表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『記憶を失くした私は、神様?と時を渡る 』  作者: 巡里 ひより


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/36

第3話:イナンナへの(メソポタミア その3)

7月20日 加筆修正しました

朝から、街の空気が違った。


いつもの市場のざわめきに、太鼓と笛の音が重なっている。日干し煉瓦の壁という壁に、椰子の葉と麦の穂を編んだ飾りが吊るされ、道という道に、香油と花の匂いが漂っていた。


「今日は特別な日、ってわけね」


結がつぶやくと、隣を歩くトキがうなずいた。


「聖婚の儀式。この国の一年の中で、一番大事な日だよ」


広場には、いつもの何倍もの人が集まっていた。子どもたちは大人の足の間を縫って走り回り、露店では蜂蜜を塗った菓子や、香草を効かせた干し魚が飛ぶように売れている。誰もが着飾っていて、普段は着飾らない女たちまでもが、貝殻や色石を連ねた首飾りを揺らしていた。


「今日ばかりは、みんな仕事を休むんだよ」トキが言った。「王様がイナンナ様の巫女と結ばれることで、大地が実り、川が氾濫せず、国が安泰になる――そう信じられてる。だから街中が、お祭り騒ぎになる」


「豊作を、祈ってお祝いごとするみたいな」


「そう。人間って、昔からそうやって、願いを形にしてきたんだよ」



神殿へと続く大通りには、すでに人だかりができていた。結たちが人波をかき分けて進むと、見覚えのある背中を見つけた。


「シャルム!」


呼びかけると、粘土板の束を大事そうに抱えたシャルムが振り向いた。その顔は、いつもの人懐っこい笑みの奥に、隠しきれない緊張を滲ませている。


「結、トキ。ちょうどよかった、聞いてくれよ」


「どうしたの、そんな顔して」


「今日の儀式の――記録係に、俺が選ばれたんだ」


シャルムは声を弾ませながらも、まだ半分信じられないという様子で続けた。


「神殿の書記長様が、急な病でお倒れになって。代わりに俺が、聖婚の歌を清書する大役を任されることになった」


「それって、すごいことなんじゃ」


「すごいなんてもんじゃないさ。エドゥバに入ってまだ数年の見習いが、王様とイナンナ様の儀式を記録するなんて、本来ならあり得ないことなんだ。粘土板の家の仲間たちにも、先生にも、驚かれたよ」


シャルムの声は誇らしさで震えていた。結はその横で、自分のことのように胸が熱くなるのを感じる。同時に、ふと小さな考えがよぎった。


――たまたま書記長様が倒れたから、回ってきただけの役目でしょ。運がよかっただけ。


そう思いかけて、はっとした。シャルムが毎晩粘土板と向き合い、手の甲を叩かれながら文字を練習してきたことを、自分はもう知っている。運だけで務まる役目でないことくらい、わかっているはずなのに。


「シャルムがずっと頑張ってきたから、任されたんだよ、きっと」


自分に言い聞かせるように、結はそう言い直した。


「……そうだといいけどな」


シャルムは照れ隠しのように鼻の頭をこすると、粘土板をぎゅっと抱え直した。


「これから神殿の中庭で、詩人たちが歌を捧げる。俺はそれを、一言一句違えず、粘土板に写し取らなきゃいけない。……緊張で、手が震えそうだ」


「大丈夫。シャルムなら、できるよ」


結の言葉に、シャルムは一瞬きょとんとした顔をしたあと、ふっと表情を緩めた。


「結にそう言われると、なぜだか本当にできる気がしてくるな。不思議な奴だよ、結は」


そう言うと、シャルムは足早に神殿の方へと向かっていった。その背中を見送りながら、トキが小さく笑う。


「結は、人を勇気づけるのが得意だね」


「そう、かな。私自身は、いつも誰かに勇気づけてもらう側な気がするけど」


「それも、悪いことじゃないよ。ただ」


トキは言葉を切って、結の顔をちらりと見た。


「今日はもう、見届ける側でいられそうだね」


妙に実感のこもった言い方に、結は問い返そうとしたが、人波に押されてそれどころではなくなった。


***


神殿の中庭には、すでに大勢の人が詰めかけていた。日干し煉瓦の階段状の壇――ジッグラトの麓に、香を焚く台と、花で飾られた祭壇が据えられている。


太鼓の音がやみ、笛の音だけが細く長く響く中、白い亜麻布をまとった巫女が現れた。頭には月を象った銀の飾りをつけ、腕には貝と瑠璃色の石を連ねた腕輪。その佇まいは、人でありながら、どこか人でないもののようにも見えた。


「あれが、イナンナ様の化身とされる巫女様」


トキが囁く。結はただ、その神々しさに息を呑んだ。


やがて、詩人たちが進み出て、朗々と声を上げ始めた。

すると急に詩人たちの歌う詩の意味がわからなくなってしまった。突然のことに驚いてなす術もなく青ざめていると、トキがそっと耳元で訳を添えてくれた。


「――花婿よ、私の心の愛する人よ」


「あなたの美しさは蜜のように甘い」


「ライオンよ、私の心の愛する人よ」


「あなたの美しさは蜜のように甘い」


詩人の声は、祈りというより、まるで一人の女が一人の男に、まっすぐ想いを伝えているようだった。

国の安泰を願う儀式のはずなのに、そこにあるのは、驚くほど個人的な、生々しいまでの恋の言葉だった。



そ れ を、トキの、人間離れした美しい顔がすぐ側で、心を蕩かすようなうっとりする声で囁いてくる


「あなたは私を魅了した。震えながら、あなたの前に立たせて」


「花婿よ、私を寝室へ連れて行っておくれ」



やめてぇ〜〜〜〜!!!!!



「結?顔が真っ赤だよ」


トキの顔が笑っている。イタズラが成功した子供のような、笑い出したいのを抑えた顔。


「まさか、今わざと言葉が分からないようにした?」


「なんの事かな?」


トキは表情ひとつ変えずに、とぼけて見せる。


「おかしいと思ったのよ。突然、言葉が分からなくなったから」


「ひどいな。結のために心を込めて訳してあげたのに」


「えーー!?そんなこと言っちゃうの?絶対私をからかって遊んでたでしょう!?」


結が怒ると、堪えきれないと言った様子でトキが笑い出した。


「いやー楽しかったね」


「トキだけがね。私は楽しくなかった」


全く悪びれずにいうトキに、しっかり釘を刺しておく。もちろん、トキは何も気にする様子はなくシャルムの方に視線を送った。


「それより、ほら、シャルムの仕事ぶりをしっかり見よう」


「すぐ、そうやって話題を帰る」


トキはお構いなしに、中庭の隅を指さした。


そこには、震える手で葦のペンを握りしめ、粘土板に一心不乱に文字を刻みつけるシャルムの姿があった。詩人の声を一言も聞き漏らすまいと、額に汗を浮かべながら、真剣な顔で楔形の文字を刻んでいく。


その横顔は、もう緊張に呑まれてはいなかった。ただ、目の前の言葉を、後の世に残すという役目に、全身で応えようとしている顔だった。


結はしばらくその横顔に見入っていた。シャルムの真剣な姿を見ていると、不思議と落ち着いてくる。


儀式は夕暮れまで続いた。詩人たちの歌が終わる頃には、空は茜色に染まり、ジッグラトの影が中庭いっぱいに伸びていた。集まった人々は口々に、豊作と国の安泰を祈る言葉をつぶやいている。


「終わった、な……」


粘土板を抱えたシャルムが、へなへなと座り込みそうになりながら結たちのもとへ戻ってきた。その顔には、達成感と疲労が入り混じっていた。


「お疲れさま。立派だったよ」


「見てくれてたのか。……なんだか、照れるな」


シャルムは頬をかきながら笑った。その笑顔には、先ほどまでの緊張はもうない。


「今夜、書記長様への報告と、写しの奉納があるんだ。俺、このまま神殿に泊まり込みで清書を仕上げないといけなくて」


「大変ね」


「いや、名誉なことさ。……こんな役目、二度と回ってこないかもしれないしな」


シャルムはそう言うと、粘土板を大事そうに抱え直し、懐に手をやった。そして、動きが止まった。


「……あれ?」


「シャルム?」


「印章が……ない」


シャルムの声が、みるみる強張っていく。彼は着物の裾を叩き、腰帯の周りを何度も探った。


「さっきまで、確かにあったんだ。儀式の前、緊張して、何度も触って確かめてたのに……」


「落ち着いて。どこかに置き忘れただけかも」


結がそう言っても、シャルムの顔は真っ青だった。


「あれは……あの人からもらった、たった一つの品なんだ。名前の代わりになる、俺そのものみたいな印章なんだ。それを……」


シャルムの声が掠れる。人混みの向こうで、宴の始まりを告げる太鼓の音が、場違いなほど陽気に響いていた。


結は思わず、シャルムの震える手を見つめた。あの、見覚えのある気がした模様。あの印章が、今、この四千年前の街のどこかで、行方知れずになっている。


一瞬、結の中に、いつもの考えがよぎった。


――大勢の人がいたんだもの、探すの大変そう。神殿の人たちに任せた方が、早く見つかるんじゃない。


けれど、その考えが形になりきる前に、結はそれを自分で押しのけた。シャルムが本当に困っている。それだけで、もう十分だった。


「探そう」


結は迷わず言った。


「絶対、見つかるよ。一緒に探すから」


シャルムは驚いたように結を見た後、泣き出しそうな、それでいて少し安堵したような顔で頷いた。


祭りの喧騒がまだ続く中、夜の帳が静かにウルの街を包み始めていた。


その様子を少し離れたところから見つめるトキの目に、何かを見定めるような光が宿っていたことに――結はまだ、気づいていなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ