として使うべきだと」
いや、そこまで緻密に考えていたわけではない。
ただ、帝国は今のところ話の通じる範囲にいる、という意味で言っただけだ。
だがヴェルミリアはもう止まらない。
「確かに、帝国がこちらへの慎重な恐れを抱いたまま動くなら、その反応を他国も参照するでしょう。特に聖冠連邦と魔導王国は、帝国の出方を材料にしてこちらを測るはずです」
セラフィナも静かに頷く。
「帝国を早々に折る必要はございませんね」
物騒な言い方をするな。
いや今さらだが。
バルザードまで感心しきった声を漏らした。
「さすが陛下…!帝国を“最初の監視国家”として盤面に残すおつもりでしたか!」
そこまで大それた計画ではない。
はずだった。
クロウは表情を変えないまま、心の中だけで呻いた。
まただ。
また勝手に話がでかくなっている。
だが、完全に否定もしづらい。
帝国を今ここで敵に固定しない方がいい、という判断自体は確かに正しいのだから。
ガルドがその時、低い声で言った。
「ならば、次に帝国が踏み込む余地も残すべきか」
それは大事な問いだった。
帝国が使えるなら、完全拒絶もまた違う。
だが甘く見せれば押し込まれる。
バランスが難しい。
クロウは少しだけ考え、それから慎重に口を開く。
「選択の余地は残せ」
ヴェルミリアの瞳が少し細まる。
「だが、勘違いはさせるな」
これは大事だ。
曖昧な余地は危険だが、完全な拒絶もまた危険だ。
「今まで通りだ。開示する情報は選べ。だが、こちらが何も知らないわけではないと分からせろ」
言った。
今回は、かなり自分でも納得のいく形で言えた気がする。
するとヴェルミリアは、ほとんど満足げといっていい声音で答えた。
「承知いたしました」
やめてほしい。
その“分かっていました”みたいな響きは心臓に悪い。
「では今後の対帝国方針は、“境界を維持しつつ、監視対象として保持”で整理いたします」
考えを整理された。
早い。
こちらが二、三文で言ったことが、もう国家方針みたいな言葉に翻訳されている。
怖い。
有能で怖い。
クロウは玉座の肘掛けへ指先を置いたまま、できるだけ自然に聞こえるように次の問いを投げた。
「他国は」
「動き始めています」
返答はセラフィナだった。
「監視祠を経由した断片が、すでに西と南へ流れつつあります。まだ詳細ではありませんが、“北方禁域に変化あり”という程度の噂は広がるでしょう」
やはり来たか。
聖冠連邦、魔導王国。
さらに商盟も嗅ぎつけるだろう。
帝国だけの話では終わらない。
「どこが一番早い」
「情報を掴むだけなら商盟です」
ヴェルミリアが答える。
「ですが、意味を重く受け取るのは連邦でしょう。神話や禁忌に最も敏感ですから」
「魔導王国は」
「飛びつくはずです」
今度はバルザードが言った。
「古代遺産だの神話実在だのが大好きな連中ですからねえ。禁域が沈黙を破ったと聞けば、喜んで監視を始めるでしょう」
喜ぶなよ、と思うが、相手の性質としてはたぶんそうなのだろう。
クロウは少しだけ考える。
帝国は正面から来る。
連邦は教義や大義で来る。
魔導王国は知識欲で来る。
商盟は利で寄ってくる。
それぞれ面倒くささの種類が違う。
「…本当に、碌でもないな」
思わず本音に近い言葉が漏れた。
一瞬、しまったと思う。
だがヴェルミリアはその意味を勝手に補ってくれた。
「ええ。ゆえに、整理のしがいがございます」
前向きすぎる。
いや、有能な宰相としては正しいのかもしれないが、ついていく側の胃に悪い。
セラフィナは静かに微笑む。
「陛下に無用な雑音が届かぬよう、ふるいにかけてまいります」
その“ふるい”のやり方が怖いんだよな、とクロウは思う。
ガルドは相変わらず簡潔だった。
「必要なら、次も立ちます」
バルザードも胸を張る。
「監視系の強化はすでに進めておりますとも!」
やめろ、とは言わない。
言っても止まらないだろうし、実際必要なのも分かる。
クロウは結局、短く言った。
「任せる」
四天王が一斉に頭を垂れる。
「「「「はっ」」」」
揃いすぎていてやっぱり怖い。
だが、その揃い方を見ていると、少しだけ思う。
自分はまだ何も分かっていない。
世界のことも、黒翼庭のことも、この体のことも。
けれど少なくとも、この四人が今の自分の最大の武器であり、同時に最大の胃痛の種であることだけは、はっきりしていた。
その時、玉座の間の扉が一度だけ低く鳴った。
セラフィナがわずかに顔を上げる。
「境界線より更新です」
早いな、とクロウは思う。
だが今の黒翼庭では、それが普通なのだろう。
「帝国のディグラスとエルマ、完全に後退。北方街道へ復帰。ですが」
そこで一拍置く。
「帝国側の監視祠が、今朝方より増員を始めました。監視だけでなく、記録官と祈祷師の数も増やしています」
ヴェルミリアがすぐに意味を取る。
「境界線を長期監視へ切り替えるつもりですね」
「はい」
セラフィナは頷く。
「帝国はすぐには攻めません。その代わり、“見続ける”ことにしたようです」
クロウは数秒だけ考えた。
悪くない。
いや、面倒ではある。
だが、攻めてこないならまだましだ。
見てくるだけなら、こちらも見返せる。
「なら見せてやれ」
ぽつりと口から出た。
またやってしまった、と思う。
言い方がちょっと格好つけすぎた。
だがもう遅い。
ヴェルミリアがすっと顔を上げる。
「どこまでを」
「こちらが見せたい範囲だけだ」
今度はすぐに付け足す。
「城の全容も、中枢も見せるな。境界線だけでいい」
これなら大丈夫だろう。
だがヴェルミリアはもう、別の段階に入っていた。
「承知いたしました。では帝国には、“規模がわからなくなるほどの情報”を与えます」
何だそれは。
怖い。
でもちょっと見てみたい気もする。
バルザードが目を輝かせた。
「面白いですねえ!監視を許しつつ、本質には届かせない構造を外周そのものへ織り込むわけですか!」
セラフィナも穏やかに言う。
「近づいたと思わせて、まだ門前だと知る。よい抑止になります」
ガルドはただ一言。
「ならば、立つべき場所も変わるな」
クロウは無表情のまま、それらを受け止める。
また話が勝手に一段階上がった。
だが、完全に的外れでもない。
帝国が見続けるなら、こちらも見せ方を選ぶ。
戦わずに圧を積み上げる。
そう考えれば、確かに理にかなっている。
そしてその理が通るからこそ、この黒翼庭は怖いのだろう。
「…始めろ」
短くそう言う。
すると四天王は、一斉に深く頭を垂れた。
この瞬間、帝国との“見合い”は一過性のものではなく、継続する盤面へ変わった。
黒翼庭は静かなまま、しかし確実に世界へ向けて形を持ち始めている。
クロウはその中心に座りながら、心の中だけで静かに思う。
やはり、配下からの信頼が重すぎる。
けれどその重さが、少しずつ自分を“王の形”へ押し上げてもいるのかもしれなかった。
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