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『記憶を失くした私は、神様?と時を渡る 』  作者: 巡里 ひより


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第10話 別れの気配 (メソポタミア編(10))

朝の光が壺の水面に反射して、揺れていた。


「あんた、来た時よりずいぶん、手つきが板についてきたね」


ニンリルにそう言われて、結は自分の手を見下ろした。麦を挽く手も、壺を運ぶ足取りも、以前ほどぎこちなくない。指にできた小さな豆も、いつの間にか馴染んで固くなっていた。


「タシュリさんにも、褒められた気がします。多分」


「あの子が褒めるのは、珍しいことだよ」


ニンリルが笑うと、少し離れたところでビールを運んでいたタシュリが、聞こえないふりで顔を背けた。その耳が、少し赤くなっている気がした。


「ほら、ぼさっとしてないで、次の仕込みだよ」


タシュリはいつも通りの口調でそう言ったが、結に渡す道具の扱いは、以前よりずっと丁寧になっていた。壺の場所も、迷わず教えてくれるようになった。何気ないその変化に、結は気づかないふりをしながら、少し嬉しかった。


「そういえば、あの子が結の分まで、朝の水を汲んでおいてくれたんだよ」


ニンリルがこっそり耳打ちすると、結は思わずタシュリの背中を見た。当のタシュリは素知らぬ顔で、壺を運んでいる。


***


その日の夕方、結はシャルムと連れ立って、初めて出会った市場の角に立ち寄った。何気ない用事のついでだったけれど、足が自然とそこに向かっていた。


「思えば、ここで会ったんだよな、俺たち」


「うん。あの時は、右も左もわからなくて」


「今は?」


「まだわからないことだらけだけど……前よりは、少しだけ知ってる気がする」


シャルムは満足そうに頷いた。


「恋歌の清書、もう半分以上進んだよ。これが終わったら、俺、正式に神殿づきの書記になれるかもしれない」


「シャルムなら、なれるよ」


「あんたにそう言われると、本当にそんな気がしてくるから不思議だ」


軽口を交わしながらも、結の胸には、言葉にならない予感が静かに広がっていた。市場の喧騒も、井戸端の笑い声も、初めて来た日と何も変わらないはずなのに、どこか一枚膜がかかったように、少し遠く感じられる。この街での日々が、いつまでも続くわけではない。そんな当たり前のことが、急に重みを持って感じられた。


「シャルム、書記になったら、これからどうするの」


「神殿に仕えて、記録を残していく。それが俺の仕事になる。……あんたと出会わなかったら、多分、今の俺はいなかったよ」


「そんなことないよ。私がいなくたって、シャルムなら、きっと書記になれてたと思う」


「俺は、全然そんな気がしないけどな」


シャルムは照れくさそうにそう言うと、市場の喧騒の向こうへ視線をやった。夕焼けが、行き交う人々の顔を橙色に染めていく。結はその光景を、目に焼き付けるように見つめた。


「結、なんか変な顔してるぞ」


「ううん。ただ、この景色も、覚えておきたいなって」


シャルムは少し不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。


***


夜、水がめを抱えて戻る道すがら、トキが隣に並んだ。


「随分、この街に馴染んだね」


「トキのおかげ、ってわけじゃないけどね。ほとんど、ニンリルさんタシュリさんとシャルムのおかげ。街の人達も親切にしてくれたし」


「それでいいんだよ。俺は、道筋を示すだけだから」


いつになく静かな声だった。結はその横顔を見つめた。


「トキ、なんだか今日、変」


「そう?」


はぐらかすように笑ったけれど、その目には、いつもの飄々とした軽さの奥に、何か寂しさに似たものが揺れていた。


「そろそろ、この街での結の役目が終わるよ」


その一言に、結の足が止まった。


「終わる、って……」


「大丈夫、まだ少し時間はある。でも――そろそろ、心づもりをしておいた方がいい」


「もっと、いられないの」


「一つの時代に長くいると、周りに怪しまれる。それに――」


トキは言葉を切って、少しだけ結を見た。


「結には、まだ他にも行くべき時代が、たくさんあるんだよ」


トキはそう言うと、それ以上は何も語らずに、夜の道を歩いていった。


結は水がめを抱え直し、その背中を見つめた。ニンリルの醸造所、タシュリの厳しい声、シャルムの文字の稽古。この四千年前の街で積み重ねてきた、ささやかで確かな日々。


その夜、結は眠る前に、この街に来てから、今日までのことを一つひとつ思い返した。溢れた大麦を前にして立ち尽くした自分。粘土板を手伝うと言えた自分。壺を間違えて逃げそうになった自分。どれも格好いいものではなかったけれど、確かに全部、自分の歩いてきた道だった。


それが終わるという実感が、静かに、けれど深く、結の胸に染み込んでいった。


*(第10話 了)*


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