第15話 村の日々 (エジプト編 4)
タメクの筆は、あれからも壁の前で止まったままだった。朝、家事を終えると、結にはぽっかりと手持ち無沙汰な時間ができる。
「タメクさん、何か手伝えることは」
「……今日はいい。一人にしてくれ」
そう言われてしまえば、結にできることは何もなかった。
行き場をなくした結は、隣の家の戸口で洗濯物を抱えて困っている若い女に気づいた。
「よかったら、手伝います」
「え、いいの? 助かるわ……」
声をかけると、女はほっとしたように笑った。
「メリトよ。この子はパウア」
腰にまとわりつく幼い男の子を、メリトは苦笑いしながら引き剥がした。五つか六つくらいだろうか、結を見て人懐こそうに笑いかけてくる。
「うちの人、王家の谷に長いこと出たきりでね。一人だと、どうにも手が足りなくて」
「ケンナさんが、ですか」
「知ってるの?」
「タメクさんから、名前だけ」
「そう。……あの人、腕はいいのよ。だから、いつも長く駆り出されてしまうの」
メリトはそう言って、少しだけ寂しそうに笑った。「もうだいぶ長い事あっていないわと」言いながら夫の名を口にする時のその表情に、結は覚えのある感覚を抱いた。
***
それから結は、暇を見つけてはメリトの家を手伝うようになった。二人で洗濯をして、パンを焼いた。メリトが忙しい時はパウアの子守りも、いつの間にか結の役目になっていた。
「ゆいちゃん、こっち!」
パウアはすぐに結を「ゆいちゃん」と呼ぶようになり、会うたびに手を引いて駆け出す。
ある日、水路のそばで、パウアが泥をすくって遊んでいるのを見ていた結は、ふと、メソポタミアのあの街の記憶を思い出した。水路さらいの日、隣にしゃがみこんで泥をすくっていた、あの小さな男の子。「ぼくもおとなだから」と胸を張っていた顔。
「ゆいちゃん、見て見て!」
パウアが得意げに、泥だらけの手を突き出してくる。
「わ、すごいね」
笑いながら答える。四千年前も、今も、子どもの無邪気さは変わらないのかもしれない、とそんなことを思った。何百年、何千年隔たっていても、変わらないものが確かにある。その事実が、結の胸をそっと温めた。
***
メリトは話し好きで、村中の噂をよく知っていた。
「聞いた? パネブさんとこの息子、隣の家の娘に夢中でね。親同士は仲が悪いのに」
「それは、大変ですね」
「向かいの家に、赤ちゃんが生まれたのよ。見に行かない?」
そんな他愛のない話を、結は夕方、タメクとの食事の席で話して聞かせるようになった。
「今日、向かいの家に赤ちゃんが生まれたそうです」
最初、タメクは「そうか」とだけ返し、それきり黙り込んでいた。
けれど、日を重ねるうち、少しずつ変化があった。
「パネブの倅、まだ隣の娘に懲りてないのか」
「懲りてないみたいです」
「馬鹿だな、あいつは」
そう言って、タメクがふっと口の端を緩める日が増えていった。誰かの話に、興味を持ってくれている。それだけのことが、結には嬉しかった。
「あんた、よくそんなに、村中のことを知ってるな」
「メリトさんが、色々教えてくれるので」
「メリトの家の、パウアの子守りか」
「はい。あの子、可愛くて」
「……あんたがそうやって、村の話を持って帰ってくると」
タメクは珍しく、まっすぐに結を見た。
「俺も、少しは、まだこの村の一員だって思えるよ」
その一言に、結は胸の奥が温かくなるのを感じた。
***
ある夕方、メリトの家の戸口で洗濯物を畳んでいると、パウアが小さな声で聞いてきた。
「ぼくのとうさん、みずがふえるころにはかえってくるって、かあさんがいってた」
「ゆいちゃんの、たいせつなひとは、いつかえってくるの?」
不意打ちの問いに、結は言葉に詰まった。
「……わからない。でも、いつか会えたらいいなって、思ってる」
「とうさんにはやくあいたいなぁ」
パウアはそう言って、結の膝にもたれかかった。その重みと温かさに、結はしばらく何も言えずにいた。
「ゆいちゃんは、もう、この村の人だね」
メリトが、洗濯物を干す手を止めて、ふとそう言った。
「・・そう、かな?」
「今じゃ、あんたがいないと、みんな困っちゃうもの」
その言葉に、結は胸がいっぱいになった。誰かに必要とされているという実感が、これまでの不安を少しだけ和らげてくれる気がした。
夕暮れの光が村を橙色に染めていく。パウアの笑い声、メリトの鼻歌、遠くから漂うパンの匂い。何気ない一日の積み重ねが、結の中に確かな居場所を作り始めていた。




