第131話 紅との邂逅
「⋯⋯死の翼に触れよ」
老婆の声は、春の風に乗って細く響く。
まるでその言葉自体が
街の空気をざらつかせる呪文のように──
「その若者の死んでいた部屋にはね⋯⋯
血でそう書かれていたそうな」
桜の丘を見上げながら
老婆は遠い記憶を
ゆっくりと掘り返すように語った。
目の奥には、未だ消えぬ恐怖と
かすかな懺悔が揺れている。
「それからというもの⋯⋯
この街では、彼が狂ったように叫んだ通り
春を呼ぶ者が静かに⋯⋯
愛する者と、穏やかに過ごせるようにと
敬いと畏れの入り混じった
奇妙な〝秩序〟が生まれたのさ」
老婆の視線は、丘の頂にある
見えない影を探すように揺れていた。
「最近になって、取り壊されたけれど⋯⋯
街の者たちは桜を見ないように
高い壁を築いたの。
まるで、あの丘ごと封じ込めるように──」
アラインは、黙って耳を傾けていた。
その顔には、少しも怖がる素振りなどなかった。
けれど、心の内には何かがざわめいていた。
「丘に登れば
街の人間は鏖になるとまで伝えられていてね⋯⋯
そうさ。いつしかあの場所は──
〝呪いの丘〟と呼ばれるようになったのさ⋯⋯
何故か、丘の頂の大樹だけは
季節を問わず咲くようになってしまったしねぇ。
桜が咲いてる間は行ってはいけない。
つまり〝二度と〟立ち入ってはいけないの」
老婆の声が僅かに震える。
それは年老いた肉体の震えではない。
彼女自身の心の奥に棲みついた
悔恨と畏怖の揺らぎだった。
「⋯⋯きっと今でも、彼女はこの街を⋯⋯
許してはおられないかもしれないねえ」
その言葉に、アラインの瞳が静かに細まった。
けれどその声色は
まるで何事もなかったかのように穏やかだった。
「大丈夫だよ、おばあちゃん。
そんな話を聞いたら⋯⋯
怖くてボクは行けないよ」
にこりと笑う。
その表情は少年のように無邪気でありながら
どこか演じられた仮面のようにも見えた。
「⋯⋯ああ、ああ。行かんでおくれ。
久しぶりに会えたのに
二度と会えなくなるのは⋯⋯
寂しすぎるからねえ」
老婆は優しく、アラインの手を握った。
その手は小さく、力なく
すぐに壊れてしまいそうな程に脆かった。
アラインは、その腕を支えながら
ゆっくりと丘を背に歩き出した。
⸻
黄金の髪。
深紅の双眸。
そして
背を裂いて広がる炎の翼──
それらはアラインの夢に毎夜現れる
〝あの女〟の姿と、寸分違わぬ姿だった。
夢の中であの女はいつも
少年のような華奢な青年を
泣き叫ぶままに焼き尽くしていく。
その苦悶、悲鳴
そして、助けを求める叫び⋯⋯
全てを無視するように無表情で炎を放ち続ける。
その青年の背には
深く刻まれた鉤爪のような傷──
「⋯⋯く」
アラインは、胸元に手を当てた。
傷など今は見えはしない。
けれど、そこには確かに
かつて引き裂かれた感覚が疼いていた。
(背中の傷跡が⋯⋯痛むな)
その思考の一欠片すら老婆には見せまいと
アラインは表情を整える。
ただの〝優しい若者〟として振る舞うように。
丘の頂を横目に見る。
桜は、あまりに静かに咲いていた。
そしてその静けさが、何よりも不気味だった。
口元には、感情の無い笑みが浮かび上がる。
冷たい、非情な、狂気の入り口を示すような──
⸻
その夜、満月は青白く輝き
雲ひとつなく世界を照らしていた。
アラインは老婆の家の小さな窓を静かに開けると
足音ひとつ立てぬように部屋を抜け出した。
道の灯りは既に消え、街は深く眠っている。
アラインは月明かりを頼りに
闇に紛れるようにして歩き出す。
進む先は、あの丘。
大樹の桜が咲く場所。
誰も近付いてはならない〝呪いの丘〟──
身を低くしながら、彼は気配を殺す。
ただの一歩が
永遠を揺るがす一歩であるかのように。
目的はただ一つ。
そこに、本当に彼女がいるのかを確かめること。
それが、アラインにとって〝記憶〟を超える
初めての現実になるかもしれないと
どこかで感じながら。
丘を登るアラインの足取りは慎重を極めていた。
月光に照らされた石の道は静寂に満ち
彼の呼吸ひとつすら
夜の冷気に響きそうなほどだった。
(⋯⋯もう少し)
やがて、丘の頂が目前に迫る。
そこに立つ、大樹の桜──
その根元に〝あの女〟がいるとしたら
今が最も危うい瞬間だ。
アラインは身をさらに低くした。
まるで獲物を追う豹のように
背を丸め草の陰に身を滑り込ませる。
白銀の月光を避け
闇の裂け目に自らを沈めながら
そっと覗き込むように桜へと目を向けた。
その時だった。
紅い光──いや、紅い結晶が視界に映る。
桜の大樹の根元に、それはあった。
巨大な紅蓮の宝石のようなそれは
まるでこの世の理を拒絶するかのように
異様な存在感を放っていた。
そして、その奥。
あるいはその中なのか
あるいは結晶の向こうなのか。
確かに、そこには──揺れていた。
黄金の髪。
月明かりが柔らかく差し込む。
それが揺れる度赤と金が溶けるように交差する。
目を凝らすアラインの脳裏に
忘れようとしても焼き付いて離れなかった夢が
否応なく呼び覚まされる。
(──いた)
その瞬間、体中の神経が硬直した。
それは、確かに〝あの女〟だった。
だが、その姿は現実と幻の狭間を揺れ
まるで時間に軋みを走らせるように
不確かだった。
〝今〟を生きている存在なのか
あるいは〝過去〟の残響なのか。
それすら分からないほどに美しく、冷たかった。
「⋯⋯アリア⋯様──」
自分の喉から声が漏れたことに気付いたのは
言葉が夜に溶けた直後だった。
まるで誰かの声が
彼の口を通して外に飛び出したかのように
意識は伴っていなかった。
(⋯⋯なんで、今⋯⋯声を──っ!)
心臓が、喉元を殴るように脈打つ。
アラインは無意識に喉を押さえ、息を止めた。
血が音を立てて耳に流れ込み、指先が震える。
桜を見上げる彼女の姿が
〝此方を向いたように〟見えた。
深紅の瞳──
夢で幾度も見た、何も映さぬ、無機質な炎の色。
無感情な眼差しが、ただそこにあった。
だが──
それが実際に彼女の動きだったのかは
分からない。
前世の記憶が
月光と結晶に幻を重ねたのかもしれない。
それでも、あの瞬間の恐怖は現実のものだった。
這うようにして草陰へ潜り込み、気配を消す。
けれど、既に自分が気配を漏らしていたことに
今さら気付く。
冷や汗が頬を伝い、顎先から地面に落ちた。
それはまるで──
野生のハイエナが
獅子の眼に射竦められた時のようだった。
(⋯⋯動かない)
彼女は、動かなかった。
だが、それが〝見逃された〟ことを
意味するわけではない。
背中を向けることが
これほど恐ろしいとは思わなかった。
アラインはもはや獣のような本能に突き動かされ
一目散に丘を駆け下りた。
石を蹴り、音を立てるなど本来なら愚の骨頂だ。
だが、恐怖がそれを上回った。
振り返らずとも分かる。
視線が背に張り付き
深紅の双眸が
自分を射抜いているかのような感覚が──
焼き付いて離れない。
老婆の家へと続く道は
白く輝く月の下で
まるで別世界のように無音だった。
アラインは忍び足のつもりで
結果的に駆け抜けたような動きで裏庭に回り
窓をこっそりと押し上げた。
その瞬間
背筋を貫いていた緊張がぷつりと切れた。
肺の奥に溜まっていた空気が一気に抜け
肩が震える。
額から流れる汗は
まるで雨のように襟を濡らしていた。
身体の芯が冷え切ったまま
アラインはそのまま
床に崩れるように横たわった。
(⋯⋯あれは⋯⋯)
声にならない思考が
ただ胸の内に渦を巻いていた。
美しいはずの満月は、今夜に限って
あまりにも白く──残酷だった。




