第9話 会えない人への手紙 (メソポタミア編(9))
「聞いてくれ、結。俺、あの『イナンナへの恋歌』の、正式な写しを任されることになった」
シャルムの声は、興奮で上ずっていた。聖婚儀礼で記録係を務めた腕を見込まれ、後世に残す清書役に選ばれたのだという。
結は思わず手を叩いて喜んだ。
「すごいじゃない!」
「まだ実感が湧かないけどな……でも、頑張るよ」
その日から、シャルムは一段と根を詰めて粘土板に向かうようになった。仕事終わりに顔を合わせても、指先はいつも乾いた土でざらついている。時には目の下に隈を作りながらも、シャルムは弱音一つ吐かなかった。
「無理しすぎじゃない?」
「無理でもやらなきゃ。一生に一度あるかないかの役目だぞ。ちょっとでも手を抜いたら、後で絶対後悔する」
その言葉に、結はふと自分自身のことを思った。逃げずに向き合うということが、少しずつ、自分の中でも輪郭を持ち始めている気がした。
結も夜の稽古を続けながら、少しずつ複雑な文字を覚えていく。
「なあ、結もそろそろ、何か自分の言葉を刻んでみたらどうだ」
ある夜、シャルムがふとそんなことを言った。
「私の、言葉?」
「文字を覚えるのに、一番いいのは、本当に伝えたいことを書くことさ。誰でもいい、会えない誰かに向けて」
会えない誰か。その言葉に、結の胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
「難しいこと考えなくていい。ただ、思ったことを書けばいいんだ」
シャルムはそう言うと、結のために新しい粘土板を用意してくれた。
***
その夜、結は一人、新しい粘土板に向き合った。何を書けばいいのか、最初はわからなかった。けれど、葦のペンを握るうちに、自然と言葉が浮かんでくる。
――あなたが誰なのか、まだわからない。
――でも、大切な人がいるって、それだけは確かに覚えてる。
――もし、いつかどこかで会えたら、伝えたいことがある。
たどたどしい文字で、結は一文字ずつ刻んでいった。何を伝えたいのか、自分でもうまく言葉にできない。それでも、手を動かすうちに、胸のつかえが少しずつ軽くなっていくのを感じた。何度も文字が歪み、粘土をならし直しながら、それでも結は最後まで書き切った。
最後に、なんとなく、印のようなものを残したくなった。名前の代わりに。深く考えないまま、結は粘土の端に、小さな模様を描き足した。円を描くような、どこか懐かしい形の模様だった。
「――それ」
いつの間にか近くにいたトキが、その模様を見つめて、息を呑んだ。
「シャルムの印章と、同じ模様だ」
「え……?」
言われて初めて、結は自分の描いたものを見直した。確かに、あの円筒印章の意匠と、よく似ている。いや、似ているというより――同じだった。
「なんで、私……」
「わからない、なんてことないと思うよ。多分、あんたの手が、覚えてたんだ」
トキの声は、いつになく静かだった。からかいの色も、いつもの軽さもなく、ただじっと、結の手元を見つめている。
「トキ?」
「……なんでもないよ。随分と上達したね」
いつものように、はぐらかすように言うと、トキはそれ以上何も語らなかった。
結はもう一度、自分の刻んだ模様を指でなぞった。誰かに教わったはずもないのに、確かに知っている形だった。
「ねえ、トキ」
「ん?」
「私、この模様を、どこかで本当に彫ったことがあるのかな」
トキはしばらく黙っていた。それから、いつもより少しだけ優しい声で言った。
「そうだとしても、無理に思い出さなくていいよ。その時が来れば、ちゃんと思いだすし、俺も、話すべきだと判断したらちゃんと話すよ」
はぐらかされたようで、はぐらかされていない答えだった。結はその言葉を、粘土板と一緒に胸の奥にしまい込んだ。
***
翌日、醸造所では、常連客の女たちがトキを巡って小さな諍いを起こしていた。
「今日は私が先に話しかけたのよ!」
「あら、昨日は私と約束したじゃないの」
女たちに詰め寄られ、トキはいつもの調子でひらりとかわしている。
「二人とも、そんなに俺を取り合わなくても」
「トキって、本当に何者なんだろうね」
結が半眼で呟くと、ニンリルが笑いながら答えた。
「さあね。ただの見てくれのいい旅人さ、うちらにとっちゃ」
タシュリまで、珍しく口元を緩めてその騒ぎを眺めていた。結は、粘土板に刻んだ、あの見覚えのある模様を思い返した。トキが見せた、あの一瞬の静けさ。何かを知っていて、何かをこらえている。
――トキは、一体何を知っているんだろう。
答えの出ない問いを抱えたまま、結はまた新しい一日を始めた。
*(第9話 了)*




