14話 青い蓮の池 (エジプト編 3)
水を汲みに、少し遠くの入り江まで行ってきてくれ。近くの水路が、今日はどうも濁ってるらしい」
タメクに頼まれ、結は村から少し離れたナイルの入り江へ向かった。木々に囲まれた静かな水辺に着いた瞬間、結は思わず足を止めた。
水面いっぱいに、青い花が群れ咲いていた。
「……睡蓮」
メソポタミアで見たものより、ずっと鮮やかな青。太陽の光を受けて、花びらの一枚一枚が輝いて見える。
その瞬間、胸の奥から、堰を切ったようにメソポタミアでの思い出がこみ上げてきた。
――シャルムが、初めて摘んでくれた、あの一輪。
――ニンリルが、食事時の忙しい合間に注いでくれた、あたたかい麦粥。
――タシュリが、時折見せる不器用な優しさ
顔も、声も、はっきりと像を結ぶ。懐かしい人たちの顔が、次々と浮かんでは消えていく。今頃、あの街はどうなっているんだろう。もう二度と、会えない人たち。
結の目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「どうして、こんなに……」
声に出しても、答えは出てこない。ただ、この青い色が、あの街で過ごした日々を、あまりにも鮮やかに引き寄せてしまった。急に、たまらなく寂しくなる。もどかしさに、結は水面をそっと指でなぞった。波紋が広がり、青い花びらが揺れる。
メソポタミアを発ってから、どれくらいの時が流れたのだろう。
――七百年、いや、八百年に近いのかもしれない。
根拠のない見当をつけてみる。ウルの街や、みんなと暮らした街は、もうとっくに変わっているだろう。争いも、支配する者の入れ替わりも、何度もあったかもしれない。
最初にトキが言っていた「一度離れた時代には、二度と戻れない」という言葉の重みが、実感をともなって、結の胸に静かに広がっていった。
あの時はまだ、言葉の意味が実感できなかった。
だけど今ならわかる。もうシャルムも、ニンリルも、タシュリも、どこにもいない。
会いたくても、二度と会えない人達、二度と戻れない時代が、これからも一つずつ増えていく。
それが、この旅を続けるということなのだと、結はようやく実感していた。
しばらくして、ようやく涙が引いた。結は水がめに水を汲み、立ち上がった。
まだ胸の奥は疼いていたけれど、その疼きさえも、今は大切なものに思えた。
***
水がめを抱えて村に戻ると、井戸端で女たちが賑やかに騒いでいた。中心には、見覚えのある飄々とした姿があった。
「トキ!」
「お、結。ちょうどいいところに」
女たちに囲まれながらも、トキはまるで動じていない。誰かが話しかけるたび、口の端をわずかに上げて笑んでみせるだけで、それだけで周りの声がひときわ華やいだ。指先で軽く前髪を払う仕草にも、すらりとした立ち姿にも、いちいち様になるのがトキだった。
「聞いてくださいな、書記のアセム様のこと」
女の一人が、結に話しかけてきた。
「アセム様?」
「少し前まで、この村に来ていた東方の書記様よ。長い黒髪の、男の人とも女の人ともつかない、そりゃあ美しい方でね。物知りで、帳簿もそれはそれは几帳面で、数字ひとつ違えなかったそうよ」
「その人、今は……」
「もう別の村へ行ってしまわれたわ。名残惜しいったら」
「そういえば、今月の配給、まだ来てないのよねえ」
別の女が、ふと思い出したようにこぼした。
「うちもだよ。もう十日は遅れてるんじゃないかい」
「そういえば」
一人の年かさの女が、思い出したように口を挟んだ。
「前にもね、今日みたいに配給が遅れたことがあったのよ。もう何年も前の話だけど」
「ああ、あの時ね」別の女がすぐに頷く。「あの時は酷かったわ。みんな青くなって」
「でもね、あの二人が乗り出してくれてねえ」
「二人?」
結が思わず聞き返すと、女は懐かしそうに目を細めた。
「アセム様と、いつもお連れの方よ。年若い、生真面目そうな女の方でね。月様っていうのよ」
「その月様が、帳面と首っ引きで数字を全部洗い出して、アセム様が役人と直に掛け合って。あっという間に片付いちゃったのよ」
「まるで一幅の絵を見てるみたいだった、あの二人の働きっぷりは」
「あんな二人、見たことないよ、ほんとに」
女たちは口々に、アセムの噂を語り続けた。結の耳には、その話の輪郭がぼんやりとしか届いてこなかった。長い黒髪。物知り。優しさ。そして――月。
結の心臓が、ドクンと大きく鼓動を打った。
――月という名前、知っている気がする。
胸の奥が、ずきずきと疼いていた。それは、懐かしくて、少しだけ切ない疼きだった。
「お二人は、それはもう、息の合ったご様子で。傍から見ていても、随分と親しいのが分かったわ」
「まるで夫婦のようでしたよ、ほんとに」
女がそう言って、屈託なく笑った。
その一言に、結の中で、疼きが、すっと冷たいものに変わった。
――胸が苦しい。なんで、急にこんな気持ちになったんだろう。
「……そう、なんですね」
かろうじてそう返すのが、精一杯だった。
***
「大丈夫かい、結」
女たちが散った後、トキが結の顔を覗き込んだ。
「なんか、変な感じがする。急に胸が苦しくて、冷たくなったり……」
言いかけて、結は言葉を止めた。続きを、うまく言葉にできなかった。
「無理に思い出さなくていいよ。焦らなくても、いつか必ず思い出す時がくる」
トキの声はいつになく優しかった。
結は、一度唇を結び、それから小さく息を吸った。
「ねえ、トキ、変なことを聞くんだけど」
「ん?」
「大切な人がいたとして……その人にとって、自分は大切じゃなかったって、思う時って、ある?」
トキは、間を置かずに答えた。
「考えたこともないな。聞く相手が違うと思う」
あまりに迷いのない返事に、結は一瞬きょとんとした。それから、思わず小さく苦笑してしまう。
――そうだった。この人は、人間じゃない。
出会った日、トキが自分で言っていたことを思い出す。人間の基準ではものを判断しない、と。だったら、こんな問いを向けても仕方がないのかもしれない。
「……そうだった」
結が小さく呟くと、トキが片眉を上げた。
「急にそんなこと聞いてどうしたんだ」
「どうしてか分からないけど、さっきの話を聞いた後に、突然、「自分にとって大切な人でも、その人にとって自分は大切ではない」って思いが心に強く浮かんできたの」
「それなら、それは結にとって重要な『思い』ってことだよ」
「でも・・・・すごく辛くなるんだけど」
「辛い事だって、その人を作る重要な要素になるからね」
「それも、トキの信念なの?」
「信念とも言えるけど・・・・うーん。そうだな。自分の中に、揺るがない芯があるんだよ。それを信念と呼んでいる。芯ができたら、あとは信念に従って動くだけだ」
「いつも信念に従ってるの?」
「いつもは考えてないよ」
即答したトキに、結は驚いた。
「そうなんだ!?」
「考えなくても、そういう風に行動している」
その言葉を、結はしばらく胸の中で繰り返した。
迷いなく即答できるということは、それだけ自分の中の芯がはっきりしている、ということなのだろう。結にはまだ、そんな芯はない。
それでも、いつか自分にも、そう言い切れる何かができるのだろうかと思った。
「今日は、はぐらかさないんだね」
「今の結になら伝わると思ったから話しただけだよ」
その一言に、結の頬が、少しだけ緩んだ。信頼されている、というのは、こんなに単純に嬉しいものなんだと思った。
「――さて、と」
トキが伸びをして、いつもの軽い調子に戻った。
「そろそろ、俺は行くよ。また今度な」
「うん。ありがとう、トキ」
トキは軽く手を上げると、来た時と同じようにふらりと踵を返し、村の雑踏の中へ消えていった。
一人になった結は、水がめを抱え直し、タメクの家へと歩き出した。
家に戻る道すがら、結は何度も、噂に聞いた「アセム」という名と、「月様」という名前がどうしても心に引っかかった。次にトキにあったら相談してみようか、どうか悩んでいるうちに、タメクの家の明かりが見えてきた。
灯りが見えてくると、結は少し足を速めた。「アセム様と月様」の事を、タリムさんにも聞きたかった。




