表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『紅蓮の嚮後 〜桜の鎮魂歌〜』優しさほど深く壊れる、美しき地獄の異能譚   作者: 佐倉井 鱓
記憶を喰らう者

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

133/250

第131話 紅との邂逅

「⋯⋯死の翼に触れよ」


老婆の声は、春の風に乗って細く響く。


まるでその言葉自体が

街の空気をざらつかせる呪文のように──


「その若者の死んでいた部屋にはね⋯⋯

血でそう書かれていたそうな」


桜の丘を見上げながら

老婆は遠い記憶を

ゆっくりと掘り返すように語った。


目の奥には、未だ消えぬ恐怖と

かすかな懺悔が揺れている。


「それからというもの⋯⋯

この街では、彼が狂ったように叫んだ通り

春を呼ぶ者が静かに⋯⋯

愛する者と、穏やかに過ごせるようにと

敬いと畏れの入り混じった

奇妙な〝秩序〟が生まれたのさ」


老婆の視線は、丘の頂にある

見えない影を探すように揺れていた。


「最近になって、取り壊されたけれど⋯⋯

街の者たちは桜を見ないように

高い壁を築いたの。

まるで、あの丘ごと封じ込めるように──」


アラインは、黙って耳を傾けていた。

その顔には、少しも怖がる素振りなどなかった。


けれど、心の内には何かがざわめいていた。


「丘に登れば

街の人間は鏖になるとまで伝えられていてね⋯⋯

そうさ。いつしかあの場所は──

〝呪いの丘〟と呼ばれるようになったのさ⋯⋯

何故か、丘の頂の大樹だけは

季節を問わず咲くようになってしまったしねぇ。

桜が咲いてる間は行ってはいけない。

つまり〝二度と〟立ち入ってはいけないの」


老婆の声が僅かに震える。

それは年老いた肉体の震えではない。


彼女自身の心の奥に棲みついた

悔恨と畏怖の揺らぎだった。


「⋯⋯きっと今でも、彼女はこの街を⋯⋯

許してはおられないかもしれないねえ」


その言葉に、アラインの瞳が静かに細まった。


けれどその声色は

まるで何事もなかったかのように穏やかだった。


「大丈夫だよ、おばあちゃん。

そんな話を聞いたら⋯⋯

怖くてボクは行けないよ」


にこりと笑う。


その表情は少年のように無邪気でありながら

どこか演じられた仮面のようにも見えた。


「⋯⋯ああ、ああ。行かんでおくれ。

久しぶりに会えたのに

二度と会えなくなるのは⋯⋯

寂しすぎるからねえ」


老婆は優しく、アラインの手を握った。


その手は小さく、力なく

すぐに壊れてしまいそうな程に脆かった。


アラインは、その腕を支えながら

ゆっくりと丘を背に歩き出した。



黄金の髪。

深紅の双眸。


そして

背を裂いて広がる炎の翼──


それらはアラインの夢に毎夜現れる

〝あの女〟の姿と、寸分違わぬ姿だった。


夢の中であの女はいつも

少年のような華奢な青年を

泣き叫ぶままに焼き尽くしていく。


その苦悶、悲鳴

そして、助けを求める叫び⋯⋯


全てを無視するように無表情で炎を放ち続ける。


その青年の背には

深く刻まれた鉤爪のような傷──


「⋯⋯く」


アラインは、胸元に手を当てた。

傷など今は見えはしない。


けれど、そこには確かに

かつて引き裂かれた感覚が疼いていた。


(背中の傷跡が⋯⋯痛むな)


その思考の一欠片すら老婆には見せまいと

アラインは表情を整える。


ただの〝優しい若者〟として振る舞うように。


丘の頂を横目に見る。

桜は、あまりに静かに咲いていた。


そしてその静けさが、何よりも不気味だった。


口元には、感情の無い笑みが浮かび上がる。

冷たい、非情な、狂気の入り口を示すような──



その夜、満月は青白く輝き

雲ひとつなく世界を照らしていた。


アラインは老婆の家の小さな窓を静かに開けると

足音ひとつ立てぬように部屋を抜け出した。


道の灯りは既に消え、街は深く眠っている。


アラインは月明かりを頼りに

闇に紛れるようにして歩き出す。


進む先は、あの丘。

大樹の桜が咲く場所。

誰も近付いてはならない〝呪いの丘〟──


身を低くしながら、彼は気配を殺す。


ただの一歩が

永遠を揺るがす一歩であるかのように。


目的はただ一つ。

そこに、本当に彼女がいるのかを確かめること。


それが、アラインにとって〝記憶〟を超える

初めての現実になるかもしれないと

どこかで感じながら。


丘を登るアラインの足取りは慎重を極めていた。


月光に照らされた石の道は静寂に満ち

彼の呼吸ひとつすら

夜の冷気に響きそうなほどだった。


(⋯⋯もう少し)


やがて、丘の頂が目前に迫る。

そこに立つ、大樹の桜──


その根元に〝あの女〟がいるとしたら

今が最も危うい瞬間だ。


アラインは身をさらに低くした。


まるで獲物を追う豹のように

背を丸め草の陰に身を滑り込ませる。


白銀の月光を避け

闇の裂け目に自らを沈めながら

そっと覗き込むように桜へと目を向けた。


その時だった。


紅い光──いや、紅い結晶が視界に映る。

桜の大樹の根元に、それはあった。


巨大な紅蓮の宝石のようなそれは

まるでこの世の理を拒絶するかのように

異様な存在感を放っていた。


そして、その奥。


あるいはその中なのか

あるいは結晶の向こうなのか。


確かに、そこには──揺れていた。


黄金の髪。

月明かりが柔らかく差し込む。

それが揺れる度赤と金が溶けるように交差する。


目を凝らすアラインの脳裏に

忘れようとしても焼き付いて離れなかった夢が

否応なく呼び覚まされる。


(──いた)


その瞬間、体中の神経が硬直した。

それは、確かに〝あの女〟だった。


だが、その姿は現実と幻の狭間を揺れ

まるで時間に軋みを走らせるように

不確かだった。


〝今〟を生きている存在なのか

あるいは〝過去〟の残響なのか。


それすら分からないほどに美しく、冷たかった。


「⋯⋯アリア⋯様──」


自分の喉から声が漏れたことに気付いたのは

言葉が夜に溶けた直後だった。


まるで誰かの声が

彼の口を通して外に飛び出したかのように

意識は伴っていなかった。


(⋯⋯なんで、今⋯⋯声を──っ!)


心臓が、喉元を殴るように脈打つ。

アラインは無意識に喉を押さえ、息を止めた。

血が音を立てて耳に流れ込み、指先が震える。


桜を見上げる彼女の姿が

〝此方を向いたように〟見えた。


深紅の瞳──

夢で幾度も見た、何も映さぬ、無機質な炎の色。

無感情な眼差しが、ただそこにあった。


だが──

それが実際に彼女の動きだったのかは

分からない。


前世の記憶が

月光と結晶に幻を重ねたのかもしれない。


それでも、あの瞬間の恐怖は現実のものだった。

這うようにして草陰へ潜り込み、気配を消す。


けれど、既に自分が気配を漏らしていたことに

今さら気付く。


冷や汗が頬を伝い、顎先から地面に落ちた。


それはまるで──

野生のハイエナが

獅子の眼に射竦められた時のようだった。


(⋯⋯動かない)


彼女は、動かなかった。


だが、それが〝見逃された〟ことを

意味するわけではない。


背中を向けることが

これほど恐ろしいとは思わなかった。


アラインはもはや獣のような本能に突き動かされ

一目散に丘を駆け下りた。


石を蹴り、音を立てるなど本来なら愚の骨頂だ。

だが、恐怖がそれを上回った。


振り返らずとも分かる。


視線が背に張り付き

深紅の双眸が

自分を射抜いているかのような感覚が──


焼き付いて離れない。


老婆の家へと続く道は

白く輝く月の下で

まるで別世界のように無音だった。


アラインは忍び足のつもりで

結果的に駆け抜けたような動きで裏庭に回り

窓をこっそりと押し上げた。


その瞬間

背筋を貫いていた緊張がぷつりと切れた。


肺の奥に溜まっていた空気が一気に抜け

肩が震える。


額から流れる汗は

まるで雨のように襟を濡らしていた。


身体の芯が冷え切ったまま

アラインはそのまま

床に崩れるように横たわった。


(⋯⋯あれは⋯⋯)


声にならない思考が

ただ胸の内に渦を巻いていた。


美しいはずの満月は、今夜に限って

あまりにも白く──残酷だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ