第132話 翼を斬り落とす刃
「⋯⋯あの女⋯⋯アリアというんだね」
その声は床に縫い付けられていたアラインの魂を
ようやく現世へと引き戻すものだった。
震える息の中で放たれたそれは
呟きにしては重く、独白にしては鋭かった。
どれほどの時間
身体を動かせずにいたのだろう。
恐怖に囚われていたわけではない。
ただ、現実と過去の境界が曖昧になり
意識が何かに喰われていた。
月の光は窓から射し込んだまま
時の流れを示すように
部屋の輪郭を少しずつ変えている。
けれどアラインは
そんな現実の変化を感じ取ることもできず
静けさの中にぽつりと
己の存在だけを漂わせていた。
気付けば、僅かに幼さの残る自分の両手を
じっと見つめていた。
この姿は、老婆に見せるための〝記憶の仮面〟
彼女には
15歳の〝遠縁の少年〟という記憶を
植え付けてある。
だが大抵は、他者と深く関係を結んだ時には──
相手の目には
夢で見続けた〝あの青年〟の姿が見えるように
記憶を改竄してきた。
子供のままでは
誰も〝恐れ〟を抱いてくれないから。
侮られ、哀れまれるだけだから。
(⋯⋯思い出したよ)
胸の奥で、確かな〝実感〟が芽吹いた。
それは、夢の中で何度も追い詰められ
焼き殺された〝青年〟の
苦悶と、叫びと、絶望が連れてきた記憶。
「キミは⋯⋯
今のボクの──〝前のボク〟なんだね⋯⋯?」
背に焼き付いた痛みが
徐々にその輪郭を明瞭にしていく。
過去の記憶。
それはまるで、張り付いた皮のように
アラインの中に残っていた。
燃えるような炎に包まれ、鉤爪に貫かれた背中。
全身を裂かれ、絶望の中で見上げた紅の双眸。
「⋯⋯アリアっ──!」
押し寄せる記憶の奔流に
アラインは思わずその名を叫んでいた。
指が背中へと伸びる。
そこには布に覆われ見えない傷痕──
だが確かにそこに〝在る〟
灼かれた痛みが、今もなお肉に根ざしていた。
「キミは⋯⋯死んで、生まれ変わった今も
まだ、苦しんでるんだね──?」
語りかけるその声は
優しさにも似た、けれど冷たい分析者の声。
アラインの表情は
どこか切なげに、けれど残酷に歪んでいた。
「だから⋯⋯ボクにも、傷を残したのか?
憎しみを忘れないように」
紅蓮に燃える翼、不死の炎。
あの女が何者かを、もう見間違うことはない。
(あの女は不死鳥を宿し、使役している)
そして、自分の背に刻まれたこの傷もまた
前世からの〝贈り物〟
「ボクが──アイツに、復讐してやろうか」
言葉を吐きながら
アラインの瞳に再び光が戻る。
それは炎のように激しいものではなく
氷のように冷たく
確かな〝意志〟を秘めた光だった。
青年の最期の記憶──
絶望の中で放たれた、あの叫び。
あれは、ただの嘆きではない。
あれは、怨嗟の呪いに決まっている。
「⋯⋯なら、果たしてあげよう」
この身に宿る傷が呪いならば
それをもって仇を討とう。
その瞬間、アラインの口角が僅かに
けれど確実に釣り上がった。
その笑みは、もはや少年のものではなかった。
「ボクが──必ずっ⋯⋯!!」
手が震え
皮膚に爪を立てるほどに握りしめられる。
爪の先から滲んだ血すらも
決意の印のように見えた。
そして──
「ははっ、あはははははっ⋯⋯!!」
哄笑が、密室に木霊する。
夜の帳に、狂気の音が滲む。
その笑いは、自嘲でも、悲しみでもない。
それは、狩人の笑いだった。
〝復讐〟という名の狩りを始める者の──
冷たく、静かな咆哮。
アラインの瞳は再び野に生きる孤高の狼のように
鋭く輝いていた。
その目に映るのは、過去でも未来でもない。
〝今〟この瞬間から始まる獣道。
それはアリアと、そして不死鳥へと続く──
血に染まった運命の狩場だった。
⸻
アラインは、丘の夜を境に確信を得ていた。
夢ではなかった。
幻でもなかった。
〝あの女〟は現に存在し
かつて自分の命を焼き尽くした張本人であり──
今も、不死のまま世界に在る。
彼女の血は再生の力を持ち
涙は透明な奇跡を呼ぶ宝石に変わる。
それらは希少価値が高く
幾度となく命を救い
あるいは命を奪ってきた。
そして
その恩恵を狙う者たちが既に暗躍していることを
アラインは街の地下で確かに聞き取っていた。
アリアを狙う者は他にもいる。
だが、彼らは〝本当の意味〟で
彼女を理解していない。
あの存在がどれほど圧倒的で、理不尽で
美しい地獄か──誰も知らない。
だからこそアラインは
自らの手で計画を進めることを選んだ。
神経質で用意周到
感情の底に猛火を秘めながらも
決してその火を安易に表に出すことはない。
動くのは、必ず〝好機〟と断じた時だけだ。
アラインはまず、下から入り込むことにした。
標的は、噂に名を馳せる荒くれ者達の集団。
法も秩序も無視し
強奪や密売を生業とする、ならず者の群れ。
力が全てを支配するその世界で
アラインはあえて部下として潜り込んだ。
「⋯⋯入団、希望──だって?」
最初に彼の前に現れた男は鼻で笑い
面倒そうに彼を突き飛ばした。
しかし、アラインは微笑を崩さず
静かに立ち上がると
地に這うような声でこう言った。
「ボクは〝記憶〟に残る男だよ。
⋯⋯すぐに、キミ達も忘れられなくなる」
その言葉は冗談にも、警告にも聞こえなかった。
だが、それは確実に〝実現〟されていく。
アラインは毎日
誰よりも早く起き、最後まで残った。
命令には黙って従い
時に自分の身を盾にしてまで、役目を果たす。
次第に、粗野な者たちの中で彼は
若く、従順で、忠実な部下として
受け入れられていった。
けれど、それはただの前奏に過ぎない。
アラインは徐々に〝部下〟の位置から
認識の隙間をこじ開け
やがて、集団の中での自分の位置付けを
静かに塗り替えていく。
人間関係が強まれば
記憶は簡単に書き換えられる。
そして
ついに全員がアラインを深く認識した夜──
「やぁ、皆。
これからはボクがキミ達のボスだよ。
そして、今日から我々は──
フリューゲル・スナイダーとなる」
集団の中心に立ったその瞬間
かつてのリーダーが口を開こうとした。
怒声を上げ、掴みかかろうとした。
だが──
その前に彼の目には〝違う記憶〟が流れ込んだ。
アラインが
かつて自分を倒し服従させたという記憶。
次の瞬間
男は膝をつきアラインの足元に頭を垂れた。
それは、完全な服従だった。
だが、アラインは理解していた。
記憶の書き換えだけでは真の支配には至らない。
猛者を従わせるには
自らもまた〝猛者〟でなければならない。
それからの日々
アラインは己の体を鍛え続けた。
日の出よりも早く目を覚まし
夜が明けきる前から修練を始めた。
地を這うように動き
風を裂くように躍り
呼吸一つ無駄にせぬよう刀を振る。
筋肉はその細身の肉体に
沈みこむように研ぎ澄まされ
柔軟さと俊敏さを兼ね備えた身のこなしへと
変貌していった。
武器は、鍛冶屋に特注した一本の大太刀。
刃渡りは長く、反りはなだらかで、細身。
抜き打ちが可能な構造で
柄には滑り止めの細工が施されていた。
細身でありながらも
芯には強靭な鍛鋼が仕込まれており
振り抜けば風を切る鋭い音が走る。
その名は
Gnadenlos──慈悲無き者。
彼の動きを殺さぬよう
軽量で均衡の取れたその刀は
まさに〝暗殺者の刃〟だった。
鍛錬の場に仲間を連れ出すことはなかった。
アラインは誰にも見せぬ場所で
黙々と、ただ一人で剣を振り続けた。
それは修練というより、儀式に近いだろう。
滲む汗の一滴一滴が
アリアへの〝復讐〟のために払う
供物のように見えた。
〝|フリューゲル・スナイダー《翼を斬る者》〟
彼の名の下に集う者達は
いつしか、絶対の忠誠を誓うようになっていた。
誰もが語る。
アラインには、決して逆らってはならない。
なぜなら、逆らった者がどうなったか──を
誰もが知っているからだ、と。
だが、真実は違った。
アラインは、誰一人として傷つけてなどいない。
ただ一つ、記憶に書き加えたのだ。
逆らった者は、凄惨な末路を辿った──と。
無惨に打ち据えられた。
斬られた。
焼かれた。
折られた。
そんな記憶が
彼らの中には〝実際に見た〟感覚で
根を張っている。
それは虚構だ。
だが、記憶に刻まれた虚構は
現実と同等の真実となる。
アリアへの道は、まだ遠い。
だからこそ、無駄な損失など許されない。
些細な失敗で
部下を切り捨てている余裕など一生ないのだ。
アラインの目は、常に先を見据えている。
アリアを知る者
彼女に近付く者
彼女を狩ろうとする者。
全てが、布石。
そして彼は、今なお、何食わぬ顔で
「皆のおかげで、今日も良い日だね」と
朗らかに笑う。
その笑みの奥には絶対的な計画と
狂気に近い復讐心が
ひたひたと脈打っているのだ。




