第4話 印章のゆくえ (メソポタミア編(4))
朝の光が水路に跳ねて、ウルの街を眩しく染めていた。四千年前のこの街で迎える、四日目の朝。結は神殿裏の広場に立ち、まだ見つからない円筒印章のことを考えていた。
「結、ちょっといい?」
隣に立つトキの声が、いつもよりわずかに真面目だった。
「改まって、どうしたの」
「そろそろ、路銀が尽きるんだよね」
「え」
「大麦も銀も、無限にあるわけじゃないからさ。ここから先は、自分の食い扶持は自分でどうにかしてもらうよ」
あっさりと言われて、結は面食らった。今まで、食べ物も寝床も、いつの間にかトキが用意してくれていた。それが当たり前になりかけていたことに、言われて初めて気づく。
「私が……働くってこと?」
「そう。ちょうどいい話があってね」
トキが顎で示した先には、市場の外れの酒場——結たちが最初の晩に泊めてもらった、あの場所があった。
***
「あんたが、トキの連れかい」
酒場の女将は、太い腕を組んで結を上から下まで眺め回した。歳の頃は四十がらみ、日に焼けた肌と、よく通る低い声。名はニンリルというらしい。
「手伝いが欲しいのは本当だよ。ここんとこ、祭りの後片付けで猫の手も借りたいくらいでね。……で、あんた、ビールの仕込み、やったことあるのかい」
「ない、です」
正直に答えると、ニンリルは呆れたように笑った。
「まあいいさ。麦を潰して、水と混ぜて、壺に仕込んで待つだけだ。誰だって最初はできない。やりながら覚えりゃいい」
ちょっときついその物言いに、結はなぜかほっとした。できないことを責められなかったことで、ずっと気が楽になった。
しかし、仕事の方は全く楽では無かった。
麦を挽く手はすぐに痛くなったし、壺を運べば水がこぼれた。ニンリルに何度も舌打ちされながらも、結は一日中、体を動かし続けた。
「そういや」水を汲みながら、ニンリルがふと言った。「あんたの連れ、また女どもに囲まれてるよ」
見れば、広場の隅で、香油を商う女たちがトキを取り囲んでいた。トキは慣れた様子で軽くいなしながら、何やら世間話に応じている。
「懲りないね、あの人も」
「懲りるも何も、本人はそれで情報を集めてるつもりみたいだけど」
結が半眼で見ていると、やがてトキがこちらへ戻ってきた。
「収穫あったよ」
「モテてただけじゃないの」
「両方できるのが、俺の強みでね」
しれっと言うトキに、結は言葉を失う。
「祭りの夜、水路の近くで飾り石を拾った子がいるらしい。真っ暗な中でこっそり拾って、誰にも言わずに持ち帰ったんだって」
「それ……!」
「シャルムの印章かどうかは、わからないけどね」
***
その日から、仕事の合間を縫って、結とシャルムは印章を探し歩いた。
市場では、香草や干し魚の匂いに混じって、盗みを裁く声が響いていた。荷を盗んだ男が役人の前に引き出され、鞭打ちではなく、盗んだ物の何倍もの大麦を弁償させられている。
「厳しいんだね、この国は」
「ウル・ナンムの掟だよ」通りがかりの老人が、聞かれてもいないのに得意げに教えてくれた。「盗んだら、まずは償う。それがこの国の決まりさ。手足を斬り落としたりはしない。よその国じゃ違うらしいがね」
結はその話に、少しだけ驚いた。四千年前と聞くと、もっと荒々しい罰ばかりを想像していた自分に気づく。
エドゥバでは、シャルムの後輩らしき少年たちが、印章の話を聞きつけて手分けして探してくれた。波止場では、荷を降ろす男たちに片っ端から声をかけて回った。誰も彼も、忙しい手を止めて話を聞いてくれる。結はその一つひとつに、頭を下げた。
「見つからないな……」
夕暮れ、波止場の縁に座り込んだシャルムが、ぽつりとこぼした。
「大丈夫。まだ諦めるには早いよ」
「あんたは、いつもそう言うな」
「言われて、嫌だった?」
「いや」シャルムは小さく笑った。「悪くない」
その時、ふと結の中に、不安がよぎった。
「ねえ、トキ。私、この時代で何かしちゃったら……歴史が変わっちゃったりしないのかな。私が余計なことをしたせいで、本当は起こらなかったはずのことが、起こったりとか」
トキは水路の方を見つめたまま、少し間を置いて答えた。
「書き換えてるんじゃないよ。最初から、そうだったんだ」
「……どういう、意味?」
「結がここで何をしようと、それはもう、最初からそこにあったものになる。というのが一つ。
もう一つ、それでも歴史が大きく変わりそうになったら、必ず俺が修正していくから」
トキの声の静けさに、結は不思議と安心した。
「結は難しいこと考えなくていいよ。目の前のことを、ちゃんとやればいい。それだけだよ」
トキはそう言うと、いつもの調子でひょいと立ち上がった。
「――さ、飾り石を拾った子、捜そうか」
***
その子どもは、水路沿いの小さな家に住んでいた。ニンリルの遠い親戚だという、まだ十歳にもならない女の子だった。
「これ……お姉ちゃんの?」
差し出された小さな手のひらに、見覚えのある円筒形の石があった。シャルムが飛びつくようにそれを受け取る。
「これだ! 間違いない、俺の印章だ!」
女の子はしゅんとうつむいた。
「怒られると思って、黙ってた。ごめんなさい」
「怒らないよ」結はしゃがみこんで、女の子と目線を合わせた。「見つけて、大事に持っててくれたんだね。それだけで、十分だよ」
女の子がほっとしたように顔を上げた瞬間、結の胸に、ふっと小さな暖かい光のようなものが差し込んだ。
トキも優しく結の表情を見守っていた。
シャルムは印章を胸に抱きしめ、女の子を怒るようなことはしなかった。
別れ際にはお礼を言って手を振っていた。
帰り道、シャルムが改まった様子で言ってきた。
「結ありがとうな。……本当に、助かった」
「私は結局、何も出来なかったよ。トキとか、シャルムの後輩とか、手伝ってくれた街の人たちのおかげだよ」
「・・確かに、色んな人に助けてもらったけど。結が最初に、一緒に探そうって言ってくれたから心強かった」
その日の夜、結は久しぶりに、自分から動いて何かを成し遂げた実感を噛みしめていた。ニンリルの醸造所に戻る道すがら、トキが独り言のようにつぶやくのが聞こえた。
「最初から、自信があるわけじゃない。乗り越えたから、自信になる……ってね」
「それ、誰の言葉?」
「俺の信念の一つだよ」
トキはさらりと言った。
「結。俺、少し街の外を見てくる」
「え?」
「なに、大した用事じゃないよ。二、三日で戻る」
あまりに軽い調子だったので、結は一瞬、聞き間違いかと思った。けれど、確かにトキはそう言った。到着してから初めて、結のそばを離れると。
「……私一人で、大丈夫かな」
「大丈夫。ニンリルもシャルムもいる。それに」
トキは結を振り返って、少しだけ笑った。
「結はもう、この街なら、俺がいなくても、ちゃんとやっていけるでしょ」
その言葉を残して、トキは夜の街の向こうへ歩き去っていった。
一人残された結は、手の中に残った印章の感触を思い出しながら、しばらくその背中を見送っていた。四千年前の月が、静かにウルの街を照らしていた。




