第16話 描けない顔・前編 (エジプト編 6)
「工期まで、もう十日もない」
村の監督役が家を訪ねてきて、そう告げていった。タメクは何も言わず、ただ壁の前に座り続けている。下描きの赤い線は、何日経っても、輪郭の途中で止まったままだった。
結はその背中を見つめながら、これまでの自分なら、どうしていただろうと考えた。きっと、自分にはどうにもできないと決めつけて、そっと目を逸らしていた。
――でも、今は違う。
メソポタミアで、勇気を出して一歩を踏み出した経験が、結の中には確かに残っていた。
この村でも、メリトやパウアに必要とされている実感が、少しずつ積み重なっている。
だからこそ、今の結には、以前とは違う考えが浮かぶようになっていた。
――自分にできることが、何かないだろうか。
メリトの家で、パウアの他愛のない話を毎日聞くうち、結は気づいたことがあった。
人の話に、ただ心を寄せて聞く。それだけで、相手の気持ちが、変わり始めることがある。
「タメクさん」
「……なんだ」
「絵の技術のことは、私にはわかりません。でも」
結は、タメクの隣にゆっくりと腰を下ろした。
「奥さんとの思い出を、聞かせてもらえませんか」
タメクは驚いたように結を見た。
「思い出を、聞いてどうする」
「わかりません。でも、描けないのは、技術の話じゃない気がするんです」
タメクは長い間、何も答えなかった。結も急かさず、ただ隣に座っていた。メリトの話を聞いている時に感じた通りだ。急かせば急かすほど、心は固く閉じてしまう。
「……あんたは」
ようやくタメクが口を開いた。
「怖くないのか。忘れたものを、思い出そうとするのが」
不意打ちのような問いに、結は言葉に詰まった。
「……怖いです。思い出そうとすると苦しくなったり、辛くなったりして。怖いです」
正直にそう答えると、タメクは小さく頷いた。
「そうか。……あんたも、か」
長い沈黙のあと、タメクは絞り出すように続けた。
「ただ最近は、少しずつ、楽しかった事も思い出せるようになってきた。あんたのおかげで」
「え?」
「忘れたわけじゃないんだ。顔が思い出せない、って言ったろう。あれは、嘘じゃない。だが……それだけでもない」
タメクの手が、微かに震えていた。
「思い出そうとするたび、怖くなるんだ。もう、どこにもいないのに、楽しかった思い出や、くだらない口癖まで浮かんできて。辛くなって、筆が止まっちまう」
その言葉が、結の胸に、静かに、けれど深く刺さった。
「いっそのこと忘れちまった方が、楽な気もしててな」
――わかる、気がする。
ソウのことを思い出そうとすると、いつもやってくる、あの冷たい疼き。
名前も顔も定かではないのに、思い出そうとするたびに、心のどこかがきしむ。
もしかしたら、自分も――忘れたままの方が、楽な気がしているのかもしれない。
そう思うと、タメクの言葉がストンと胸に落ちてきた。
タメクは、自嘲するように口の端を歪めた。
「だが、それじゃあ、描けないんだ。描けないままじゃ、あいつを、来世に送り出してやれない」
結は何も言わず、ただ静かに、タメクの言葉の続きを待った。
「……嫁は、よく笑う女だった」
タメクが、ようやく、ぽつりぽつりと語り始めた。
「俺が仕事に根を詰めすぎると、決まって呆れた顔で水を持ってきてな。『あなたの絵より、あなたの方が大事なのよ』と、いつも言っていた」
「素敵な人だったんですね」
「ああ……」
タメクの声が、そこで一度、止まった。
夕暮れの光が、描きかけの壁を薄い橙色に染めていく。結はその横で、タメクの言葉が続くのを、静かに待ち続けていた。




