第5話 醸造所の一日 (メソポタミア編(5))
第5話 醸造所の一日 (メソポタミア編(5))
日が昇る前から、ニンリルの醸造所はもう動き出している。
「ほら、寝ぼけてる暇なんかないよ」
ニンリルの声に叩き起こされ、結は麦を挽く石臼の前に座らされた。両手で石を押し、麦を潰していく。単純な動きなのに、半刻もすると腕がぱんぱんに張ってくる。指の関節がじんじんと痛み、爪の間に麦の粉が入り込んで白くなった。
「痛い……」
「贅沢言うんじゃないよ。誰だって最初はそうさ。三日もすりゃ、慣れる」
素っ気ない言葉の裏に、案外優しさがあることに、結はもう気づいている。石臼を回す音、遠くで水を汲む音、路地を駆ける子どもの足音。醸造所の朝は、そうした音でできていた。
醸造所には、ニンリルの他にもう一人、タシュリという年上の女がいた。腰の据わった、口の悪い働き者で、結の手つきを見ると容赦なく舌打ちをする。
「そこ、力入れすぎ。麦が潰れすぎたら、いい酒にならないよ」
「あ、ごめんなさい」
「謝る前に、直しな」
タシュリの視線は厳しい。壺を運ぶ手元をふらつかせただけで、大きなため息をつかれた。水を汲みに行けば「遅い」、粘土の栓を作れば「歪んでる」。何をやっても、まず駄目出しから始まる。
昼前、荷馬車を引いた行商人が壺を買いに来た。結が代わりに応対しようとすると、タシュリがすかさず割って入った。
「値切ろうったって無駄だよ。これ以上は負からないね」
「相変わらず手厳しいな、あんたは」
行商人は苦笑いしながらも、結局言い値で壺を買っていった。その手際の良さに、結はただ感心するしかない。
「あんな風に、上手く話せたら」
思わず呟くと、タシュリが横目でちらりと結を見た。
「一朝一夕にできるかい。あたしだって、何年もここに突っ立って覚えたんだ」
「まったく、余所者に頼らなきゃいけないほど、うちも人手不足ってことかね」
その一言が、思ったより深く胸に刺さった。役に立てていない。むしろ足を引っ張っている。そんな思いが、じわりと結の中に広がっていく。
昼になると、大きな鍋で煮た麦粥が振る舞われた。焼きたてのパンをちぎって浸し、薄めたビールで流し込む。単純な食事だったけれど、体を動かした後の一口は、驚くほど体に染みた。パンの香ばしさと、麦粥のとろりとした甘みが、疲れた体にじんわりと広がっていく。
「うまいだろ」
ニンリルがにっと笑う。結もつられて頷いた。けれど、少し離れたところでタシュリが黙々と壺を洗う背中を見ると、その笑みは少ししぼんでしまう。
「あの人、いつもあんな感じなんですか」
「ああ見えて、仕事には誰より丁寧なんだよ。だから、いい加減なのが我慢ならないのさ。あんたも、そのうちわかるよ」
ニンリルの言葉に、結は少しだけタシュリの背中を見る目が変わった気がした。
***
午後、任された発酵の見張りを、結はうっかり怠けてしまった。日陰に座って一息ついているうちに、少し時間が経ちすぎていたらしい。
「なんだいこれ、酸っぱくなってるじゃないか!」
タシュリの声が飛んだ。壺の中身を覗き込んだニンリルも、眉をひそめる。
「……すみません」
謝る声が、情けないくらい小さくなった。
――やっぱり、私には向いてないのかもしれない。
そんな考えが、頭の隅にちらつく。うまくやれない自分から、そっと目を逸らしたくなる。前にも、こんな風に考えたことがあった気がする。
「でもまあ」
ニンリルが壺を覗きながら、ぽつりと言った。
「これくらいなら、料理に使えなくもないよ。無駄にはならない」
タシュリが呆れたように肩をすくめたが、それ以上は何も言わなかった。結は、失敗を帳消しにされたわけではないとわかっていた。それでも、その一言に、少しだけ息がしやすくなる。
気を取り直し、結は言われた通り酸っぱくなった麦汁を鍋に移し、別の壺の見張りに戻った。今度は日陰に座り込まず、壺のそばに立ったまま、時折表面を覗き込んで様子を見る。何度も同じ動きを繰り返すうち、微かな泡の立ち方の違いに気づけるようになってきた。
「お、今度はちゃんとできてるじゃないか」
タシュリが壺を覗き込んで、意外そうに言った。それだけの一言だったけれど、結の胸に、小さな灯りが灯った気がした。
夕方、水がめを抱えて戻る道すがら、シャルムに会った。
「疲れた顔してるな」
「うん……今日は、失敗ばかりで」
「そんなもんだろ、最初は。俺だって、エドゥバに入りたての頃は、粘土板より先生に叩かれた回数の方が多かったよ」
軽い調子で言われて、結は思わず笑ってしまった。情けなさが、少しだけ軽くなる。
「なあ、よかったら、今夜あたり少し文字、教えてやろうか。手を動かしてると、案外気が紛れるもんだ」
「……いいの?」
「いいも何も、あんたが手伝ってくれた借りがまだあるからな」
「じゃあ、遠慮なく」
「おう。とはいえ、俺もまだだけどな」
そう言って笑うシャルムの顔には、疲れの中にも確かな充実が見えた。二人でしばらく市場の裏道を歩きながら、今日あったことをぽつぽつと話す。タシュリに叱られたこと、麦汁の泡の見分け方が少しわかったこと。話しているうちに、結の中の情けなさが、少しずつ形を変えていった。
シャルムの後ろ姿を見送りながら、結は水がめを抱え直した。腕は重い。タシュリの視線もまだ胸に残っている。それでも、今日一日、逃げずに醸造所に立っていた自分が、少しだけ誇らしくもあった。
トキのいない夜は、思ったより静かだった。




