第6話 粘土に刻む文字 (メソポタミア編(6))
「まず、これを覚えな」
シャルムが粘土板に葦のペンを押し当てると、くさび形の小さな跡が並んでいった。神殿の外壁沿い、月明かりだけを頼りにした夜の稽古だった。
「これは……水?」
「そう。よくわかったな」
「なんとなく、形が」
言いながら、結は自分の指先が、思ったよりすんなり葦のペンを持てていることに気づいた。不思議な感覚だった。初めてのはずなのに、粘土の湿った感触にも、押し当てる角度にも、どこか馴染みがある気がする。
「筋がいいな、あんた」
「そうかな……手が、勝手に動く感じがするだけかも」
シャルムはそれ以上突っ込まず、次の文字を教えてくれた。
「間違えたら、そこだけ直せばいい。ほら」
書き損じた箇所を、シャルムが濡れた指の腹でそっと撫でる。跡はあっさりと消え、また滑らかな面に戻った。
「粘土板ごと、練り直さなくていいの?」
「そんな暇ないさ。一文字ごとに一からこねてたら、日が暮れちまう」
言われてみればその通りだった。結はほっとしながら、消えたばかりの場所に、もう一度ペンを押し当てる。
「ただし」シャルムが少し声を落とした。「のんびりしすぎるなよ。乾いてくると、こう――粘土が、指に吸いつかなくなる。そうなったらもう、直せない」
「え、それって」
「ここまで書いたことが、そのまま残るってことさ。下手な字も、間違えた字も」
急に、手のひらに汗がにじんだ気がした。月明かりの下、粘土板の表面は、まだ湿って柔らかい。けれど、さっきよりほんの少し、艶が失われてきている気もする。
「ちょ、ちょっと待って。今の、私まだ納得できてない気がする、直したい――」
「落ち着けって。まだ十分柔らかいから」
そう言われても、指先が急いてしまう。一つ書いては消し、消してはまた書く。焦れば焦るほど、ペン先が滑って、余計な跡がついた。それをまた慌てて撫で消す。
「あんた、意外と気が短いんだな」
「だって……せっかく覚えたのに、間に合わなかったら、悔しいから」
シャルムはくすりと笑うと、結の手元をのぞきこんだ。
「大丈夫。今のところ、まだ全部やり直しがきく。――ほら、落ち着いて、もう一回」
言われた通り、深く息を吸ってから、もう一度ペンを持ち直す。今度は、さっきよりゆっくりと、跡が形になっていった。手の甲についた土を払いながら、結は思わず笑ってしまった。
「なんか、楽しい」
「文字ってのは、そういうもんさ。最初はただの跡でも、覚えるたびに、世界が少し広がる」
一つ覚えると、次はもっと難しい文字が待っている。手首が疲れて、粘土板が何度も歪んだ。それでも、灯りの下で黙々と葦のペンを動かす時間は、結にとって不思議と心地よかった。
「今日はここまでにするか。あんまり根を詰めると、明日の仕事に響くだろ」
「ううん、もう少しだけ」
「欲張りだな」
シャルムがくすりと笑った。
***
稽古の合間、シャルムがポツリと問わず語りに言った。
「ニンリルさんはさ、昔、旦那と息子を流行り病で亡くしてるんだ」
「……そうだったの」
「今のあの調子からは、想像つかないだろ。でも、あの人が醸造所を一人で切り盛りしてるのは、そのせいだよ。悲しんでる暇があったら、体を動かしてた方がいいって、よく言ってる」
結の中に、ニンリルの「贅沢言うんじゃないよ」という素っ気ない声が蘇った。あの厳しさの奥にあったものが、少しだけ形になって見えた気がした。
「タシュリさんも、昔は余所から流れてきた人でさ。この街に来たばかりの頃は、ニンリルさんにさんざん世話になったらしい。だから今、あんたに厳しいのも……多分、他人事じゃないからだと思うぜ」
その話に、結は胸を突かれた。厳しい言葉の裏に、それぞれの生きてきた時間があった。今更ながら、そんな当たり前のことに気づかされる。
「みんな、ちゃんと理由があって、今があるんだね」
「大袈裟だな。まあ、そういうことだ」
「あんたはさ、結」シャルムがふと尋ねた。「元々、どんな暮らしをしてたんだ? 遠い国から来た、としか聞いてないけど」
「わからないの。自分のことなのに」
「記憶が、ないのか」
「うん。名前だけしか、覚えてなくて」
シャルムは驚いた顔をしたが、それ以上根掘り葉掘り聞いてはこなかった。
「そりゃ、大変だな。……でも、名前があるだけ、いいと思うぜ。俺の知り合いにはさ、生まれてすぐ親に捨てられて、名前すらもらえなかった奴もいる」
その言葉に、結は少し救われた気がした。何もかもを失ったわけではない。名前という、小さな灯りだけは、確かに自分の中に残っている。
「シャルムは? どうしてそんなに、文字を大事にしてるの」
シャルムは少し照れくさそうに、粘土板の端を指でなぞった。
「俺の親父は、文字が読めなかった。だまされて、安く土地を手放したことがあってさ。子供心に、あれは悔しかったな。だから俺は、文字を覚えるって決めたんだ。もう誰にも、だまされないように」
思いがけず重い話に、結は言葉を選びながら頷いた。
「シャルムが書記になれたら、お父さんも喜ぶね」
「……だといいけどな」
シャルムは照れくさそうに鼻をこすると、また粘土板に向き直った。
「ほら、休憩終わり。次はこの文字だ」
***
結は自分の名を、拙いくさび形で粘土板に刻んでみた。歪むたび、指先で撫でて消し、また刻む。何度目かで、ようやく形になる。
「悪くないじゃないか」
シャルムが覗き込んで言った。
「まだまだだよ。時間かかったし」
「最初なんて、みんなそんなもんさ。ゆっくりでいい。覚えたことは、消えない」
シャルムはそう言うと、自分の刻んだ最初の文字がどれほど下手だったか、身振り手振りで話して聞かせた。あまりに歪んだ形だったので、当時の先生に「これは字か、それとも虫の這った跡か」と本気で聞かれたのだという。結は思わず声を上げて笑った。久しぶりに、腹の底から笑った気がした。
その言葉に、結はふと粘土板を見つめた。自分の刻んだ、たどたどしい印。それでも、確かに自分の手で残した跡だった。
「明日も、教えてくれる?」
「頼まなくても教えるさ。あんたが飽きるまではな」
「飽きないと思う。多分」
「妙な奴だな、本当に」
シャルムは笑いながら、粘土板を片付け始めた。片付けを手伝いながら、結はふと、稽古の合間に聞いた話を思い返す。ニンリルの過去、タシュリの過去、シャルムの父親の話。誰もが、それぞれの理由を抱えて、今日という日を生きていた。自分もいつか、この記憶のなさに理由を見つけられる日が来るのだろうか。そんなことを、ぼんやりと考えた。
働くことと、学ぶこと。ただ流されていた昨日までとは、少し違う一日が積み重なっていく。トキのいない夜は静かだったけれど、結の中には、自分で動いた分だけ、何かがゆっくりと根を張り始めていた。




