表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『記憶を失くした私は、神様?と時を渡る 』  作者: 巡里 ひより


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/38

第9話 会えない人への手紙 (メソポタミア編(9))

「聞いてくれ、結。俺、あの『イナンナへの恋歌』の、正式な写しを任されることになった」


シャルムの声は、興奮で上ずっていた。聖婚儀礼で記録係を務めた腕を見込まれ、後世に残す清書役に選ばれたのだという。


結は思わず手を叩いて喜んだ。


「すごいじゃない!」


「まだ実感が湧かないけどな……でも、頑張るよ」


その日から、シャルムは一段と根を詰めて粘土板に向かうようになった。仕事終わりに顔を合わせても、指先はいつも乾いた土でざらついている。時には目の下に隈を作りながらも、シャルムは弱音一つ吐かなかった。


「無理しすぎじゃない?」


「無理でもやらなきゃ。一生に一度あるかないかの役目だぞ。ちょっとでも手を抜いたら、後で絶対後悔する」


その言葉に、結はふと自分自身のことを思った。逃げずに向き合うということが、少しずつ、自分の中でも輪郭を持ち始めている気がした。


結も夜の稽古を続けながら、少しずつ複雑な文字を覚えていく。


「なあ、結もそろそろ、何か自分の言葉を刻んでみたらどうだ」


ある夜、シャルムがふとそんなことを言った。


「私の、言葉?」


「文字を覚えるのに、一番いいのは、本当に伝えたいことを書くことさ。誰でもいい、会えない誰かに向けて」


会えない誰か。その言葉に、結の胸の奥が、きゅっと締めつけられた。


「難しいこと考えなくていい。ただ、思ったことを書けばいいんだ」


シャルムはそう言うと、結のために新しい粘土板を用意してくれた。


***


その夜、結は一人、新しい粘土板に向き合った。何を書けばいいのか、最初はわからなかった。けれど、葦のペンを握るうちに、自然と言葉が浮かんでくる。


――あなたが誰なのか、まだわからない。


――でも、大切な人がいるって、それだけは確かに覚えてる。


――もし、いつかどこかで会えたら、伝えたいことがある。


たどたどしい文字で、結は一文字ずつ刻んでいった。何を伝えたいのか、自分でもうまく言葉にできない。それでも、手を動かすうちに、胸のつかえが少しずつ軽くなっていくのを感じた。何度も文字が歪み、粘土をならし直しながら、それでも結は最後まで書き切った。


最後に、なんとなく、印のようなものを残したくなった。名前の代わりに。深く考えないまま、結は粘土の端に、小さな模様を描き足した。円を描くような、どこか懐かしい形の模様だった。


「――それ」


いつの間にか近くにいたトキが、その模様を見つめて、息を呑んだ。


「シャルムの印章と、同じ模様だ」


「え……?」


言われて初めて、結は自分の描いたものを見直した。確かに、あの円筒印章の意匠と、よく似ている。いや、似ているというより――同じだった。


「なんで、私……」


「わからない、なんてことないと思うよ。多分、あんたの手が、覚えてたんだ」


トキの声は、いつになく静かだった。からかいの色も、いつもの軽さもなく、ただじっと、結の手元を見つめている。


「トキ?」


「……なんでもないよ。随分と上達したね」


いつものように、はぐらかすように言うと、トキはそれ以上何も語らなかった。


結はもう一度、自分の刻んだ模様を指でなぞった。誰かに教わったはずもないのに、確かに知っている形だった。


「ねえ、トキ」


「ん?」


「私、この模様を、どこかで本当に彫ったことがあるのかな」


トキはしばらく黙っていた。それから、いつもより少しだけ優しい声で言った。


「そうだとしても、無理に思い出さなくていいよ。その時が来れば、ちゃんと思いだすし、俺も、話すべきだと判断したらちゃんと話すよ」


はぐらかされたようで、はぐらかされていない答えだった。結はその言葉を、粘土板と一緒に胸の奥にしまい込んだ。


***


翌日、醸造所では、常連客の女たちがトキを巡って小さな諍いを起こしていた。


「今日は私が先に話しかけたのよ!」


「あら、昨日は私と約束したじゃないの」


女たちに詰め寄られ、トキはいつもの調子でひらりとかわしている。


「二人とも、そんなに俺を取り合わなくても」


「トキって、本当に何者なんだろうね」


結が半眼で呟くと、ニンリルが笑いながら答えた。


「さあね。ただの見てくれのいい旅人さ、うちらにとっちゃ」


タシュリまで、珍しく口元を緩めてその騒ぎを眺めていた。結は、粘土板に刻んだ、あの見覚えのある模様を思い返した。トキが見せた、あの一瞬の静けさ。何かを知っていて、何かをこらえている。


――トキは、一体何を知っているんだろう。


答えの出ない問いを抱えたまま、結はまた新しい一日を始めた。


*(第9話 了)*


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ