第134話 秘密は夜闇に⋯
夜の帳が落ち
街の喧騒がようやく沈み込んだ頃──
喫茶桜の居住スペースにも
静かな時間が流れていた。
誰もが深い眠りに落ちるその刻限
ソーレンは僅かな音すら立てぬよう
そっと自室の扉を開いた。
扉の開閉音、足音、衣擦れ──
一切を殺して
音の無い影のように廊下を抜けてゆく。
その夜だけではない。
そんな日が、何度もあった。
その異変に、時也は既に気づいていた。
ベッドの中
アリアの肩を優しく抱き寄せたままの体勢で
目を閉じていたはずの彼の瞼が微かに開かれる。
腕の中で眠るアリアは、無垢な寝息を立て
金糸のような髪が月光を淡く揺らしていた。
時也は静かに息を吐く。
(⋯⋯また、ですか)
酒を飲みに行く夜は
ソーレンは堂々と扉を開けて出ていく。
冗談の一つも口にし
きっちり泥酔して帰ってくる。
けれど、このような夜だけは違った。
気配を完全に消して、誰にも知られぬように。
夜の闇に溶けて、跡を残さず出ていく。
そして、朝に酒の気配も無い。
(⋯⋯どこへ行っているのでしょう)
気にはなる。
だが、詮索はしたくない。
けれど──それでも。
わざわざ〝隠して〟出て行くその姿にだけは
どうしても無視できなかった。
時也はそっとアリアの髪を撫で
腕を沈めてゆっくりと引き抜くと
身を起こした。
寝間着を脱ぎ、滑るように着物を羽織り
慣れた所作で帯を締める。
静かに扉を開け、ソーレンの後を追う。
己の気配すら空気に溶かしながら──
⸻
辿り着いたのは倉庫街
その下に広がる地下構造。
薄暗い照明。
汗と血の匂い。
耳に痛いほどの怒号と歓声。
(⋯⋯これは──格闘技場、でしょうか)
時也は少しだけ目を細めた。
充分に給金は足りている筈。
副業を黙って行う理由も、見当たらない。
金銭目的──賞金稼ぎという線は、薄い。
(……とりあえず、見てみましょう)
彼は一つのテーブル席に腰を下ろした。
あまりにも場に似つかわしくない
背筋を伸ばした所作と品のある佇まいに
周囲の粗野な男たちが
ちらりと一瞥を投げては目を逸らしていった。
その時、場内に太鼓の音と共に
次の闘士の名が叫ばれた。
「次の挑戦者ァ!
ソォォォーーーレンッ!!!」
拳を軽く掲げて、ソーレンがリングに登場した。
シャツを脱ぎ
肩を鳴らしながらゆっくりと歩くその姿は
確かに〝闘う者〟のそれだった。
だが──
その表情には、張り詰めた気配と
どこかしら疲労の色が混じっている。
時也は、腕を組んでその姿を静かに見つめた。
(⋯⋯なんの為に、こんな場所で)
彼が拳を交える理由を、時也は知りたかった。
そして──
時也は思い切り、肺に空気を取り込む。
「ソーレンさーん!ふぁいとですよー!」
朗らかに、けれど確実に場に響くよう
時也は声を張り上げた。
場内が一瞬、しんと静まり返る。
そして──
リング上の男が
まるで雷に打たれたように動きを止めた。
驚愕、混乱。
鬼に見つかった子供のような致命的な焦りの色が
ソーレンの顔に一気に広がる。
「──っ、は?⋯⋯時也っ!?
なんで⋯⋯っ!」
ソーレンの顔から、血の気が引いていく。
時也は微笑を浮かべたまま
席でお茶を啜っている。
(⋯⋯やはり、何か事情があるのですね)
目と目が合った瞬間
ソーレンの全身から冷や汗が吹き出した。
なんでいる。
なんでここに、よりにもよって、アイツが──
口が動かない。
息が詰まる。
拳を握る感覚すら曖昧になる。
隠していたのに。
気配まで殺して
誰にも知られぬように出てきたのに。
この場所だけは、知られたくなかった。
知って欲しくなかった。
見られたくなかった。
拳を握りしめ、下唇を噛みしめながら
ソーレンは怒りにも似た苛立ちを覚える。
なぜ、時也にだけはこうも見抜かれるのか。
全てを察したように
微笑を浮かべて席に座るその姿が
今は──何よりも腹立たしい。
ただひとつ確かなのは
今夜、この地下の熱気の中に
絶対に持ち込むつもりのなかった
誰かの気配がすぐ背後にいるということ。
リングの中心に立つソーレンは
深く一度だけ息を吸った。
目を閉じる。
耳に届くのはまだ鳴り止まぬ歓声と観客の怒号。
だがそれらは彼にとって、既に無音だった。
意識を研ぎ澄ませば
鼓動と呼吸だけが世界を支配する。
指先から足裏まで、全身の力を均等に巡らせる。
肩の力を抜き、重心を僅かに落とす。
構えは、鋭くも自然──
まさに闘い慣れた者のそれだった。
目を開けると
先程までの動揺はすっかり消えていた。
その眼には
ただ目の前の〝敵〟しか映っていない。
「始め──ッ!」
場内に響く乾いた号令と同時に、相手の男──
身の丈も大きく、横幅も倍はあろうかという
屈強な巨漢が咆哮と共に突進してきた。
だがソーレンは、動かない。
拳も、脚も、ただ静かに構えを保ったまま
巨漢の突進を真正面から見据えていた。
「ぬゥゥぉらッ!!」
振り下ろされる拳──
重量と勢いを伴ったその一撃は
並の人間なら
それだけで戦意を喪失するような迫力。
だが。
瞬間、ソーレンの身体が消えた。
いや、実際には動いている。
膝を僅かに沈め
ステップで半歩斜めに身を滑らせただけ。
だがその動きは目で追えないほど鋭く
流れるような〝しなり〟を帯びていた。
拳が空を切った。
巨漢の背後に、ソーレンの姿。
「⋯⋯!」
振り向くより先に、肘が背中にめり込む。
肺の中の空気が一気に押し出され、男が呻いた。
すかさず回し蹴り。
今度は腰を砕くように、低く抉るような一撃。
巨漢の重心が崩れ──膝が落ちる。
「ちぃッ⋯⋯!」
痛みを堪え、巨漢が振り向きざまに拳を放つ。
だが、その拳は再び空を切る。
ソーレンの姿はもう、そこには無かった。
接近戦に持ち込んだと思えば
刹那で離れ、一転して真横から飛び込んでくる。
足の裏が鳩尾に突き刺さるようにめり込み
男の巨躯が宙に浮いた。
観客席がざわめき、歓声が爆ぜる。
だが、ソーレンの表情は一切変わらない。
鋭く、冷たく、そして静かに。
まるで何かを〝罰する〟ような──
儀式の執行人のような眼差しで
相手を見据え続けていた。
巨漢が体勢を立て直す間もなく
肘、膝、踵、拳──
全てを殺すためではなく崩すために使い分ける。
合理的な連打。
無駄のない連携。
一瞬たりとも、相手に考える暇を与えない。
「がっ⋯⋯あっ、あが⋯⋯!」
ぐらついた巨漢の顎に、最後の一撃。
拳が滑らかにそして正確に突き上げられ──
ゴンッ、と鈍い音を残し、巨体が崩れ落ちた。
審判の確認を待たずにソーレンは構えを解き
静かに背を向けた。
静まり返った会場に
ようやく、どよめきと歓声が戻ってくる。
それでも彼は、誰の声にも応えなかった。
勝っても、吠えず、拳を掲げず、笑わず。
ただ一度
リングの外に座る品の良い着物の男にだけ──
一瞬だけ視線を向けた。
「⋯⋯⋯⋯⋯来るなよ」
そんな声が聞こえた気がした。
怒りと焦りと
ほんの僅かな
照れ臭さが混ざった──
そんな、ソーレンらしい目だった。




