第7話 街の匂い、街の音 (メソポタミア編(7))
「今日は総出だよ。手が空いてる奴は、全員水路に出な」
朝一番、ニンリルの声が醸造所に響いた。聞けば、雨季を前に、街中総出で水路の泥をさらう日なのだという。
「これをやっとかないと、畑に水が回らなくなる。街全体の仕事さ」
支度をしながら、ニンリルが一枚の布を結の頭にくるりと巻きつけ、余った端を首元に垂らした。
「日差しがきついからね。頭までやられたら、それこそ倒れちまう」
ぶっきらぼうな口調のわりに、その手つきは存外丁寧だった。結は少しくすぐったい気持ちで、それを受け取った。
結もタシュリと連れ立って、神殿裏の水路に向かった。すでに大勢の人が集まっている。老いも若きも、裾をたくし上げ、泥まみれになりながら水路を掘り返していた。子供たちまで小さな籠を持って、大人の真似をして泥を運んでいる。
結も見よう見真似で鍬を握り、水路に足を踏み入れた。だが力の入れ方がまるでわからない。掬った泥は半分も持ち上がらないうちにぼたりと足元に落ち、隣の人の裾を汚してしまう。
「そこ、もっと深く掘りな。刃を寝かせすぎだ」
言われた通りにしてみても、すぐにまた腰の引けた掘り方に戻ってしまう。不慣れな体勢を続けるうち、背中と腰にじわじわと痛みが広がっていった。
「……あんた、それじゃ日が暮れても終わんないよ」
タシュリが結の手元を覗き込み、呆れたように鍬を取り上げた。
「向こうで籠を運びな。そっちなら、まだあんたにもできるだろ」
促されるまま、結は掘り起こされた泥を籠に詰め、水路の外へ運ぶ役に回った。ずしりと重い籠を両手で抱え、よろけながら何度も畦道を往復する。
「あんた力あるね、見かけによらず」
顔も知らない誰かに声をかけられ、結は照れ笑いを返した。冷たくて、生臭くて、けれど不思議と心地いい労働だった。何度も腕が悲鳴を上げたが、少し離れた場所で黙々と掘り続けるタシュリの背中を見ていると、弱音を吐く気にはなれなかった。
途中、小さな男の子が結の隣にしゃがみこんで、真似事のように泥をすくっていた。
「お前、手伝ってるつもりか」
「うん! ぼくもおとなだから」
大人たちが笑うと、男の子はむきになって泥を放り投げ、結の腕にべしゃりとかかった。
「わ、ちょっと」
「わりぃ、わりぃ」
謝りながらも、けらけらと笑うその顔に、結もつられて笑ってしまう。四千年前だろうと、子どもの無邪気さは変わらないらしい。
「あんた、最初はからっきしだったのに、思ったよりしぶといね」
タシュリが、泥だらけの顔でぽつりと言った。それが褒め言葉なのかどうか、結にはよくわからなかったけれど、悪い気はしなかった。
***
昼になると、あちこちで火が焚かれ、鍋が並んだ。誰かが持ち寄った干し魚、誰かが焼いたパン、ニンリルが差し入れたビールの壺。誰のものとも言わず、みんなで分け合って食べる。
「こういう日は、賑やかでいいね」
結が言うと、隣にいた老人が笑った。
「昔からずっとこうさ。一人でやったら終わらない仕事も、みんなでやれば、いつの間にか終わる」
その言葉が、結の中に静かに響いた。一人では抱えきれないものも、誰かと分ければ形を変える。当たり前のようで、今の結には、まだ新しい発見だった。
「あんた、どこの生まれだい。見ない顔だけど」
「遠い国から来たんです」
「そうかい。それにしちゃ、よく働くね」
老人はそう言って、干し魚を一切れ、結の手に渡してくれた。塩気の効いた身をかじると、疲れた体に染みるようだった。
子どもたちが泥だらけのまま笑いながら駆け回り、女たちは洗濯物みたいに世間話を広げていく。誰かが即興の歌を口ずさむと、周りが手拍子で応じた。四千年前の街の「暮らし」が、結の周りにいくつも重なっていた。
タシュリが、干し魚を齧りながらぽつりと言った。
「あんた、来た時は右も左もわからない顔してたけど。今日は、ちゃんとこの街の一員みたいな顔してるね」
「そう、かな」
「そうだよ。……悪くない顔だ」
ぶっきらぼうな言い方だったけれど、結の胸に、じんわりと嬉しさが広がった。
***
夕方、水路の仕事が一段落した頃、聞き覚えのある声がした。
「精が出るね」
振り向くと、トキが涼しい顔で立っていた。
「トキ! ……もう、急に帰ってくるんだから」
「呼ばれてないのに来たら、駄目だった?」
「そうじゃないけど……何も言わずに、何日もいなくなるから」
文句を言いかけて、結はふと自分の口調が、以前よりずっと素直に出ていることに気づいた。
「街の外、どうだった?」
「まあ、色々。他の街の噂とか、旅の商人の話とか」トキは軽くはぐらかすように答えた。「そういえば、この街を通っていった旅人の話も、いくつか聞いたよ」
「旅人?」
「珍しくもない話さ。この時代、あちこち渡り歩く商人や学者は、そう珍しくない」
「学者さんだったの? 商人?」
「さあ、どうだったかな。忘れたよ」
軽く肩をすくめるトキに、結はそれ以上追及するのを諦めた。この人がはぐらかす時は、大抵、何か理由があることを、もう知っている。
それ以上は深く語らず、トキはいつもの飄々とした調子で泥だらけの結を眺めた。
「随分、逞しくなったね」
「そう、かな」
「うん。最初に会った頃より、ずっと」
その一言に、結は思わず自分の泥だらけの手を見下ろした。誇れるようなものは、まだ何もない。それでも、今日一日、誰かと並んで働けたことだけは、確かな実感としてそこにあった。
「ニンリルさんもタシュリさんも、街の人たちも、みんな親切にしてくれるの」
「それは、結がそれだけのことをしてきたからだよ」
トキの声には、いつになく穏やかな響きがあった。
夜、体は芯まで疲れ切っていた。泥のように、あっという間に眠りへ落ちていく。腕も脚もパンパンに張り、背中も腰もずきずきと痛んだけれど、胸の内は不思議なくらい満たされていて、その痛みさえどこか心地よかった。窓の外から、遠く微かに、祭りの後のような笑い声が聞こえていた。




