「黒騎士」
雪原は広い。
広いが、何もないわけではなかった。
風に削られた低い岩。
氷の浮いた窪地。
ところどころに黒い土が覗く尾根筋。
そして、その中央に立つ一つの黒。
ガルドだった。
黒い甲冑は曇天の下でも鈍く光を返し、肩当てに刻まれた翼意匠が、わずかに積もる雪を受け止めている。
兜の奥は暗く、顔立ちは見えない。
だが、見えないからこそ、そこに立つ存在感だけが余計に大きく見えた。
まるで、誰かが雪原そのものへ一本の杭を打ち込んだようだった。
あそこから先は違う。
そう、景色の側が言っているように見える。
ディグラスは飛竜の高度を少し落とし、そのまま正面で止めた。
距離はまだある。
槍が届くには遠い。
だが、互いに“ひと息で詰められる”程度には近い。
近すぎず、遠すぎず。
武人同士が相手の立ち方を量るには、ちょうどいい間合いだった。
エルマも後方へ半騎分ずれた位置で減速し、術式盤を薄く開く。
飛竜は嫌がっていた。
鱗の下で筋肉が緊張しているのが、鞍越しに分かる。
だが昨夜の斥候隊ほど崩れてはいない。
乗っている者が違うからだろう。
怯えることと、怯えて崩れることは別だ。
「…なるほどな」
ディグラスが低く言う。
目の前の黒騎士は、ただ立っているだけだ。
剣も抜いていない。
槍も構えていない。
にもかかわらず、“ここから先は違う”と空気そのものが告げていた。
人の形をした境界線。
そんな言葉が、柄にもなく頭に浮かぶ。
「団長」
エルマが小さく呼ぶ。
「魔力波形、昨夜より明瞭です。ですが攻性変化は薄い。現時点では威圧と監視が主のようです」
「分かってる」
ディグラスは短く返した。
見れば分かる。
相手はこちらを止めに来たのではない。
正確には、**止めることもできると見せに来ている。**
ならこちらが今やるべきは一つだ。
どう止めるつもりなのか。
どこまでが境界線なのか。
その質を測ること。
ディグラスは手綱を軽く引き、飛竜をもう一歩だけ前へ出した。
その瞬間。
雪原の空気が変わった。
何かがぶつかったわけではない。
術式の光が弾けたわけでもない。
ただ、前へ進むという行為そのものへ、見えない重みが乗ったような感覚があった。
飛竜が唸る。
首筋から肩にかけて、明確に力が入る。
このまま進むなと、本能の方が先に理解した反応だった。
だが、ディグラスは止めない。
もう一歩。
すると今度は、正面の黒騎士――ガルドが、ゆっくりと片手を上げた。
それだけで、飛竜が完全に止まった。
怯んだというより、これ以上進めばまずいと、乗り手の意思とは別のところで理解した動きだった。
ディグラスの口元がわずかに上がる。
「明快だ」
遠く、風に乗って声が届く。
「そこまでだ」
低い。
重い。
金属越しに響くその声は、決して大きくないのに、雪原全体を押さえつけるような力があった。
ディグラスは飛竜の上から答える。
「帝国竜騎士団長ディグラスだ」
名乗る。
まずはそこからだ。
ここで無言のまま力比べへ入るのは、獣のやることだ。
相手が境界線を引くなら、こちらもまた名を持って立つべきだった。
「貴様は」
数秒の沈黙。
それから、黒騎士が答えた。
「黒翼庭、第二席。《屍山の黒騎士》ガルド・ヴァルカン」
第二席。
その響きに、エルマの指先がわずかに動いた。
術式盤へ何か記録しているらしい。
ディグラスは名を頭の中で繰り返す。
ガルド・ヴァルカン。
名乗ったということは、少なくとも今この場を“無言の威圧だけで終えるつもりはない”ということだ。
「ディグラス」
ガルドが続ける。
「昨夜の境界線は見たはずだ」
「見た」
「なら何故また踏み込む」
問いは短い。
責める調子ではない。
確認する調子だった。
それが逆に重い。
ディグラスは飛竜の鞍の上で姿勢を崩さないまま返す。
「見たからだ」
「どういう意味だ」
「境界線を引く相手なら、境界線の意味を測る必要がある」
雪と風の中、言葉だけが行き交う。
「見えないまま怯えて帰るほど、帝国は臆病ではない」
その言葉に嘘はない。
同時に、わざと強く言っている自覚もある。
相手がどこまでそれを受け止めるか見たいからだ。
ガルドはしばらく黙っていた。
兜の奥の視線は見えない。
だが見られている感覚ははっきりある。
「なら見ろ」
やがて返ってきた言葉は、意外なほど単純だった。
「ただし、越えるな」
明快だ。
だからこそ怖い。
ディグラスは少しだけ顎を引く。
「どこからが越えたことになる」
「貴様が自分で分からぬなら、そこで終わりだ」
きっぱりした返答だった。
後ろでエルマが、ごく小さく息を吐く音がした。
たぶん記録している。
ディグラスは内心で苦笑する。
上手い返しだ。
境界線の定義を全部は明かさない。
だが、こちらが“見極められない程度の器ならそこまで”という意味も含ませている。
つまり、相手は本当に測っている。
昨日から一貫して。
「団長」
エルマが低く声をかけた。
「周囲」
ディグラスは視線だけで頷く。
分かっている。
正面に立っているのはガルド一人だ。
だが一人のわけがない。
見えないだけで、左右の尾根、あるいはさらに後方に何かがいる。
少なくとも監視の目はある。昨夜よりも濃い。
真正面の黒騎士は、ただその“代表”として立っているにすぎない。
「一つ聞く」
ディグラスが言う。
「答えられる範囲でだ」
「聞こう」
「禁域の主は、今も奥にいるのか」
風が吹く。
雪が斜めに流れる。
その中で、ガルドは一切揺れずに立っていた。
「貴様に答える必要はない」
予想通りの返答だ。
だが続きがあった。
「ただし」
低い声が重なる。
「主は、見るべきものを見ておられる」
エルマが息を呑んだのが分かった。
それは曖昧だ。
だが、否定ではない。
少なくとも、“空っぽの城ではない”と受け取るには十分だった。
ディグラスはほんの少しだけ笑う。
「そうか」
そして思う。
確かにこれは、王の代わりに立つ者の言葉だ。
無駄に吠えない。
だが、必要なところだけを残していく。
「では、こちらも一つ返す」
ディグラスは言った。
「帝国は、見ぬまま怯えて退くつもりはない」
「好きにしろ」
ガルドの返答は早い。
「ただし、貴様が次に選ぶ一歩は、今より重くなる」
その一言で、雪原の温度がまた少し下がった気がした。
ディグラスは目を細める。
言葉だけなら穏やかだ。
だが中身は違う。
次の一歩をどう扱うかで、相手は帝国そのものの器を量る気でいる。
面白くない。
面白くないが、理解はできる。
「団長」
エルマが小さく言う。
「この段階でこれ以上は、向こうの土俵です」
分かっている。
正面のガルドも、いま自分がどこまで出るかを見ているのだろう。
ここで無理に踏めば“境界線を越えた”と判断される。
だが、ここで何もせず帰れば、“帝国はこの程度で止まる”とも読まれる。
難しい。
だからこそ、ここで判断する者の価値が出る。
ディグラスはゆっくりと飛竜の首筋を叩いた。
落ち着けという合図だ。
飛竜はまだ唸っていたが、かろうじて命令は聞く。
「…今日はここまでだ」
ディグラスが言う。
退却宣言ではない。
次へつなぐための区切りだ。
「だが、また来る」
その言葉に、ガルドはほんのわずかに肩を動かした。
笑ったのかもしれない。
兜で見えないが、そんな気配があった。
「来たければ来い」
黒騎士の声は変わらない。
「次も、自分の足で立てるならな」
明確な挑発ではない。
だが、武人相手には十分すぎるほど挑発的だった。
ディグラスの目がわずかに細くなる。
腹立たしい。
だが、この場で怒るのは違う。
怒るなら、もっと先だ。
「引く」
彼は短く言った。
エルマもそれ以上は何も言わず、術式盤を閉じる。
飛竜がゆっくりと後退する。
その動きを、ガルドは追わない。
ただ立って見ているだけだ。
それだけなのに、背中へ突きつけられた刃のような圧が最後まで消えない。
十分に距離を取ってから、エルマがようやく息を吐いた。
「…団長」
「何だ」
「本当に、剣を抜きませんでしたね」
「相手もな」
ディグラスは短く返す。
「だが、あれは実際に戦ってないだけで、戦いだった」
その言い方は正確だった。
言葉、間合い、圧、止め方、引き方。
全部が交わっていた。
剣が鳴らなかっただけで、武人としての応酬は確かにあった。
エルマもそれを理解しているらしい。
「収穫はありましたか?」
「ああ、あった」
ディグラスは言う。
「一つ。向こうには“王の代わりに立てる武”がいる」
指を一本折る。
「二つ。そいつは、ただ強いだけじゃなく、境界線の見せ方を知っている」
もう一本。
「三つ。こちらが見られていることを、向こうは隠す気がない」
最後に、少しだけ間を置いた。
「四つ。…たぶん、奥には本当に王のような存在がいる」
それは証拠ではない。
だが、戦場へ出る人間の勘としては十分すぎるほど濃かった。
エルマは静かに頷く。
「同感です」
彼女の目は細い。
「黒騎士の返答は、否定を避けながら、否定しないものでした。あれは空の城を守る者の態度ではありません」
「だろうな」
「加えて」
エルマは少しだけ振り返り、まだ遠く雪原の中央に立つ黒い点を見た。
「相手は、こちらが“理解できる強者”を出したことに応じて、同等の札を返してきました」
「つまり?」
「対話のつもりがある、とは言いません」
エルマは淡々としている。
「ですが、少なくとも“話し合いの価値のある相手”として見られ始めている可能性はあります」
ディグラスは鼻を鳴らした。
「それが気に食わん」
「ええ」
エルマも珍しく素直に同意した。
「ですが、悪いことばかりでもありません。少なくとも、次からはただの伝承相手ではなくなる」
それはその通りだ。
帝国にとっても。
黒翼庭にとっても。
飛竜は北から身を返し、帝国側の空へ戻り始める。
その背を、遠くの黒騎士は最後まで見送っていた。
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ガルドは雪原にしばらく立ち尽くしていた。
帝国の飛竜が十分に遠ざかるまで、追わず、構えず、ただ見送る。
その姿は石像に近い。
雪が肩へ積もっても、まったく動かない。
やがて、左右の尾根から二つの影が降りてきた。
黒翼騎士だ。
昨夜から伏せていた護衛である。
「将軍閣下」
片方が膝をつく。
「帝国側、完全に後退を確認」
「追跡は影鴉が引き継ぎます」
もう片方が告げる。
ガルドは短く頷いた。
「十分だ」
それから、再び北の空を見た。
ディグラス。
確かに強い。
少なくとも、昨夜の斥候とは話が違う。
飛竜の制御、間合いの取り方、引くべきところで引ける胆力。
あれなら帝国最強の名も偽りではないだろう。
だが同時に、まだ届かない。
届かないからこそ、次がある。
今日のディグラスは、きちんと止まった。
だから帰した。
あの男は、押せるところと押してはならぬところを嗅ぎ分ける鼻を持っている。
それは厄介でもあり、少しだけ好ましくもあった。
少なくとも、昨夜の雑な探りよりはずっと話になる。
「戻る」
「はっ」
ガルドが身を翻す。
雪が甲冑からはらりと落ちた。
次にこの場へ立つ時、剣を抜くかどうかはまだ分からない。
だが少なくとも、帝国は今、ようやく黒翼庭の“門前”に立ったばかりだ。
そしてそのことを、陛下はもうおそらく見ておられる。
ならば自分の役目は一つだった。
見たものを、そのまま持ち帰ること。
誇張せず。
削らず。
強き者が来たなら、強き者として。
まだ届かぬなら、まだ届かぬものとして。
主の前に立つ武とは、そういうものであるべきだと、ガルドは知っていた。
彼は雪を踏みしめ、黒翼庭への帰路へ入る。
白い世界の中で、その背だけが揺るがず黒かった。
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