天使を襲いし大罪人。 ⑬
それからはよく覚えていない。
気付けば、僕は自分の部屋のベッドでボーっと天井を眺めていた。
グルグルと形にすらならない断片的な思考が浮かんでは消えての繰り返し。
そのままどれほど時間がたったのか、僕はいつのまにか寝てしまっていた。
翌日。
いつもより早く起きてしまった。
しかし昨日の言葉が頭の中を駆け巡り、うまく思考が回らない。
のそのそと着替えて、机の中のものをカバンに入れて階下に降りる。
両親が話しかけてくるが、返事は上の空で食事の味もよく分からない。
そして、惰性の様に家を出て香奈のマンションの近くで待機する。
香奈と間男が一緒にいるのを見て、今までとは違う感情が沸き起こる。
それが何なのかはよく分からなかったが、いい気分ではなかった。
学校に着いても、この状態は治らずクラスメイトや先生も心配していた。
しかし、保健室に行って治るようなものではないので、早退も視野に入れつつ生活した。
結局、いつもならしないようなミスを数回起こしただけで、特に大きな問題もなく放課後になった。
正直な話、香奈のことを護衛するのは……いや、尾行するのは止めてこのまま帰ろうかなとも思った。
でも、香奈がストーカーに困っているという話を聞いて、そのまま知らないふりなどできない。
僕は、胸の内にあるこの不快な感覚を感じながらも、結局香奈を追うことに決めた。
帰り道はいつもと変化があるわけでもなく、やはり僕が居なくてもよかったんじゃないかと思い始めたその時――。
いきなりの豪雨に襲われた。
香奈と間男はいきなりのことに戸惑っているが、僕は違った。
雨が直接肌を叩き、びしょ濡れになってザーザーという音がそこら中から聞こえてくる。
頭も体も雨が体温を奪っていき、少しずつ冷たくなっていく。
しかし、それに反して僕の気持ちはヒートアップしていた。
今までの無気力さが嘘のように体に力がみなぎってくる。
頭はさっきまで靄がかかっていたようだったのが嘘のように晴れ渡り、最高にすがすがしい気分だ。
さっきまでの僕はおかしかった。
香奈と間男の関係が間違っているものなのに、それを正すことを諦めかけていたなんて。
ただ、あそこまで間男と楽しそうに過ごす香奈はきっと洗脳されているに違いない!
向こうがそんな手を使っているとなれば、こちらも正攻法以外で行くしかないな。
幸いにも、今朝、無意識のうちに鞄に入れたあれがあれば。
その思考と同時に、鞄に手を入れ小瓶の感触を確かめる。
しかし、何時までもここで考えているわけにもいかない。
この万能感が続いているうちに、動かないと。
そう考えて、間男から香奈が離れる場所に移動することにする。
これで香奈を取り戻そうとしても、間男がいれば邪魔をしてくるはずだ。
それを避けるためにも、香奈と僕が二人だけになれる場所がいる。
過去最高に頭の回転が速い僕は、一瞬でその答えをはじき出した。
香奈の家だ!
そうと決まれば、さっそく家に帰りコルクボードから鍵を取って、マンションに向かう。
あまりにビチョビチョだと誰かに見咎められるかもしれないとマンションの中に入る前に気付いた僕は、体を震ったり、服を絞ったりして軽く水を落としてから中に入る。
どうやら僕以外にも突然の雨に濡れてしまった人がいたのか、マンションのロビーに水の跡がある。
これなら目立たないとホッと一息つき、エレベーターに乗り込む。
五階に着くと鍵を使って扉を開け、中に入る。
香奈の残り香を嗅いで、ますますやる気を漲らせた僕は取り合えず居間の方へ行き、何か香奈が飲みそうなものがないか確かめる。
が、お茶やら牛乳やらが入っているだけで、香奈だけが飲みそうなものはない。
どうしようかと悩んでいると――。
香奈が帰ってきてしまった。
予想以上の早さにビクッとなり、身が竦んで隠れることができない。
その間に香奈は靴を脱ぎ終え、廊下を歩いている。
今、この場面を見られたら終わりだ……。
しかし、今から動くと物音で香奈が気付く可能性がある。
それどころか、この馬鹿みたいに拍動している心臓の音が聞こえてしまうのではないかという感g萎えさえも浮かんでくる。
しかし、天に祈ることしかできない僕に女神が微笑みかけたのか、香奈はお風呂に入ったようだ。
緊張から解放され、胸を撫で下ろす。
と同時に、さっきまで心臓が激しく動いていたからか
体のとある部分が硬くなると同時によからぬ考えも浮かんでしまう。
ここで短絡的な行動に走ってはいけないと頭ではわかっていても、体は意思に反して勝手に脱衣所の方へと向かう。
まあ別に最悪の場合、香奈に直接飲ませれば大丈夫だよね? 勝手に家に入っていたことも香奈が僕の虜になれば、許してくれるだろう。
そう理論武装して、自分の体に身を任せる。
――――――
いつからだろう……彼女へ向ける思いが、親愛から恋慕へと変わったのは――。
香奈と僕は幼い頃、よく遊んだ。歳が近いのもあってか、香奈は僕によく懐いてくれていたように思う。
いつも香奈と全力で遊んで、泥だらけになった僕らを兄さんが家まで運んでくれた。
僕も香奈も兄さんが大好きだったし、兄さんも僕らを可愛がってくれた。
そんな兄さんが――死んだ。
何歳の頃だったか……小学生二年生ぐらいだったと思う。
その年頃とはいえ、死がどういうものかは分かっていた。
でも、僕は初めて体験する身近な人の死に耐えられなかった。
僕は学校に行かなくなり、四六時中家に引きこもって兄との写真が載ったアルバムを眺めて過ごしていた。
彼女はそんな僕を毎日訪ねてきてくれた。
彼女もまた、死が何かというものを分かっていたと思う。
僕だけでなく、彼女だって悲しかったはずだ。
しかし、彼女はそんなことはおくびにも出さず、兄さんの死に打ちひしがれていた僕と両親に明るく話しかけてくれた。
父と母は彼女の優しさに当てられて段々と明るくなっていき、日常に戻り始めて行った。
でも、僕は現実を受け入れられなかった。
少し前まで、僕に微笑みかけて、仕方ないなあと頭をなでてくれた兄さんがもういない。
その事実に耐えられなかった。
僕は香奈まで拒絶していた。
誰とも会わず、ひたすら兄さんとの思い出に浸り続ける日々。
それでも香奈は僕を訪ねてきてくれた。
扉に背をもたれて、その日学校であったことや、兄さんとの思い出、美味しかったご飯や面白かったことなどいろいろな話をしてくれた。
そのかいあって、僕は少しずつ外に出始め、数か月後には学校に復帰した。
香奈はそのことを知ると、自分のことの様に喜んでくれた。
香奈の天使のような笑顔を見て、僕は香奈のことが好きなんだなと自然に思えた。
香奈のことを守ってあげたいと思った。
兄さんが僕や香奈にしてくれたように、香奈が僕にしてくれたように、僕も香奈が辛い時、苦しい時にそばにいて、支えてあげられるような、励ましてあげられるような、信じてあげられるような、そんな人になりたかった。
何時か聞いたことがある。
愛とは与えるものではない、と。
ならば、僕のこの気持ちは恋ではないのだろう、きっと愛なのだ。
僕はもう十分、香奈に様々なものを貰った。
今度は僕が与える番なのだ。
そう思えた。幸せだった。
このまま香奈と一緒にずっとずっと居られたらとそう思っていた。
しかし、現実は無情だった。
香奈は伯父さんの仕事の関係で、引っ越さなければならなくなった。
香奈は泣いた。僕も泣いた。
離れたくなかった。香奈にそばにいてほしかった。
だから、僕たちは約束した。
きっと戻ってくる……いや、僕が必ず迎えに行くと。
だから、その時は結婚しようと。
小さな手で僕たちがした約束は、僕の中で大きく温かいものになり、僕に力を与えてくれる。
これが僕の原点。そうだ。これが僕と香奈の思い出。
どうしてこうなってしまったんだろう。
どこで間違えてしまったんだろう。
そう考えても答えは出ない。
掛け違ったボタンを、すれ違った距離を、元に戻すことはできない。
あふれた水はもう、盆には返ってこないのだから。
風呂に侵入する前段階までしか書いていません。
後、ぱっと見正気みたいに見えますが『それでも廻る世界の話。』を読むと分かるように、普通に壊れてます。
最後の一文は『覆水盆に返らず』です。




