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『記憶を失くした私は、神様?と時を渡る 』  作者: 巡里 ひより


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第1話:気まぐれな神様?と、名前だけの私(メソポタミア その1)

はじめまして、巡里ひより(めぐり ひより)と申します。


この物語は、記憶を失った主人公・結が、神様みたいな「トキ」とともに、実在した時代を渡り歩きながら、大切な誰かを探す旅のお話です。


一度離れた時代には、二度と戻れない——そんな一期一会の切なさと、その時代を生きた人々の暮らしを、できるだけ丁寧に描いていけたらと思っています。第1話の舞台は、今から四千年以上前の古代メソポタミア。フィクションとして、歴史の教科書の少し先まで、一緒に覗きに行っていただけたら嬉しいです。

歴史の時代考証が不十分で、風習、文化、人物の名前なども間違いがあるかもしれませんが、暖かく見守っていただけたら幸いです


※本作は『カクヨム』にも重複投稿しています。



どうぞよろしくお願いいたします。



7月18日 加筆修正しました


目を開けると、そこには何もなかった。


上も下も、右も左もわからない、乳白色の靄のような場所。冷たくも熱くもなく、ただ静かだった。


「……ここ、どこ」


声に出してみて、初めて気づいた。自分の名前以外、何も思い出せない。


時任結ときとう ゆい


口からこぼれた自分の名前だけが、やけにはっきりと胸の中に残っている。それなのに、生まれた場所も、育った時代も、好きだったものも、大切だったはずの誰かのことも――何一つ形にならない。


普通なら、ここで座り込んで泣いてもおかしくない状況だと思う。それなのに、結の頭にまず浮かんだのは、こんな考えだった。


――誰か、助けに来てくれないかな。


自分から動くより先に、誰かが助けてくれることを待つ。そういう癖が、記憶がなくても体の奥に染みついているのかもしれない。実際、待っていると、案の定というように声がした。


「ふうん。思ったより、動じてないね」


声がした方を振り向くと、いつの間にか一人の男が立っていた。


歳の見当がつかない。線の細い、整いすぎた顔立ち。少し長めに整えられた髪は、風もないのに微かに揺れていて、涼しげな印象を残す。

着ているものも、どこの時代のものとも知れない、光沢のある布で仕立てられた上品な衣。皺一つなく、体の線に沿うように誂えられていて、着崩れる気配すらない。

男とも女ともつかない容姿。ただ立っているだけなのに、絵画のように美しい姿勢に見惚れてしまう。


「あなた……誰?」


「トキ、とでも呼んで? 呼びやすいでしょ」


軽い調子で言うと、男――トキは、結の正面に立ち、瞳を覗き込んだ。人を見透かすような、過去を見通すような眼差しだった。


何もないはずのこの空間に、ふいに風が吹いた。結の髪が大きく揺れる。



――瞬き一つの間に、トキは元の位置に戻っていた。

 



「記憶、綺麗さっぱりないみたいだね。名前だけ覚えてるのも珍しいけど」


「知ってるの? 私のこと」


「さあ、どうかな」


はぐらかすように笑うトキに、結は少しむっとした。


「ちゃんと教えてよ。私、何も覚えてないの」


「教えてって言われても、教えたところで、意味はないんだよ。あなた自身の問題だからね。これは。」


「……それ、はぐらかしてるだけじゃない」


トキは、初めて笑いを消した。


「はぐらかしてるんじゃないよ。――先に言っておく。俺は、人間じゃない」


結は、思わず口をつぐんだ。


「だから、人間の基準ではものを判断しない。俺が従うのは、自分の中にある信念だけ。」


「信念って、何よ。急にそんなこと言われても」


「これまで積み上げてきたあらゆる経験、あらゆる学びから自分で作りあげてきたものだよ。

俺は自分の信念に従って確信を持って言葉にしている。

だから、キツく聞こえるかもしれないけど――悪気はないよ」


結は、何と言い返せばいいのかわからなかった。突き放されているようで、それでいて、どこかまっすぐな物言いだった。


「人間でも、神様でもない。強いて言うなら――神様みたいなもの、とでも思っておいて」


軽い調子に戻ったその声に、結はなぜか、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。


「ここは、時と時の狭間。どの時代にも属さない場所だよ」

トキは靄の向こうを指さした。

「結、信じるかどうかはあなた次第だけど、今あなたがここにいるのは、自分が望んだ事の結果なんだよ。記憶を消したいと願ったのもあなた。

だから記憶だけ取り戻したって、今のままじゃ何も変わらないよ。あなたも・・・あなたの大切な人も」


「大切な人って……」


胸の奥が、きゅっと締めつけられる感覚があった。切実に強く、深く胸が苦しくなる。名前も顔も思い出せない大切な、大切だった誰か。


「力を貸してあげるよ」


トキは結の目の前に立つと、悪戯っぽく片眉を上げた。


「条件付きだけどね。あなたには時代から時代へ渡ってもらう――それぞれの時代で、人の営みをちゃんと見届けてほしいんだ。誰かが泣いていたら、隣にいてあげて。誰かが困っていたら、手を貸してあげて。心が動いた瞬間を逃さずに一歩を踏み出せばいい。そういうお節介、あなたは得意そうだから」


「条件は、それだけ?」


「それだけ。それだけのことが出来なくなって現在に至るわけだからね。それと一つ大切なこと」


トキの声が、少しだけ低くなった。


「一度離れた時代には、二度と戻れない。それだけは覚えておいて」


「戻れない……」


「うん。だから、ちゃんと見て。ちゃんと関わって。じゃないと、後悔するのはあなただから」


まるで、それが自分自身の経験であるかのような言い方だった。結はふと、逃げ道を探すように尋ねた。


「もし……私がうまく出来なかったら? 誰か他の人に、代わってもらうことってできるの」


「できないよ。あなた自身の事だから、あなたにしかできない」


「そう、だよね……」


当たり前のことを聞いてしまった気恥ずかしさに、結は俯いた。


「それに、上手くやろうなんて考えない方がいいよ」


「それって、どういう・・」


結が問いただそうとするより早く、彼は軽く指を鳴らす。


「そのままの意味だよ。じゃあ、行こうか、最初の時代へ」


「ちょ、まだ返事――」


トキが指をならした瞬間、視界が白く弾けた。


***


目を開けると、乾いた熱気が肌を刺した。


強い日差し。土と藁の匂い。遠くから、聞いたことのない言葉のざわめきが聞こえてくる。


結が立っていたのは、日干し煉瓦を積み上げた壁が続く、狭い路地だった。見上げると、街の中心に、段々に積み上がった巨大な塔がそびえている。まるで人の手で作った小さな山のようだった。


「ジッグラト、っていうんだよ」


隣に、いつの間にかトキが立っていた。相変わらず飄々とした顔で、結の驚きなど気にも留めていない様子だ。


「ここは、シュメールの都市国家・ウル。およそ四千年以上前の世界」トキは軽い調子で続けた。「月の神様、ナンナを祀ってる街だよ」


「四千年……」


実感が湧かない。けれど、目の前の光景は嘘みたいに生々しかった。市場らしき広場では、大麦や織物、素焼きの壺を並べた人々が声を張り上げている。裸足の子どもたちが駆け回り、ロバに荷を積んだ商人が列をなしていた。


井戸端では女たちが洗濯物を叩きながら、何やら早口でしゃべっては笑い合っている。何を言っているのかはわからないのに、その笑い声の温度だけは、不思議とちゃんと伝わってきた。ああ、ここにも「暮らし」があるんだ、と結は思う。四千年前だろうと、人が笑うことに変わりはないらしい。


「大麦がそのままお金代わりになるんだよ、この時代は」トキが露店の方を顎で示した。「あとは銀の重さで測ったりもする。ビールは水より安全だからってよく飲まれてるし、子どもも学校で粘土板に文字を書く練習をさせられる。結構、忙しない世の中でしょ」


「思ってたより……ずっと、生きてる感じがする」


「そうだね。ここにいる人たちにとっては、今この瞬間を生きているからね」


トキの声には、からかいの色がなく、実感だけがあった。結はその横顔を、少しだけ見つめた。


「結の服装、少し浮くね。もう少し周りに馴染むようにしておこう」


トキが軽く手をひらめかせると、結は自分の身体を見下ろした。見慣れない、けれど不思議と着心地のいい麻の衣に変わっている。


「便利な力ね」


「神様みたいなもんだと思って。神様ではないけどね」


「……それ、さっきも言ってた」


「大事なことだから、何回もいうと思うよ」


しれっと言うトキに、結は思わず笑ってしまった。記憶がないのに、笑えるくらいには、心が軽くなっている自分に少し驚く。


「ねえ、私、これから何をすればいいの? どこに行けばいいとか、決まってるの?」


「決まってないよ。あなたが、行きたいところに行けばいい」


「そんな、いきなり言われても……」


結は少し困った顔になった。トキが道筋を示してくれるものだとばかり思っていた。何もかも自分で決めろと言われると、急に足元が心もとなくなる。


「大丈夫、迷ったら聞けばいいよ。俺、しばらくは近くにいるから」


トキの言葉に、結はほっとした自分に気づいて、少しだけ気まずくなった。


そのとき。


「――そこの、見ない顔だね」


声をかけられて振り向くと、粘土板を抱えた青年が立っていた。書記見習いだろうか、指先に乾いた泥がついている。人懐っこい笑みを浮かべているが、結を見つめる目には、ほんの一瞬、奇妙な戸惑いが浮かんだ。


「あんた……どこかで、会ったことあったかな」


「え?」


「いや、気のせいか。すまない、初対面の人にする質問じゃなかったな」


青年は照れたように頭をかくと、名乗った。名はシャルム。神殿に仕える書記見習いで、これから粘土板に「聖婚の歌」を書き写しに行くところだという。


「聖婚の歌?」


「王様と、女神イナンナ様に仕える巫女様が結ばれる儀式のために捧げられる歌さ。国の実りと安寧を祈るための、大切な言葉なんだ」


シャルムはそう言うと、懐から小さな円筒形の石を取り出した。表面には、細かく几帳面な模様と文字が刻まれている。


「これは印章。ある人からのプレゼントなんだけど、これがきっかけで書記見習いになったんだ。これを粘土の上を転がすと、ほら」


彼が近くにあった湿った粘土に印章を転がすと、そこに小さな絵と文字の連なりが浮かび上がった。まるで、ここにいたという証を刻みつけるように。


結はその模様を、なぜかじっと見つめてしまった。


――どこかで、見たことがある気がする。


「結?」トキが横から覗き込んだ。「どうかした」


「ううん……なんでもない、はず」


言いながらも、胸の奥にちいさな棘が刺さったような感覚が抜けなかった。記憶のない結が、初めて覚えた「既視感」だった。


シャルムはそれから、結たちを気さくに案内してくれた。井戸端で洗濯をする女たち、粘土板が積まれた学校、ビールを注ぎ交わす市場の男たち――四千年前の人々の暮らしは、思っていたよりずっと、笑い声に満ちていた。


案内の途中、荷運びの男が積み荷を落として、大麦の粒が路地に散らばったことがあった。周りの人が慌てて拾い集める中、結は一歩、体が後ろに引けるのを感じた。


――私が拾わなくても、他の誰かがやってくれるよね。


そう思ってしまってから、結は自分の内側にふと違和感を覚えた。困っている人がいるのに、まず浮かんだのが「他の誰かがやってくれる」だったことに。

結局、気づけばシャルムも、通りすがりの女性も、当たり前のように屈んで拾っていて、結だけが立ち尽くしていた。慌てて後を追うように屈んだけれど、拾えた粒はほんのわずかだった。


「ありがとな」


荷運びの男に礼を言われても、結の中には小さなしこりが残った。自分は、いつもこうなのだろうか。記憶がないのに、そんな問いだけが妙にはっきりと胸に刺さる。


けれど、夕暮れ時。


神殿へ向かうシャルムを見送りながら、トキがぽつりとつぶやいた。


「ねえ、結。さっきの印章の模様、本当に初めて見たと思う?」


「……どういう、意味?」


「さあ、どうだろうね」


トキは答えをはぐらかすと、月が昇り始めた空を見上げた。その横顔は、からかっているようでいて、真剣にも見えて。


結の中に残る「大切な人」という言葉が、この四千年前の街で、静かに疼き始めていた。




第1話、読んでくださってありがとうございました。


「神様と契約して時代を渡る」という設定を書きながら、実は一番悩んだのは「最初にどの時代に行くか」でした。定番の戦国時代や中世ヨーロッパも考えたのですが、思い切って四千年前のメソポタミアから始めることにしました。


長い間、読み手側で一度も投稿をしたことがないので、いたらない事も多々ありますが温かく見守っていただけると幸いです。

もしよろしければ、ブックマークで続きを見守っていただけると励みになります。感想もお待ちしています。


※作中に登場する歴史、文化、風習などの描写は、筆者が独自に調べた情報に基づいています。できる限り調査の上で執筆しておりますが、専門家による監修ではないため、一部に誤りや独自の解釈が含まれている可能性がございます。あらかじめご了承ください。

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