第11話 思い出した記憶のかけら (メソポタミア編(11)・最終話)
別れの朝は、いつもと同じ日差しで訪れた。
「今日、行っちまうのかい」
ニンリルの声には、いつもの素っ気なさがなかった。結は頷くしかできなかった。
「短い間だったけど、世話になったね。……あんた、来た時よりずっと、ちゃんと自分の足で立ってるよ」
「ニンリルさんとタシュリさんのおかげです」
「あたしは何もしてないさ。全部、自分でやったことだよ」
素っ気なく言うと、ニンリルは結の両手に、小さな麦のパンを溢れそうなほど置いた。
「腹が減ったら困るだろ。持っていきな」
タシュリは何も言わず、そっとパンを入れるための布袋を差し出してくれた。それから、ぼそりと呟いた。
「……達者でな。あんたは、思ったより、しぶとくていい奴だったよ」
短い一言だったけれど、結の胸に、じんわりと染みた。目の奥が熱くなるのを堪えながら、結は深く頭を下げた。
「ありがとうございました。二人とも、本当に」
「泣くんじゃないよ。せっかくいい顔になったのに」
ニンリルがそう言って、結の背中を軽く叩いた。醸造所の壺、麦の匂い、水がめの重み——この数日で当たり前になった景色の一つひとつが、急に愛おしく見えてくる。
「また、いつか来ます」
「来なくていいさ。あんたはあんたの旅を、ちゃんと続けな」
ニンリルの声は、素っ気なさの中に、確かな温かさを湛えていた。
***
結は最後に、シャルムの元へ向かった。神殿の裏手、いつも文字を教わった場所で、シャルムは清書を終えたばかりの粘土板を手に待っていた。
「見ろよ、結。ついに書き上げたんだ」
粘土板には、あの「イナンナへの恋歌」が、美しい楔形文字で刻まれている。
「すごい……本当に、綺麗」
「あんたのおかげだよ。粘土板が崩れた時、手伝ってくれなかったら、俺はきっとまだ、書記の見習いのままだった」
「ううん。私は本当に何もしてないよ。全部シャルムが自分で頑張ってきた結果だよ」
シャルムは照れくさそうに笑うと、ふと真顔になった。
「なあ、結。俺、思い出した事があるんだ」
「なに?」
「この印章をくれた人のこと。あんた、最初から気になってたよな」
結は頷いた。胸の奥が、静かに疼き始めていた。
「肩までの髪の、男とも女ともつかない、綺麗な顔をした人だったよ。驚くほど物知りで、俺に文字の読み書きを一から教えてくれた。凄く手先が器用で、賢くて、要領も良くて、一を聞けば十くらい出来てしまう人だった」
「……ソウ、っていう名前だったよ」
ソウという名前に、心臓がドクンと大きく跳ねた。
鼓動が速くなっていく。
頭が真っ白になって、何も考えられない。
でも続きが聞きたくて、早く、早くと心が急かしてくる。
――知ってる。
なぜだか、そう思った。会ったこともないはずのその人の輪郭が、胸の奥で、確かな形を結んでいく気がした。
「そういえば」
シャルムがふと思い出したように続けた。
「あの人、旅立つ前に言ってたんだ。『女の人を探して旅をしている』って。この辺りの人とは、何かが違う感じがしてたけど……そういえば、あんたと似た空気があった気がするな」
どく、と心臓がまた強く跳ねた。さっきよりも、もっと大きく。
「私と……?」
「うまく言えないけどさ。同じ匂いがする、というか」
シャルムは軽い調子でそう言ったが、結にとっては、それは軽い言葉ではなかった。
――ソウ。ソウ。ソウ。
思い出せない。それでも、その名前を舌の上で転がすだけで、胸の奥が引き絞られるように痛んだ。知っている。記憶はどこにもないのに、心だけが、確かに覚えている。
「結?」
シャルムの声に、結ははっと我に返った。いつの間にか、俯いたまま立ち尽くしていたらしい。
「あ……ごめん、なんでもない」
「顔、真っ赤だぞ。大丈夫か?」
「うん……大丈夫」
まだ胸の鼓動は治まらない。けれど、シャルムの心配そうな顔を見て、結は無理やり笑ってみせた。
「結、また会えるといいな」
シャルムの言葉に、我に返って慌てて返事をする。
「うん。……シャルムも、立派な書記になってね」
「なるさ、今の気持ちを忘れないでいる限り」
シャルムはそう言うと、清書したばかりの粘土板を大事そうに抱え直した。その手つきは、初めて会った日よりずっと頼もしく見えた。
「結、最後に一つだけ言っておく」
「なに?」
「あんたは、自分が思ってるより、ずっと強い人間だよ。俺が保証する」
「だから、もう『私なんか』って言うの、やめろよ」
その言葉に、結は胸が熱くなるのを感じた。うまく返事ができず、ただ深く頷くことしかできなかった。
***
神殿の前で、結は自分の刻んだ粘土板の手紙を、書記長に手渡した。
「いつか、遠い時代の誰かに届くように」
そう言うと、書記長は静かに頷き、それを丁重に受け取った。手紙は神殿の奥、他の粘土板とともに大切にしまわれていく。会えない誰かへ向けて書いた、たどたどしい言葉。それが今、四千年の時を超えて、誰かに見つけられる日を待つことになる。
水路に戻ると、青い睡蓮がいつものように咲いていた。結はその花に手を伸ばし、そっと水面に浮かべ直した。花びらから水が一滴、指先を伝って落ちる。
「持っていけないんだよね、これも」
「うん。でも――」
トキが隣に立った。
「その手紙、いつかちゃんと届くよ」
静かな声だった。結はその横顔を見つめたが、それ以上は何も聞けなかった。
「ニンリルさんも、タシュリさんも、シャルムも……みんな、ちゃんと覚えておくね」
「うん。それでいい」
「トキ」
「ん?」
「ありがとう。ここまで、色々」
トキは少し驚いたように結を見て、それから、いつもよりずっと柔らかく笑った。
「あ、そうだ。同じ時代には戻れないからね。さっきの別れ際、『またいつか来ます』とか言ってなかった?」
「覚えてるよ。もうなんで、人がしんみりしてる時にわざわざ言っちゃうのよ」
「ごめん、ごめん。ニンリルにもらったパンは食べてから行こう。基本的に、その時代のものは次の時代には持っていけないからね」
「うん。ちゃんと全部食べよう」
「あ、そういえば俺も、仲良くなった人たちに別れの挨拶に行ったら、餞別にビールをもらったよ。一緒に飲もう」
――一体、誰からもらったのよ。
そう思ったけれど、結は口には出さなかった。
結は袋からパンを取り出し、トキと並んで水路のそばに腰を下ろした。ちぎって口に運び、ビールで喉を潤す。二人で分け合って食べ終えると、結は立ち上がり、袖で口元を拭った。
「行こうか。次の時代へ」
トキが手を伸ばす。結はニンリルの、タシュリの、シャルムの顔を、もう一度胸に刻んだ。
視界が白く弾けた次の瞬間、遠くから、聞いたことのない水音が聞こえてきた。
(メソポタミア編 完)
メソポタミア編の本編が終わりました。
私にとったら、書いている間は長く感じて、今の心境は終わるもんなんだなぁと感慨に耽るばかりです。
下書きでは、完結まで書いてはいるのですが、いざ清書をすると、書き直す箇所が多く、一度アップしたものも加筆修正の連続でした。
次は、メソポタミア編の番外編になります




