第130話 伝承は呪いへ
老婆の語る声は
時折風に掻き消されそうになりながらも
アラインの耳には確かに届いていた。
まるでその言葉の一つひとつが
古の封印を解く呪文のように
静かにこの街の〝奥〟へと導いていく。
「⋯⋯あの桜はね。
二百年ほど前に死んだ
ある女の〝夫〟の墓標代わりなんだよ」
老婆は、ゆっくりと息を吸い
肺の奥に眠っていた記憶の続きを
引き出すように言葉を繋ぐ。
「女はね
毎年⋯⋯蕾が膨らみ始めた頃に
あの丘を登ってくるのさ」
その姿は風物詩である以上に〝儀式〟だった。
当時の街の誰もが、その風景を知っていた。
けれどその意味を知る者は
もう多くはなかった。
丘へと続く坂道には
かつて一本だけ立っていた桜。
それが今では、まるで誰かを導くように
並木となって道の両側に根を張り
枝を伸ばしていた。
まっすぐに伸びた道を
女が一歩、また一歩と進んでいく度に──
その足取りに呼応するかのように
桜は花を咲かせる。
まるで風も光もその時の為に合わせたかのように
彼女の歩みに合わせて
両腕を広げるように桜が咲き誇っていく。
最後に、丘の頂──
かつて夫の墓標代わりとされた大樹が
ぱんっ、と音を立てるかのように
満開に花を咲かせる。
女は何も言わず
その根元にある小さな石碑の横に腰を降ろす。
そして、散り始めるその時まで
ただ静かに──寄り添うのだ。
まるで今なおそこに眠る夫の温もりを
感じるかのように。
⸻
やがて時代が進み、この街も変わっていった。
丘の下には石畳の広場が整備され
桜の季節になれば色とりどりの屋台が並び
人々の笑い声と共に春を迎えるようになった。
けれど、その〝春〟がやってくるのは──
彼女が来る年だけだった。
その年だけ、桜は一斉に花を咲かせる。
だから人々は、いつしかその女を
〝春を呼ぶ者〟と呼び
遠くからその姿を見守るようになった。
それは、ただの伝説や神話ではなかった。
人々の記憶に、目に、心に
はっきりと刻まれた現実の光景だったのだ。
黄金の絹のような髪を風に揺らし
燃えるような深紅の瞳で
ただまっすぐに桜を見つめるその女の姿。
無表情でありながら
そこには言葉では説明できない
〝痛み〟があった。
彼女が進むと
風が吹き
花が舞い
世界が春に染まる。
だからこそ、誰もが跪いて──その道を開けた。
息を殺して、見送った。
語らず、ただ〝在る〟ことを選んだ。
それが、この街の暗黙の掟だった。
──だが、ある年。
春は、別の〝形〟で訪れることになる。
それがこの街にとっての〝悲劇の春〟となるとは
まだ誰も知らなかった。
⸻
春の空は澄み渡り
街には柔らかな陽が降り注いでいた。
人々は今年もまた
あの桜並木が〝彼女〟の到来を告げるのだと
密やかに胸を躍らせていた。
丘の麓から続く並木道は
いつものように蕾を膨らませ
やがて花を綻ばせ始めていた。
その咲き方には不思議な法則がある。
人の足音に合わせるように
まるで意志を持つように桜は次々と開いていく。
その日もまた
街の誰もがひとつの物語のように
その光景を迎えるつもりだった。
しかし、その春は違った。
異変は、咲き誇る桜に待ち焦がれる住人達が
誰ひとりとして気付かぬ間に──
既に起きていた。
きっかけは、愚かで無知な若者の集団だった。
春を呼ぶ者など、所詮は迷信だと。
百年を越えた桜の木に祀られた墓には
財宝が眠っていると。
彼らは酒の勢いと悪戯心から
あろうことか
大樹の根元にある石碑を暴いたのだ。
刃物で石を削り
土を掘り起こし
聖域を荒らす彼らの笑い声は
夜風に乗って静かに街を撫でていった。
そして迎えたその朝──
丘の桜並木はいつものように咲き始めていた。
それはまるで
何事もなかったかのように美しかった。
いつものように
彼女がやってくる気配を運んでいた。
人々は道の両側に跪き
そっとその訪れを待っていた。
だが。
咲き誇る大樹の下
立っていた彼女の姿は
いつもとどこか違っていた。
無機質な深紅の瞳には、明確な色があった。
燃えるような怒り。
決して抑えきれぬ、理では語れぬ激情。
彼女の背に、ゆっくりと裂け目が生じる。
そこから
音もなく這い出すように現れたのは──炎の翼。
空を裂き、光を拒むように広がるそれは
天をも灼き尽くす不死鳥の顕現だった。
瞬間、気温が急激に上昇する。
肌が焼けるような熱さに
並木道の桜達が、次々と花を散らし
花弁が燃えるように空へと昇っていく。
人々は逃げ惑った。
その場から、一歩でも遠くへと。
けれど、彼女は一歩も動かなかった。
ただ、暴かれた墓標を見つめながら
燃え散る桜の中で静かに立ち尽くしていた。
誰も、彼女が何を思っていたのかは知らない。
その沈黙が、返って恐怖を募らせた。
数日後、街に不穏な空気が満ち始める。
そして──街外れで大きな爆発が起こった。
混乱に陥った中
行方不明となっていた若者のうち
ひとりが街に戻ってきた。
その姿は──人間として、あまりに無惨だった。
髪は真っ白に抜け落ち
皮膚は土気色に乾き
瞳は落ち窪みながらも見開かれ
今にも飛び出さんばかりに揺れていた。
その口から漏れたのは
震える声と、同じ言葉の繰り返し。
「丘に行くな⋯⋯っ、桜も⋯⋯見るな!!」
「天使に⋯⋯殺される⋯⋯っ!」
何度も、何度も。
狂ったように繰り返されたその声に
人々は耳を塞ぎ、目を逸らした。
その青年は間もなく
自室に引き籠るようになった。
誰の声も届かず
部屋からは一切の音も漏れない。
そして──ある日。
異臭に気付いた隣人が扉を開けた時
そこにあったのは、焼け焦げた部屋と
天井まで飛び散った赤黒い肉片だった。
その肉は内側から爆ぜたように裂けており
骨は炭のように黒く砕けていた。
その異様な死に様に
街の者達は狂乱の中、確信していった。
─春を呼ぶ者の怒りをかってはならない─
と──⋯




