第2話:粘土板に残る言葉(メソポタミア その2)
7月21日 加筆修正をしました
「さっきの印章の模様、本当に初めて見たと思う?」
トキの言葉が、耳の奥にまだ残っている。結は月明かりに照らされた煉瓦の壁を見上げながら、うまく言葉にできない胸のざわめきを持て余していた。
「ねえ、はぐらかさないで。ちゃんと答えて」
「何でもかんでも答えを、教えたらいいってもんじゃないからね・・」
トキはそう言うと、結の返事を待たずに歩き出した。
「お腹すいたでしょ。この時代の夜の楽しみ、教えてあげる」
「話をそらした」
「そらしてないよ、本当の事しか言ってない。食事にしようーー人間、お腹が空いてると、イライラするからね」
軽い調子で言われると、なぜだか毒気を抜かれてしまう。結は仕方なくトキの後を追った。
***
案内されたのは、市場の外れにある一角だった。日干し煉瓦の低い塀に囲まれた中庭で、大きな素焼きの壺がいくつも並んでいる。壺の口からは長い葦の管が何本も突き出ていて、人々がそれに直接口をつけて何かを飲んでいた。
「あれは……?」
「ビールだよ。この時代の主食みたいなものだね」
トキが壺の一つに近づき、慣れた様子で葦の管を差し込む。
「濾過してないから、麦の殻とか浮いてるんだ。だから管で吸うの。水はお腹を壊すことがあるけど、ビールは発酵の力で安全だから、子どもだって飲むんだよ」
「子どもも?」
「薄めのやつね。ここらへんの人たちにとって、ビールは嗜好品っていうより、生きるための栄養源に近い」
差し出された壺に、結もおそるおそる口をつけてみる。酸味と穀物の香りが混じった、思っていたより素朴な味だった。
「……おいしい、かも」
「でしょ」
トキが珍しく、子どもみたいに笑った。その顔を見て、結はふっと気が緩む。
中庭には、仕事終わりらしい男たちが車座になって、大きな声で笑い合っていた。誰かが即興らしい歌を歌い出すと、周りが手拍子で囃し立てる。言葉はわからなくても、酔って上機嫌な人間の様子は、いつの時代も同じらしい。
「賑やかだね」
「ここの人たちは、法律もちゃんとしてるんだよ」トキが壺に寄りかかりながら言った。「王様が定めた掟があってね。人を傷つけたら弁償させるとか、奴隷にもある程度の権利を認めるとか。乱暴なだけの時代じゃない」
「意外」
「みんな、物語で読むような『野蛮な古代人』を想像するけど、実際はちゃんと悩んで、ちゃんと考えて、暮らしを回してたんだよ。四千年経っても、人がやることってそんなに変わらない」
その口ぶりが、あまりに実感がこもっていたので、結は思わずトキの横顔を見た。
「トキって、本当は何者なの」
「最初に言った通り、神様みたいなものだよ。神様ではないけどね」
「またそれ」
「じゃあ質問を変えるよ。結は、自分が何者だと思う?」
不意打ちのような問いに、結は言葉に詰まった。
「……わからない。名前しかないもの」
「でも、さっきの印章を見たとき、確かに何かを感じたでしょ。記憶がなくても、心が覚えてることってあるんだよ」
トキの声が、ふっと柔らかくなった。
「焦らなくていい。ゆっくり思い出せばいいよ。――一緒に、探してあげるから」
その「一緒に」という言葉が、思いのほか結の胸に染み込んだ。久しく忘れていた温かい感覚が少し戻ってきたような・・。
***
翌朝、結たちは再びシャルムに出会った。神殿の外壁沿いの日陰に座り込んで、粘土板と向き合っている。
「おはよう。また会えたね」
シャルムは顔を上げると、少し疲れた笑みを浮かべた。指先には乾いた粘土がこびりつき、目の下にはうっすらと隈ができている。
「徹夜?」
「ああ。明日の聖婚の儀式までに、この歌を清書し終えないといけなくてさ」
粘土板には、細かい楔形の文字がびっしりと刻まれていた。結は覗き込んで尋ねる。
「聖婚の歌って、どんな内容なの」
「王様が、女神イナンナ様の化身である巫女様に捧げる言葉だよ。今の王様――シュ・シン様のために、詩人たちが作った歌なんだ」
シャルムは少し照れくさそうに、一節を口にしてくれた。
「花婿よ、私の心の愛する人よ。あなたの美しさは蜜のように甘い……そんな歌なんだよ」
「ラブレターみたい」
「そうとも言えるね」トキが小さく笑った。「実際、後の時代の学者たちは、この手の詩を『世界最古のラブレターの一つ』って呼んだりするんだ。粘土板に刻まれた恋の言葉が、何千年も土の中で眠って、また誰かに見つけられる」
「何千年も……」
結は粘土板の表面をそっと指でなぞった。文字の意味はわからない。でも、そこに込められた「誰かを想う気持ち」だけは、不思議と伝わってくる気がした。
「言葉って、面白いよな」
シャルムが照れ隠しのように続けた。
「俺、書記の学校――エドゥバっていうんだけど、そこで毎日、先生に叱られながら文字を練習してるんだ。手がかじかむくらい粘土板を書いて、間違えたら手の甲を叩かれて。それでも、いつか自分の言葉が誰かに届くって思うと、悪くないなって思える」
「エドゥバ……」
「粘土板の家、って意味さ。俺たちは『粘土板の息子』って呼ばれてる」
シャルムは誇らしげに、少し照れながら言った。その拍子に、清書していた粘土板の端が、乾ききっていない土台からずれて、べしゃりと崩れた。
「あ――」
シャルムの顔から、みるみる血の気が引いた。半日かけて刻んだはずの文字の列が、崩れた粘土の中に半分埋もれている。
「噓だろ……全部、やり直しか」
呆然とつぶやくシャルムを見て、結の中に、ふっと小さな考えがよぎった。
――もしかして、話しかけた私のせい?。でも、この人も会話に応じたわけだし。
そう思った瞬間、続けて、もっと嫌な形の考えが浮かんだ。
――でも、自分がどうにかできることでもない。書記の仕事なんて、私には手伝えない。誰か、書記長とか、他の見習いとかが助けてくれるんじゃないの。
そう思って、結は一歩、半分だけ後ろに引いていた自分の体に気づく。手を出さない理由を、勝手に並べていた。
けれど、シャルムが泥だらけの手で、崩れた粘土板を惜しむように拾い集める姿を見ていると、そんな考えは急に居心地が悪くなった。
そして、昨日こぼれた大麦を拾えずに立ち尽くしていた自分を思い出した。
あの時の小さな後悔。誰かがやるだろうと思って動けなかった。
でも、自分以外の人達は当たり前のように手伝ってあげていた。もしかしたら手伝ってあげているという感覚すらもなかったかもしれない。
「シャルム、新しい粘土、まだある?」
「え? あ、ああ……あそこの水甕の横に」
「持ってきて。手伝う」
「あんたが? いや、これは書記の仕事で……」
「文字は書けない。でも、粘土をこねるとかは、教えてもらえれればできる・・・と思う」
言いながら、結は自分でも驚いていた。できるかもわからないのに、口が先に動いていた。シャルムは目を丸くした後、疲れた顔のまま、少しだけ笑った。
「変な奴だな、あんた。……頼む」
言ってから、ふと思った。今までなら、自分から手伝うなんて言わなかったと思う。まして、粘土版の粘土をこねるなんて、(おそらく)やった事のないことなど。
――それぞれの時代で、人の営みをちゃんと見届けてほしいんだ。誰かが泣いてたら、隣にいてあげて。誰かが困ってたら、手を貸してあげて。 心が動いた瞬間を逃さずに一歩を踏み出せばいい。 そういうお節介、あなたは得意そうだからーー
時と時の狭間でトキが言っていた言葉が、今更になって胸の奥で小さく響いた気がした。
二人で新しい粘土板を作り、平らにならしていく。トキは少し離れたところで、腕を組んでその様子を眺めていた。何も言わなかったけれど、結にはその視線が、いつもよりわずかに温かい気がした。
「なあ、あんたたちは、どこから来たんだ? 見たことのない格好してるし、話し方も、ちょっと変わってる」
粘土をならしながら、シャルムがふと尋ねた。結は一瞬言葉を詰まらせたが、トキがすかさず助け舟を出す。
「遠い国から来たんだよ。俺たちのことは気にしないで」
「そうか。まあ、遠い国から来た人間が、俺の印章を見て変な顔するのも、道理があるってことか」
シャルムは軽い調子でそう言うと、懐から円筒形の印章に触れた。結の胸の奥で、また昨日と同じ、小さな棘のような疼きが疼いた。
「シャルム。その印章、誰かにもらったもの?」
「ん? ああ、これは……」
シャルムは少し表情を曇らせた。粘土をならす手が、束の間止まる。
「昔、俺に文字を教えてくれた人からもらったんだ。もう、この街にはいない人だけど」
「いない、って……」
「別の都市へ発った。旅の学者で、この街には一時ここに滞在していただけだったらしい。エドゥバに来る前の俺に、最初の文字を教えてくれたのが、その人だった」
シャルムは印章を、手のひらでそっと包み込んだ。
「不思議な人だったよ。俺よりずっと年上に見えたけど、どこかふらふらしてて、今にもいなくなりそうな……そんな感じがしてた。案の定、ある日突然、旅立って行った。この印章だけを、餞別だって俺に押しつけて」
シャルムは何でもないことのように言ったが、その声にはかすかな寂しさが滲んでいた。結の胸が、また小さく痛む。誰かを想う気持ちも、失う痛みも、四千年前も今も変わらないのだと、改めて思い知らされる。
「――もし、その人にもう一度会えたら、何て言いたい?」
思わず尋ねた結に、シャルムは驚いたように目を丸くした後、ふっと笑った。
「変なことを聞くんだな、あんた。……でも、そうだな。『元気にしてたか』って、まず聞きたいかな。それから、『お前が文字を教えてくれたのがきっかけで、俺は今、王様に捧げる歌を書き写してる』って、伝えたい」
その言葉に、結は胸を突かれた。理由はわからない。ただ、シャルムの言葉が、自分の中の何かと共鳴した気がした。
「結?」
トキが、いつになく静かな声で名を呼んだ。振り向くと、トキは結をまっすぐに見つめていた。からかいの色のない、まっすぐな目だった。
「……時と時の狭間で、出会った時より、少しはマシな顔になってるよ」
「え?」
「なんでもない。それより、そろそろ行こうか」
トキはいつもの飄々とした調子に戻ったが、結にはその一瞬の沈黙が、妙に長く感じられた。
***
新しい粘土板が形になった頃、シャルムは「少し水を汲んでくる」と言って席を立った。
結もその場を離れ、神殿の裏手にある小さな水路へと足を向けた。
ウルの街には、灌漑のための水路が幾筋も通っていて、その水は少し先の運河へとつながっているのだとトキが教えてくれた。
夕陽が水面を橙色に染める中、結はふと足を止めた。
水路の縁、泥に半ば埋もれるようにして、小さな花が群れて咲いている。丸みを帯びた花びらが幾重にも重なった、控えめな青。夕陽の色に染まってもなお、その青だけは沈まずに、水面に映って揺れていた。
「――きれい」
思わず声が漏れた。名前もわからない花だった。それなのに、胸の奥がきゅうっと締めつけられて、うまく息ができなくなる。懐かしい、と思った。けれど何が懐かしいのか、結自身にもわからない。記憶にある景色ではないはずなのに、まるでこの色を、誰かと一緒に見たことがあるような――そんな気がしてならなかった。
「睡蓮だよ」
隣にいつの間にかトキが立っていた。
「この時代の人たちは、この花を神聖なものとして扱うんだ。水の中から茎を伸ばして、太陽が昇るとともに花を開く。……睡蓮は本来白や淡い紅色が多いが、青はごく稀にしか咲かない、だからこそ特別に大事にされている」
言葉が続かない。ただ胸の奥が疼いて、目の奥が熱くなった。
「懐かしい、って思う?」
トキが静かに尋ねた。結はその問いに、すぐには答えられなかった。
「わからない。でも、なんだろう……この色を、知ってる気がする」
「そう」
トキはそれだけ言うと、それ以上何も語らなかった。ただ、結の隣で、同じように水面の青い花を見つめていた。その横顔には、いつもの軽薄さがなく、代わりに、遠い記憶を辿るような静けさがあった。
夕暮れの水路に、青い睡蓮の花がいくつも、灯りのように浮かんでいる。結はしばらくそこを動けずにいた。
やがてシャルムが水がめを抱えて戻ってきた。
「悪い、待たせたな。……お、その花、見てたのか」
「うん。きれいだね」
「巫女様たちが、儀式の日には必ずこの花を摘んで神殿に飾るんだ。イナンナ様が、この花をことのほかお気に召してるんだとさ」
シャルムはそう言うと、水路の縁にしゃがみこみ、ひとつだけ花を摘んで結に差し出した。
「持ってけよ。明日は儀式だし、なんか縁起がいい気がする」
結はその花を、両手でそっと受け取った。花びらの間から水が一滴、手のひらにこぼれ落ちる。
「持っていても、いいの?」
なんとなく尋ねると、隣にいたトキが静かに言った。
「今は、ね。……ただ、覚えておいて。時代を越える時は、これは持って行けない。その時代のものは、次の場所には持っていけないんだ」
「そう、なんだ」
初めて聞く話だった。名残惜しさが、ちくりと胸をよぎる。それでも、今この手の中にある花の重みは、確かなものだった。
「だから、今のうちに、ちゃんと見ておくといいよ」
トキの言葉に、結は花をもう一度、そっと見つめ直した。




