第17話 描けない顔・後編 (エジプト編 6)
「……嫁とは、市場でよく喧嘩したな」
しばらくして、タメクがまた口を開いた。
「喧嘩、ですか」
「値切りに失敗した時だ。俺よりよっぽど交渉が下手で、それでいて本人はいつも上手くやったつもりでいた」
タメクの口元が、初めて微かに緩んだ。
「そういう時の表情ってどんな感じでした?」
結が尋ねると、タメクは意外そうに結を見た。
「どんな感じ、か・・・・」
「値切れていない事に、気づいてなかったんですよね。そんな時どんな様子だったんですか」
その言葉に、タメクは少し照れくさそうに、視線を壁に戻した。
「……得意げな顔だったよ、いつも。値切れてないのに、値切れたと思い込んで、機嫌よく帰ってくるんだ」
「それは、可愛らしいですね」
「可愛らしい、か」
タメクは苦笑した。
「言われてみれば、そうだったのかもな」
***
「どんな時に、よく笑ってましたか」
結が尋ねると、タメクは目を細めて、遠くを見るような顔をした。
「……水路のそばで、洗濯をしながら、下手な鼻歌を歌ってる時だ。音程は外れっぱなしなのに、本人は上手いと思ってた」
「楽しい人だったんですね」
「ああ。……俺が下手だと茶化すと、いつも本気で怒ってたな。挙句、俺にまで歌わせようとするんだ。俺の方がもっと酷いってのに」
そう言って、タメクは初めて声を立てて笑った。乾いた笑い声だったが、それでも笑いは笑いだった。
「あと……夜、寝る前に、俺の手を握るのが癖でな。何も言わずに、ただ握ってくる。それだけで、一日の疲れが、少し軽くなった気がしたもんだ」
タメクの声が、少しずつ柔らかくなっていく。結は黙って、その言葉の一つひとつを、大切に受け止めた。
「顔の形じゃなくて、笑った時の目とか、声の感じとか……」
タメクが、独り言のように呟いた後にしばらく黙り込んだ。それから、ゆっくりと筆を取った。
「……目、か」
タメクは壁ではなく、手元の小さな木片に、何かを描き始めた。最初はぎこちなかったが、次第に手が滑らかに動き出す。
「そうだ……こんな風に、笑うと、目尻がこう下がって……」
結は黙って、その手の動きを見守っていた。記憶を辿るように、タメクの筆が少しずつ形を取り戻していく。
何度も手を止め、また動かし、消しては描き直す。時間はゆっくりと流れていった。星が瞬き始める頃、木片の上には、微笑む一人の女性の顔が浮かび上がっていた。
「……描けた」
タメクの声が、震えていた。
「綺麗な人ですね」
結が覗き込むと、タメクは目元を拭いながら、小さく頷いた。
「ああ……ああ、そうだ。こんな顔だった」
***
「あんたのおかげだな」
その夜、タメクがぽつりと言った。
「私、何もしてません。思い出したのは、タメクさんです」
「そうかもしれん。だが、聞いてくれる人間がいなけりゃ、思い出そうとすらしなかった」
タメクの声には、初めて出会った時にはなかった、柔らかさがあった。
「結、あんたは」
結は、小さく首をかしげた。
「まだ怖いか。忘れていることを、思い出すのが」
不意打ちのような問いに、結は言葉に詰まった。
「……はい。怖い・・・・・です」
正直にそう答えるのが、今の結にできる精一杯だった。
タメクはそれ以上何も聞かず、ただ小さく頷いた。
「なら、無理に急ぐことはない。俺も、随分と長くかかったからな」
その言葉に、結は少しだけ、肩の力が抜けた気がした。
翌朝、タメクは壁の前に立つと、迷いのない手つきで筆を取った。木片に描いた下絵を頼りに、赤い下描きの線が、今度こそ止まることなく、壁の上を滑っていく。
「見ててくれ」
タメクの背中は、初めて出会った時とはまるで違って見えた。結はその背中を、少し誇らしい気持ちで見つめていた。




