番外編 ウルの一日 世界最古のジョーク (メソポタミア編・番外編)
夜の神殿裏は、昼間の熱がほどよく残っていて、文字の稽古にはちょうどいい。
「じゃあ結、昨日のおさらいから。『ビール』、書いてみて」
シャルムが、湿った粘土板と葦のペンを差し出す。結は真剣な顔で、覚えたばかりの楔形を刻んでいく。ぐ、ぐ、と粘土に先を押し込むたび、少しずつ形になっていく。
「できた」
「どれどれ・・・・」
シャルムは結の粘土板を月明かりにかざして、しばらく黙った。
「・・・・惜しい。これだと『ビール』じゃなくて、たぶん『沼』だ」
「ぬ、沼?」
「ここの棒が一本多い。あと、こっちは向きが逆。うん、立派な沼だな」
「私、沼を注文する人になっちゃうところだった・・・・」
「酒場で『沼を一杯』って言う客がいたら、俺は見てみたいけどな」
シャルムがけらけら笑う。悔しいので、結はもう一度、今度はゆっくり刻み直した。
「・・・・どう?」
「うん。今度はちゃんとビールだ。乾杯できる」
たったそれだけのことなのに、胸の奥がぽっと温かくなる。四千年前の文字が、一つ、自分のものになった。
「そういえば今日、エドゥバで大騒ぎがあってさ」
シャルムが、思い出し笑いをしながら言った。
「後輩が宿題の粘土板を、乾かすために外に並べておいたんだ。そしたら」
「そしたら?」
「犬が上を歩いた」
「・・・・え」
「足跡が、くっきり。せっかく書いた文字の、ちょうど真ん中に。前足と後ろ足、合わせて四つ」
「それ、書き直しになるんじゃ・・・・」
「なったなった。本人は半泣きさ。でも先生が粘土板を見て、しばらく黙ってから言ったんだ。『・・・・この足跡ごと、乾かして取っておけ。百年後の書記が見たら、笑うだろう』って」
結は、思わず吹き出した。
「いい先生だね」
「な。手の甲を叩くばっかりの人かと思ってたけど、あれにはみんな笑った。……案外、ああいうのが一番長く残ったりしてな。王様の記録より、犬の足跡の方が」
「ふふ。ありえるかも」
「なあ、結。犬といえば――文字ついでに、面白いもの見せてやろうか」
シャルムが、懐から古い粘土板の欠片を取り出した。だいぶ端が欠けて、文字も擦れている。
「エドゥバの兄弟子から回ってきたんだ。笑い話が刻んであるんだよ」
「笑い話? 粘土板に?」
「そう。いくぞ。――『犬が、酒場に入ってきて、言いました。何も見えないな。じゃあ、これを開けよう』」
「・・・・」
「・・・・」
沈黙が流れた。
「シャルム。どこで笑えばいいの、今の」
「わからん」
「わからんの!?」
「俺も兄弟子に同じことを聞いた。兄弟子も『わからん。でも昔から面白いってことになってる』って」
「そんなことある?」
「あるんだよなあ、これが。エドゥバでは代々、これは面白い話ってことで写し継がれてる。誰も笑ったことがないのに」
結は、こらえきれずに吹き出した。ジョークにではない。誰にも意味がわからない笑い話を、それでも大真面目に何十年も書き写し続けている、その伝統に。
「あはは・・・・! だめ、おかしい・・・・笑い話より、そっちの方がずっと面白い・・・・!」
「だろ? 俺もそう思う」
シャルムも一緒になって笑った。夜の神殿裏に、二人の笑い声が転がっていく。
――もしかしたら。
笑いながら、結はふと思った。ずっとずっと未来の人が、この粘土板を掘り出して、同じように首をかしげるのかもしれない。「どこで笑えばいいんだ、これは」って。そして、書き写した誰かの律儀さに、私と同じように吹き出すのかもしれない。
それは、なんだか、とても楽しいことのような気がした。
***
稽古の帰り道、酒場の前で、ニンリルが月を見上げながら店じまいをしていた。
「おかえり。文字は上達したかい」
「はい。今日は『沼』と『ビール』の違いを学びました」
「何だいそりゃ」
ニンリルは怪訝な顔をしたが、深くは聞かずに、店の奥から小さなパンをひとつ渡してくれた。
「そうだビールが書けるようになったんなら、私にも教えておくれよ。うちはビール屋だからね」
「えっ。私なんかで良いんですか?シャルムの方がキレイにかけますよ」
「なんかって言うもんじゃないよ。私は結に頼んでるんだ」
そう言われて、胸が熱くなる。
「じゃあ、まだまだ下手なんだけど..」
結は持っていた石板の空いてる場所にゆっくりビールと書いていった。
「どうだい?」
何度か練習した後にニンリルがきいた
「はい。ちゃんと書けてます」
「思ってたより楽しいもんだね」
「はい。私もそう思います」
ニンリルは満足そうに自分が書いた字を眺めた後に店の奥からパンを持ってきて渡してくれた
「授業料だよ」
「そんな、受け取れません」
「こういうのは、ありがとうって受け取るもんさ。返されたら私が恥ずかしいだろ」
さらりとそう言って、ニンリルは店の中へ戻っていった。
結はパンを両手で持ったまま、しばらく立っていた。
「・・・・それも。そうかも」
月が、ジッグラトの上に高く昇っていた。四千年前の、なんでもない一日が終わる。誰も泣かなかったし、何も失くさなかった。ただ、ロバが酔って、沼を書いて、誰にもわからない笑い話で笑った。ニンリルに文字を教えて欲しいと言われて嬉しかった。
こういう日のことも、ちゃんと覚えていよう、と結は思った。




