第3話:イナンナへの(メソポタミア その3)
7月20日 加筆修正しました
朝から、街の空気が違った。
いつもの市場のざわめきに、太鼓と笛の音が重なっている。日干し煉瓦の壁という壁に、椰子の葉と麦の穂を編んだ飾りが吊るされ、道という道に、香油と花の匂いが漂っていた。
「今日は特別な日、ってわけね」
結がつぶやくと、隣を歩くトキがうなずいた。
「聖婚の儀式。この国の一年の中で、一番大事な日だよ」
広場には、いつもの何倍もの人が集まっていた。子どもたちは大人の足の間を縫って走り回り、露店では蜂蜜を塗った菓子や、香草を効かせた干し魚が飛ぶように売れている。誰もが着飾っていて、普段は着飾らない女たちまでもが、貝殻や色石を連ねた首飾りを揺らしていた。
「今日ばかりは、みんな仕事を休むんだよ」トキが言った。「王様がイナンナ様の巫女と結ばれることで、大地が実り、川が氾濫せず、国が安泰になる――そう信じられてる。だから街中が、お祭り騒ぎになる」
「豊作を、祈ってお祝いごとするみたいな」
「そう。人間って、昔からそうやって、願いを形にしてきたんだよ」
神殿へと続く大通りには、すでに人だかりができていた。結たちが人波をかき分けて進むと、見覚えのある背中を見つけた。
「シャルム!」
呼びかけると、粘土板の束を大事そうに抱えたシャルムが振り向いた。その顔は、いつもの人懐っこい笑みの奥に、隠しきれない緊張を滲ませている。
「結、トキ。ちょうどよかった、聞いてくれよ」
「どうしたの、そんな顔して」
「今日の儀式の――記録係に、俺が選ばれたんだ」
シャルムは声を弾ませながらも、まだ半分信じられないという様子で続けた。
「神殿の書記長様が、急な病でお倒れになって。代わりに俺が、聖婚の歌を清書する大役を任されることになった」
「それって、すごいことなんじゃ」
「すごいなんてもんじゃないさ。エドゥバに入ってまだ数年の見習いが、王様とイナンナ様の儀式を記録するなんて、本来ならあり得ないことなんだ。粘土板の家の仲間たちにも、先生にも、驚かれたよ」
シャルムの声は誇らしさで震えていた。結はその横で、自分のことのように胸が熱くなるのを感じる。同時に、ふと小さな考えがよぎった。
――たまたま書記長様が倒れたから、回ってきただけの役目でしょ。運がよかっただけ。
そう思いかけて、はっとした。シャルムが毎晩粘土板と向き合い、手の甲を叩かれながら文字を練習してきたことを、自分はもう知っている。運だけで務まる役目でないことくらい、わかっているはずなのに。
「シャルムがずっと頑張ってきたから、任されたんだよ、きっと」
自分に言い聞かせるように、結はそう言い直した。
「……そうだといいけどな」
シャルムは照れ隠しのように鼻の頭をこすると、粘土板をぎゅっと抱え直した。
「これから神殿の中庭で、詩人たちが歌を捧げる。俺はそれを、一言一句違えず、粘土板に写し取らなきゃいけない。……緊張で、手が震えそうだ」
「大丈夫。シャルムなら、できるよ」
結の言葉に、シャルムは一瞬きょとんとした顔をしたあと、ふっと表情を緩めた。
「結にそう言われると、なぜだか本当にできる気がしてくるな。不思議な奴だよ、結は」
そう言うと、シャルムは足早に神殿の方へと向かっていった。その背中を見送りながら、トキが小さく笑う。
「結は、人を勇気づけるのが得意だね」
「そう、かな。私自身は、いつも誰かに勇気づけてもらう側な気がするけど」
「それも、悪いことじゃないよ。ただ」
トキは言葉を切って、結の顔をちらりと見た。
「今日はもう、見届ける側でいられそうだね」
妙に実感のこもった言い方に、結は問い返そうとしたが、人波に押されてそれどころではなくなった。
***
神殿の中庭には、すでに大勢の人が詰めかけていた。日干し煉瓦の階段状の壇――ジッグラトの麓に、香を焚く台と、花で飾られた祭壇が据えられている。
太鼓の音がやみ、笛の音だけが細く長く響く中、白い亜麻布をまとった巫女が現れた。頭には月を象った銀の飾りをつけ、腕には貝と瑠璃色の石を連ねた腕輪。その佇まいは、人でありながら、どこか人でないもののようにも見えた。
「あれが、イナンナ様の化身とされる巫女様」
トキが囁く。結はただ、その神々しさに息を呑んだ。
やがて、詩人たちが進み出て、朗々と声を上げ始めた。
すると急に詩人たちの歌う詩の意味がわからなくなってしまった。突然のことに驚いてなす術もなく青ざめていると、トキがそっと耳元で訳を添えてくれた。
「――花婿よ、私の心の愛する人よ」
「あなたの美しさは蜜のように甘い」
「ライオンよ、私の心の愛する人よ」
「あなたの美しさは蜜のように甘い」
詩人の声は、祈りというより、まるで一人の女が一人の男に、まっすぐ想いを伝えているようだった。
国の安泰を願う儀式のはずなのに、そこにあるのは、驚くほど個人的な、生々しいまでの恋の言葉だった。
そ れ を、トキの、人間離れした美しい顔がすぐ側で、心を蕩かすようなうっとりする声で囁いてくる
「あなたは私を魅了した。震えながら、あなたの前に立たせて」
「花婿よ、私を寝室へ連れて行っておくれ」
やめてぇ〜〜〜〜!!!!!
「結?顔が真っ赤だよ」
トキの顔が笑っている。イタズラが成功した子供のような、笑い出したいのを抑えた顔。
「まさか、今わざと言葉が分からないようにした?」
「なんの事かな?」
トキは表情ひとつ変えずに、とぼけて見せる。
「おかしいと思ったのよ。突然、言葉が分からなくなったから」
「ひどいな。結のために心を込めて訳してあげたのに」
「えーー!?そんなこと言っちゃうの?絶対私をからかって遊んでたでしょう!?」
結が怒ると、堪えきれないと言った様子でトキが笑い出した。
「いやー楽しかったね」
「トキだけがね。私は楽しくなかった」
全く悪びれずにいうトキに、しっかり釘を刺しておく。もちろん、トキは何も気にする様子はなくシャルムの方に視線を送った。
「それより、ほら、シャルムの仕事ぶりをしっかり見よう」
「すぐ、そうやって話題を帰る」
トキはお構いなしに、中庭の隅を指さした。
そこには、震える手で葦のペンを握りしめ、粘土板に一心不乱に文字を刻みつけるシャルムの姿があった。詩人の声を一言も聞き漏らすまいと、額に汗を浮かべながら、真剣な顔で楔形の文字を刻んでいく。
その横顔は、もう緊張に呑まれてはいなかった。ただ、目の前の言葉を、後の世に残すという役目に、全身で応えようとしている顔だった。
結はしばらくその横顔に見入っていた。シャルムの真剣な姿を見ていると、不思議と落ち着いてくる。
儀式は夕暮れまで続いた。詩人たちの歌が終わる頃には、空は茜色に染まり、ジッグラトの影が中庭いっぱいに伸びていた。集まった人々は口々に、豊作と国の安泰を祈る言葉をつぶやいている。
「終わった、な……」
粘土板を抱えたシャルムが、へなへなと座り込みそうになりながら結たちのもとへ戻ってきた。その顔には、達成感と疲労が入り混じっていた。
「お疲れさま。立派だったよ」
「見てくれてたのか。……なんだか、照れるな」
シャルムは頬をかきながら笑った。その笑顔には、先ほどまでの緊張はもうない。
「今夜、書記長様への報告と、写しの奉納があるんだ。俺、このまま神殿に泊まり込みで清書を仕上げないといけなくて」
「大変ね」
「いや、名誉なことさ。……こんな役目、二度と回ってこないかもしれないしな」
シャルムはそう言うと、粘土板を大事そうに抱え直し、懐に手をやった。そして、動きが止まった。
「……あれ?」
「シャルム?」
「印章が……ない」
シャルムの声が、みるみる強張っていく。彼は着物の裾を叩き、腰帯の周りを何度も探った。
「さっきまで、確かにあったんだ。儀式の前、緊張して、何度も触って確かめてたのに……」
「落ち着いて。どこかに置き忘れただけかも」
結がそう言っても、シャルムの顔は真っ青だった。
「あれは……あの人からもらった、たった一つの品なんだ。名前の代わりになる、俺そのものみたいな印章なんだ。それを……」
シャルムの声が掠れる。人混みの向こうで、宴の始まりを告げる太鼓の音が、場違いなほど陽気に響いていた。
結は思わず、シャルムの震える手を見つめた。あの、見覚えのある気がした模様。あの印章が、今、この四千年前の街のどこかで、行方知れずになっている。
一瞬、結の中に、いつもの考えがよぎった。
――大勢の人がいたんだもの、探すの大変そう。神殿の人たちに任せた方が、早く見つかるんじゃない。
けれど、その考えが形になりきる前に、結はそれを自分で押しのけた。シャルムが本当に困っている。それだけで、もう十分だった。
「探そう」
結は迷わず言った。
「絶対、見つかるよ。一緒に探すから」
シャルムは驚いたように結を見た後、泣き出しそうな、それでいて少し安堵したような顔で頷いた。
祭りの喧騒がまだ続く中、夜の帳が静かにウルの街を包み始めていた。
その様子を少し離れたところから見つめるトキの目に、何かを見定めるような光が宿っていたことに――結はまだ、気づいていなかった。




