第12話 ナイルのほとり (エジプト編 1)
今回からエジプト編に入ります。
お付き合い頂ければ幸いです。
目を開けると、強い陽射しと、乾いた風の匂いがした。
見渡す限りの褐色の岩山と、その麓に広がる小さな村。少し先には、豊かな緑を湛えた大きな川が流れている。
「ナイル、だよ」
隣に立つトキが、いつもの調子で言った。
「今からおよそ三千三百年前。新しい王国の時代、エジプト」
「三千三百年……」
数字の大きさに、結は言葉を失った。メソポタミアでの日々が、一気に遠い昔のことのように感じられる。
「言っておくけど」トキが続けた。「今回からは、俺はほとんどそばにいない。困って呼べば来るけど、それ以外は――結が自分の力で、ここでの日々を送ってもらう」
「……前より、厳しいんだね」
「厳しいんじゃなくて、信頼してるんだよ」
トキはそう言うと、軽く手を閃かせた。結の肩から足首までを一枚の布が包み込む。
身なりをさっと整えると、小さな布包みを手渡した。
「これが、当面の路銀とわずかな食料。あとは、結自身でどうにかしてもらう」
「あの、トキ」
「ん?」
「言葉のこと。今度もちゃんと通じるのかな。話すのはもう慣れたけど、字とか……本当に、読めるの?」
トキは事も無げに笑った。
「そこは、信じてくれて大丈夫だよ。これから、どの時代にいっても、文字が読めるようにしてあるよ。じゃあ、頑張って」
軽い調子でそう言うと、トキはふいに少し真面目な声になった。
「俺にも、ちょっと調べたいことができてね。しばらく、あちこち出歩くことが増えると思う」
「調べたいこと?」
「メソポタミアでいくつか引っかかる事があって。まずは確認をしてから結に話すよ」
指をならすと、トキの姿は陽炎の向こうに紛れて消えていった。
あまりに呆気ない別れ方に、結はしばらくその場に立ち尽くした。メソポタミアでは、困ればすぐそばにいてくれた。今度は、誰も背中を押してくれない。
――でも。
不安がないと言えば嘘になる。それでも、この数か月で積み重ねてきたものが、確かに自分の中にある気がした。結は深く息を吸うと、村の方へ向かって歩き出した。
***
村の名は、後の世で「デイル・エル・メディーナ」と呼ばれることになる、王家の墓を造る職人たちの村だった。外部から隔てられた、小さいけれど独特の活気を持つ集落。
結が村の女性たちに声をかけて回るうち、気さくな奥さんが足を止めてくれた。
「仕事を探してるのかい? そういえば……」
奥さんは少し声をひそめた。
「タメクさんとこ、奥さんを亡くしてから、家のことがまるで回ってないらしいよ。家事のできる人を探してるんじゃないかねえ」
「タメクさん、ですか」
「絵師さんだよ。腕は確かなんだけど、今はちょっと、ね……。あの一角の家だよ」
奥さんに教えてもらった道を辿り、結はその家を訪ねていった。村の中心に近い一角、白髪交じりの老人が壁に向かって座り込んでいるのが見えた。筆を握ったまま、何も描けずにいる様子だった。
「あの、何かお手伝いできることは……」
「……いらん。誰も、俺の代わりはできん」
「絵のことは、わかりません。でも、家事ならできます。タメクさんが、家事のできる人を探していると聞いて、伺いました」
食い下がる結に、タメクは面倒くさそうに顔をしかめただけだった。それでも結が引き下がらずにいると、老人はようやくため息交じりに口を開いた。
「家事をする者を探してるのは本当。女房が死んでから、家の中がどうにも回らん。だが、絵のことに口を出すなら、それは断る」
「絵のことは何もわかりません。でも、家のことなら」
「……名は」
「結といいます」
「俺はタメク。この村の絵師だ。もっとも、今はろくに筆も握れんがな」
自嘲するように言うと、タメクは筆を壁に立てかけた。
「一つ聞くが、なぜ、他人の世話を焼こうとする」
結は、少し恥ずかしそうに俯いた。
「……働かないと、今晩とまるところもないので」
正直な答えに、タメクは初めて小さく笑った。
「バカ正直だな、あんた」
こうして結は、村の絵師タメクの家に、住み込みの手伝いとして迎えられることになった。中心に近い一角に建つその家は、村の噂も人の出入りも、自然と集まってくる場所だった。
***
村の暮らしは、メソポタミアとはまた違う独特のリズムで動いていた。
エンマー小麦や大麦から作るビールが、国からそのまま生計として支給され、決められた休日には家族で集まって食事をする。
村の入り口近くには井戸があったが、地下水には繋がっておらず、水運び人が毎日ナイルから汲んだ水を運び入れて満たしていく。
水が届く頃合いを見計らって、女たちが甕を抱えて井戸端に集まってくるのが、村の日課だった。
具合が悪ければ村付きの医者が診てくれるので、配給が減る心配もいらないという。
労働の合間には、誰からともなく仕事の調子を合わせる歌が響いた。
タメクの家の仕事は、家を整え、パンを焼き、彼のために食事を用意することだった。
慣れない竈の扱いに手間取りながらも、結は少しずつ家事の勘所を掴んでいく。
粉を練り、平たく伸ばして焼くパンは、メソポタミアで覚えたものとはまた違う焼き加減が要った。
けれど、当のタメクは、日がな一日、壁の前に座り込んだまま筆を持てずにいる。
「タメクさん、いつもあんな感じですか」
隣家の女に尋ねると、彼女は声を潜めて答えた。
「奥さんを亡くしてから、ずっとよ。腕はこの村で一番なのに、肝心の仕事が進まなくて、みんな困ってるの」
***
夕方、水を汲みに出た結は、村の外れにある小さな祠の前で足を止めた。彩色の剥げかけた壁に、小さな護符が供えられている。
その護符に刻まれた意匠を見た瞬間、結の胸が、大きく波打った。
――この模様。
シャルムの円筒印章と、よく似た――いや、確かに同じ系統の模様だった。丸みを帯びた線が絡み合う、あの懐かしい形。
「これ、誰が奉納したものですか」
近くにいた老女に尋ねると、彼女は首を傾げた。
「さあねえ。ずっと前から、そこにあるよ」
答えは曖昧だったけれど、結の中の何かが、確かにざわめいていた。
――ソウは、この村にもいたのかもしれない。
その予感を胸に、結はもう一度、水がめを抱え直した。ナイルの水音が、遠くから静かに響いていた。




