第8話 戻ってくる癖 (メソポタミア編(8))
「――は? あんたが、この壺とあの壺、間違えたのかい」
ニンリルの声に、結は血の気が引いた。神殿に納める上等なビールの壺と、いつもの安ビールの壺を、うっかり運び違えてしまったのだ。神殿の使いはすでに引き取っていってしまった後だった。
見た目がよく似た壺だった。急いで駆け寄ったが、時すでに遅かった。
「ご、ごめんなさい。すぐ取り替えに……」
「もう遅いよ。神殿の書記長様に出しちまったんだ」
ニンリルの顔から、初めて余裕が消えていた。醸造所の評判に関わる、大きな失敗だった。
「あたしが直々に謝りに行くしかないね」
そう言って足早に出ていくニンリルの背中を、結はただ見送ることしかできなかった。
醸造所に残された壺の列を、結はぼんやりと眺めた。いつもなら賑やかな仕込みの音も、今日はやけに静かに感じられる。自分の失敗一つで、こんなにも空気が変わってしまうのかと、改めて思い知らされた。
***
――どうして、確認しなかったんだろう。
――ううん、そもそも壺に印をつけておかなかったニンリルさんにも、ちょっとは責任があるんじゃ。
――誰かが、気づいてくれたら・・。誰かが気づいて注意してくれたら良かったのに。
そんな考えが、次々に頭をよぎった。誰かのせいにしたい。自分だけが悪いんじゃないと思いたい。久しく忘れていたはずの、あの逃げ癖が、じわりと胸の奥から顔を出してくる。
「トキ、どうしよう」
思わず声に出して呼んでみたけれど、トキは現れなかった。ここ数日、呼べば来ることもあれば、来ないこともある。今日は、後者だった。
タシュリが、無言でこちらを見ていた。何か言われるかと身構えたけれど、彼女は何も言わず、ただ黙って壺を洗い続けていた。
その沈黙が、かえって辛かった。叱ってもらえる方が楽な時もあるんだと知った。壺を洗う水音だけが、やけに大きく響く。結は自分の手のひらを見つめた。麦を挽き、水を運び、少しずつ馴染んできたはずのこの手で、こんな失敗をしてしまった。
結は壺の縁に手をかけたまま、しばらく動けずにいた。誰かに肩代わりしてほしい。誰かが、大丈夫だよと言ってくれないだろうか。そんな甘えた気持ちが、次から次へと湧いてくる。
「あたしも、昔よくやったよ」
不意に、タシュリが口を開いた。
「え?」
「余所から来たばかりの頃、右も左もわからなくて、何度も失敗した。ニンリルさんに、何度も怒鳴られたもんさ」
「タシュリさんが?」
「意外かい。……まあ、あんたに舌打ちしたのは、悪かったよ。少しは」
ぶっきらぼうな言い方だったけれど、結の強張っていた肩から、少しだけ力が抜けた。
***
夕方、シャルムが醸造所を訪ねてきた。事情はもう街に広まっていたらしい。
「災難だったな」
「……うん」
「で、これからどうするんだ」
「どうするって……もう、ニンリルさんが謝りに行っちゃったし」
「あんたは、それでいいのか」
シャルムの問いに、結は言葉に詰まった。ここで頷いてしまえば、また誰かに任せて、自分は隅で小さくなっているだけだ。前にも、そうやって立ち尽くしていたことがあった。
「……よくない。よくないけど、何をすればいいのかわからない」
「わからないなら、聞けばいい。ニンリルさんが謝りに行くなら、あんたも一緒に行けばいいだろう。壺を間違えたのは、あんたの手なんだから」
厳しい言葉だった。けれど、逃げ場を塞がれたことで、かえって結の中の何かが、すとんと定まった気がした。
「……行く」
結は立ち上がると、ニンリルの後を追った。神殿の前で、頭を下げるニンリルの隣に並び、自分の口で謝った。息が震えたけれど、声はちゃんと出た。
「私が、壺を間違えました。ニンリルさんは悪くありません」
書記長は最初こそ渋い顔をしていたが、結が事情を包み隠さず話すのを聞くうちに、少しだけ表情を緩めた。
「まあ、今回は目こぼししてやろう。次からは気をつけることだ」
***
醸造所への帰り道、ニンリルがぽつりと言った。
「よく、自分から出てきたね」
「シャルムに、行けって言われて」
「言われて行けるのも、才能さ」
素っ気ない言い方だったけれど、その声はどこか温かかった。タシュリも隣で、何も言わずに小さく頷いていた。それから、思い出したように付け加える。
「今度から、壺には印をつけておくよ。あんたが間違えないように」
「え……」
「あんたのためだけじゃない。あたしらも、もう歳だからね。見間違えることもある」
素っ気ない言い訳だったけれど、結にはそれが、精一杯の優しさだとわかった。
その夜、結はまた頭をよぎった考えを思い返す。やっぱり誰かのせいにしたくなる自分の心。それでも、最後には自分の足で謝りに行けた自分。両方とも、確かに自分だった。
――まっすぐには進めなくても、いい。後ろに下がることもあるけど、最後に、少しでも前進できたなら上等・・・なのかもしれない。




