第13話 死者の書の絵師 (エジプト編 2)
投稿はなるべく毎日、20時頃を目指しています。
(間に合わないこともありますが・・・汗)
「タメクさんの仕事って、どんなものなんですか」
朝餉の片付けをしながら尋ねると、タメクは珍しく手を止めて答えてくれた。
「王家の谷の、貴人の墓の壁を描く仕事だ。それと――『死者の書』の写しもな」
「死者の書?」
「死んだ者の魂が、迷わず来世にたどり着けるようにするための言葉と絵だ。冥界を渡り、心臓を女神マアト様の羽根と天秤にかけられる。そこで正しいと認められれば、また新しく生き直せる」
タメクの声には、職人としての誇りと、どこか諦めたような響きが混じっていた。
「死は、終わりじゃないんですね」
「そうだ。死は――もう一度、大切な人に会うための、通り道だと考えられている」
その言葉が、結の胸に静かに沈んだ。
「タメクさんは、その仕事にずっと携わってきたんですか」
「若い頃からだ。親父もその親父も、絵師だった。この村の家は、大抵そうやって技を継いでいく」
「誇らしい仕事なんですね」
「誇らしい、か……」
タメクは自嘲するように笑った。
「今の俺には、そう言い切る資格もないがな」
その横顔には、長年積み重ねてきた誇りと、今の不甲斐なさへの苛立ちが、同時に滲んでいた。
***
タメクの仕事を間近で手伝ううち、結は顔料作りを教わるようになった。
工房に届く原料は、掌に収まるほどの、ごつごつとした石の塊のままだった。
それを乳鉢に入れ、根気よくすり潰して粉にしていく。
「粉塵は毒だ。ことに、その緑がかった石はな」
タメクに言われ、結は石を砕く時には、口と鼻を布で覆うようにした。ほんの微かな粉が舞い上がっただけで、喉の奥が痛むのを感じたからだ。
緑は、この孔雀石を砕いて粉にするだけで色になる。
だが青は、同じ銅を含む鉱物に砂と石灰を混ぜ、凄まじい高温の炉で焼き固めなければ生まれない
――そんな窯を扱える工房は、村にもそう多くない。
青の顔料だけは、専門の工房に頼んで焼いてもらったものが、既に小さな塊の形で届けられていた。
「青は、手間のかかる色でな。それだけ、値も張る」
タメクの一言に、結は粉を挽く手を止めた。同じような緑がかった石から、片方はそのまま、片方は火を通してようやく色になる――そう思うと、顔料の一粒一粒が、急に特別なものに見えてきた。
「この赤で下描きをする。間違えたら黒で直す。それから、一色ずつ丁寧に塗り重ねていくんだ」
「絵の具にも、意味があるんですか」
「青は豊かさと生まれること。緑は来世でよみがえること。黄色は太陽そのものだ」
タメクの説明は簡潔だったが、結にはどれも新鮮だった。粉を挽く単純な作業が、少しずつ意味を持って積み重なっていく感覚があった。
指先が石の粉で白く染まり、爪の間に色が入り込んでも、不思議と嫌ではなかった。むしろ、一つひとつの色に理由があると知ってから、同じ作業でも見える景色が変わった気がした。
「筋がいいな。教えた通りに、ちゃんとやる」
タメクの短い一言に、結は素直に嬉しくなった。誰かの仕事の役に立てているという実感が、じんわりと胸に広がっていく。
***
けれど、いざ壁の前に立つと、タメクの筆は止まったままだった。何日経っても、下描きの一線すら引けない。
「タメクさん、何が描けないんですか」
しばらくの沈黙の後、タメクはぼそりと答えた。
「……妻の顔だ」
「え?」
「この壁には、亡くなった貴人が、来世で妻と再会する場面を描くことになってる。だが……俺は、自分の妻の顔さえ、うまく思い出せなくなっちまった」
タメクの手が、微かに震えていた。
「一緒にいた時間の方が、長いはずなのに。顔の輪郭も、目の形も、思い出そうとすると、どんどん霞んでいく」
その言葉に、結の胸が強く反応した。記憶の中に「大切な人がいる」という感覚だけがあって、顔も名前もわからない自分と、タメクの苦しみが、静かに重なって見えた。
「わかる、気がします。私も……大切な人がいるはずなのに、顔も、名前も思い出せないから」
言ってから、結は自分の言葉に少し驚いた。誰かにこんな風に打ち明けたのは、初めてかもしれない。けれど、タメクの前でなら、素直に言葉にできる気がした。
タメクは驚いたように結を見た。
「あんたも、か」
「はい」
二人はしばらく、何も言わずに、描きかけの壁を見つめていた。夕暮れの光が差し込み、白い壁を薄い橙色に染めていく。
「思い出せなくても、大切だった気持ちだけは、消えないものなんですね」
結が呟くと、タメクは長い沈黙の後、小さく頷いた。
「……そうだといいがな」
その夜、結は一人、階段を上ってタメクの家の屋上に出た。
この村の家は裏庭も塀の外の逃げ場もなく、屋根の上だけが、夜風にあたれる唯一の場所だった。
昼間の熱がまだ少し残る屋根の上に座り、星の少ない乾いた空を見上げながら、大切な人の顔を思い浮かべようとしてみる。
けれど、やはり何も形にならない。それでも、胸の奥の疼きと苦しさだけは、確かにそこにあった。
タメクも、この屋根の下で、同じ夜空を見上げているだろうか。会えない誰かを想うという痛みは、時代や記憶の有無に関わらず、同じ重さを持つものなのかもしれない。そんなことを思いながら、結はしばらく夜風に吹かれていた。
*(第13話 了)*




