メソポタミア編 番外編 ウルの一日 ロバのほろ酔い事件
ウルの朝は、麦の匂いで始まる。
「ユイ! 寝ぼけてないで、三番の壺!」
「はいっ」
ニンリルの声が飛んでくる頃には、結の一日はもう始まっている。醸造所の朝は忙しい。壺の見回り、麦の運び込み、水汲み。この街に来たばかりの頃は、桶一杯の水を運ぶだけで息が上がっていたのに、近頃は二杯いける。
「ふふ。腕、ちょっと逞しくなったかも」
「何にやにやしてんだい。手が止まってるよ」
タシュリの声も、朝から容赦ない。でも、もう知っている。この人の「手が止まってるよ」は、半分くらい「おはよう」の意味だ。
午前中には、ちょっとした大役が回ってきた。
「ユイ。ちょっとこっち来な」
ニンリルが手招きする先には、仕込んだばかりの新しい壺があった。
「新しい配合を試したんだ。ナツメヤシを、いつもより多めに入れてみた。……味見しな」
「え、私がですか」
「あんた、変な忖度をしないからね。タシュリは何を飲ませても『飲める』しか言わないし」
葦の管を差し込んで、一口。甘い香りが、鼻に抜けた。
「・・・・あ。おいしい。甘くて、飲みやすいです。これなら、お酒が強くない人でも」
「よし。今度の祭りは、これでいこう」
ニンリルがにやりと笑う。横からタシュリがぼそりと言った。
「・・・・飲める」
「ほらね」
三人で顔を見合わせて、ふ、と笑いが漏れた。朝の醸造所に、麦の湯気が立ちのぼっていく。
事件は、昼前に起きた。
仕込みを終えた壺を、日陰へ運ぶ途中だった。結の抱えた壺が、石にけつまずいた拍子に傾いて、中身がとぷりと地面にこぼれた。
「あっ・・もったいない・・!」
慌てて壺を立て直す。こぼれたのは、ほんの少し。よかった、これくらいなら――と、思った時だった。
背後で、ぺちゃぺちゃと音がする。
振り向くと、荷運びのロバが、こぼれたビールを一心不乱に舐めていた。
「だ、だめ! それはだめ!」
引き離した時には、もう遅かった。
しばらくして、そのロバは、荷を背負ったまま、ゆらり、ゆらりと妙な足取りで歩き出した。右に三歩。左に二歩。首を振り振り、実に機嫌よさそうに、あらぬ方向へ進んでいく。
「おい、うちのロバ、どうしちまったんだ!?」
飼い主の荷運びの男が、目を丸くして追いかける。ロバは塀に軽くぶつかって、心外そうにぶるると鼻を鳴らした。
「・・・・すみません。うちのビールを、その、少し」
結が正直に白状すると、周りで見ていた男たちが、どっと笑った。
「なんだ、酔っ払いか!」
「いい飲みっぷりじゃねえか、おい!」
飼い主の男まで笑い出して、結はほっとするやら、恥ずかしいやら。騒ぎを聞きつけたニンリルが出てきて、事情を聞くと、豪快に笑った。
「あっはっは! うちのビールは、ロバも酔わせるってわけだ。いい宣伝じゃないか」
そして結の肩を、ばしんと叩いた。
「弁償しな、とは言わないよ。そのかわり、あのロバが素面に戻るまで、荷物運びを手伝いな」
「・・・・はい」
飼い主の人が多めに持ってくれたけど、ロバの荷物は重かった。
***
夕方前、ニンリルが「使いに行っといで」と、結に小さな銀のかけらを持たせてくれた。
「お駄賃つきだ。市場で、好きなもんでも買って食べな。あんた今日、ロバの分まで働いたからね」
ロバの分までって。タシュリが、思わずといった感じで笑って、一瞬で元の表情に戻った。
市場は、夕方が一番いい匂いがする。
焼きたての薄いパンの匂い。炙った川魚の匂い。結は屋台をひやかしながら歩いて、蜂蜜と胡麻を練り込んだという焼き菓子の前で、足を止めた。
「お姉さん、買ってきなよ。焼きたてだよ」
一つ買って、その場でかじる。
「・・・・んん!」
香ばしくて、素朴に甘い。歩きながら食べるお菓子が、こんなにおいしいなんて。四千年前も今も、買い食いは正義だ。
「あ、ずるい。俺も食べたい、それ」
振り向くと、いつの間にかトキが立っていた。数日ぶりにあったのに、開口一番がそれだった。
「・・・・どこ行ってたのよ」
「ちょっと、そのへんまで。で、一口ちょうだい」
「自分で買いなさいよ」
「銀、持ってないんだよね、今」
しれっと手を出すトキに、結はため息をついて、半分に割って渡した。トキは一口食べて、目を細めた。
「うん。この時代の蜂蜜は、いい味だ」
「偉そうに」
言いながら、結はふと気づく。数日前まで、トキがいない間、少し心細かったはずなのに。今日一日、思い出しもしなかった。
――ロバと、蜂蜜菓子のおかげかな。
夕陽の市場を、二人でぶらぶらと歩く。今夜はこれから、シャルムとの文字の稽古がある。結の足は、我ながら現金なくらい、軽かった。




