第18話 配給が止まった日 (エジプト編 7)
「今月の配給、まだ来ないわ」
朝、井戸端に集まった女たちの声が、いつになく尖っていた。国から支給されるはずの穀物が、十日以上も遅れているのだという。
「うちも、蓄えがもう底をつきそうだよ」
声をかけられ、結も頷いた。実際、家のかめの中の麦も、残り少なくなっている。
「トキ」
思わず呼んでみたが、すぐには応えはなかった。タメクの家に帰ってから、ようやく姿を現した。
「呼んだ?」
「うん。あのね、配給が止まってて、みんな困ってるの。何とかならない?」
「――俺は、今回は見てるだけにするよ」
「え?」
「結が、自分の力で一歩を踏み出す番だ。行き詰まったら呼んでいい。でも、今はまだ、その時じゃない」
いつになく静かな声だった。結は少し面食らったが、トキの目に、突き放すような冷たさはなかった。ただ、見守る強さがあった。
「トキ、最近よく、いなくなるよね」
「ん?」
「呼んでも、なかなか来ない時がある。前より、ずっと」
トキは一瞬、いつもの飄々とした顔から、ほんの少しだけ表情を変えた。
「……ちょっと、気になることを調べててね。心配しなくていい」
それだけ言うと、トキの気配はまた薄れて消えていった。何を調べているのか、結には見当もつかなかった。
***
かめに残ったわずかな麦を数えながら、結はしばらくぼんやりと座り込んでいた。誰かのせいにするのは簡単だ。けれど、それでは何も変わらない。
――今、目の前にあることに、まず向き合おう。
そう思い直し、結はタメクの家にある古い記録の束を思い出した。タメクが長年つけてきた、仕事の日数や支給の記録。
「タメクさん、これ使えないですか?」
「何に使うんだ?」
「配給がいつも通り来ていた時の記録と、今回どれだけ遅れているか。数字で見せれば、役人も無視できないはずです」
タメクは驚いたように結を見つめ、それから記録の束をめくり始めた。
「これだけじゃ、心もとないな。……職人仲間にも、話をしてみる」
タメクはそう言うと、記録を小脇に抱えて立ち上がった。
「私も、ついて行きます」
結が言うと、タメクは少し意外そうな顔をしたが、何も言わずに頷いた。
タメクが仕事仲間の家を一軒一軒回り、事情を説明して回る間、結は少し離れたところで、その様子をじっと見守っていた。
最初は渋い顔をしていた職人たちも、タメクの持つ記録を見せられ、言葉を重ねられるうちに、次第に表情を変えていった。
誰かが小さく頷き、また別の誰かが腕を組んで唸る。声は聞こえなくても、少しずつ事態が動き出しているのが、結にもわかった。
翌日、結はタメクや職人仲間数人と共に、村の記録係の元へ向かった。役所へ向かう道中、足がすくみそうになる。震える手を、結は自分の反対の手でそっと押さえた。
――大丈夫。一人じゃない。
隣を歩くタメクの顔を見ると、少しだけ落ち着いた。
タメクの横顔にも、隠しきれない緊張が滲んでいた。けれど、その強張った表情を見た瞬間、結の中の怖気づいていた部分が、不思議と静まっていく。自分一人だけが怖いわけじゃない。そう思えたことが、何よりの支えだった。
振り返ると、メリトや井戸端の女たちも、遠巻きに見送ってくれていた。
――怖い。それでも、やろう。
誰も、何も言わなかった。それでも、隣を歩くタメクや、後ろに続く職人仲間たちからも、同じ覚悟が静かに伝わってくる気がした。結は一つ息を吸うと、まっすぐ前を向いた。
「配給が、十八日も遅れています。これが、これまでの支給記録です」
記録係は最初、面倒そうな顔をしていたが、数字を突きつけられると、次第に表情を変えていった。
「言いたいことはわかる。だが、この記録だけでは、上を完全に納得させるには弱い。もっと確かな……昔から抜けのない帳簿があれば話は別だが」
その言葉に、結は肩を落とした。せっかく一歩を踏み出したのに、あと少しのところで手が届かない。
悔しさが、じわりと胸に広がる。それでも、ここで諦めたら、きっと何も変わらない。
まだ、自分にできることがあるはずだ――そう思うだけの意地は、結の中にまだ残っていた。
「今日のところは、わずかだが融通しよう。だが、根本の解決には、より正確な帳簿が必要だ」
その日の夕方、村にはほんのわずかな穀物だけが届いた。焼け石に水ほどの量だったが、それでも、何もないよりはましだった。
***
「あんたが、声を上げたおかげだ」
タメクの言葉に、結は首を振った。
「まだ、何も解決してません。もっと確かな証拠が、何かあればいいんですけど……」
その夜、結は思い切って、もう一度トキを呼んでみた。
「トキ」
「今日の成果はどうだった?」
挨拶も前置きもなく、トキはいきなり本題に入ってきた。
「あと一歩が、どうしても届かないの。もっと確かな証拠があればって言われたけど、何を探せばいいのか、わからなくて」
トキはしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「今回は見てるだけの予定だったけど。ーーまぁ自分たちで一つ踏み出したからヒントを一つ」
「ありがとう」
「こういう時は、前例を探すといい。過去に同じような問題が起きた時、誰がどう乗り越えたか。記録は、案外、いろんなところに残ってるものだよ」
「前例……」
その一言を聞いた瞬間、結の頭の中に、あの日の井戸端の噂話が蘇った。
――前にもね、今日みたいに配給が遅れたことがあったのよ。
――あの二人が乗り出してくれてねえ。アセム様と、月様が。
「そうだ……」
結は思わず声を上げた。
「前に、この村でも同じことがあったって、女の人たちが話してた。その時、アセムって書記の人が、几帳面な帳簿で役人を説得したって」
「――あの井戸端の話、よく覚えてたね」
トキは楽しそうに、目を細めた。あの日の噂話の場に、トキも居合わせていた。
結が思い出していたことが嬉しそうだった。
「その帳簿、まだどこかに残ってるかもしれないね」
「探してみる」
結は、はっきりと言った。メリトや井戸端の女たちなら、きっと詳しいことを知っている。この数か月、この村で積み重ねてきた関わりが、初めて、はっきりと形になる予感がした。
「トキ」
「ん?」
「ありがとう。答えじゃなくて、ヒントをくれて」
トキは少し驚いたように結を見て、それから、いつもの調子で笑った。
「どういたしまして」
夜風が、村の甍を静かに撫でていった。まだ配給問題は解決していない。それでも、結の中には、これまでにない確かな手応えがあった。
*(第18話 了)*




