第19話 アセムの置き土産 (エジプト編 8)
「アセムの帳簿、か」
タメクが顎に手を当てて呟いた。
「そういえば……前にこの村にいた書記のアセムが、随分几帳面に帳簿を付けていたと聞いたことがある。神殿の書庫に、写しが残っているかもしれん」
メリトも一緒に来てくれることになった。
「あたし、神官様の奥さんと顔馴染みなの。話くらいは通せると思う」
「メリトさんがいてくれると、心強いです。ありがとうございます」
結が言うと、メリトは満更でもなさそうに、鼻の頭を掻いた。
「そんな、大したことじゃないって。パウアなら、仲良しのおかみさんに預けてきたから、心配いらないよ」
神殿の書庫は、ひんやりと薄暗く、古い記録の匂いが澱のように染みついていた。灯りといえば天井近くの小さな明かり取りから漏れる光だけで、棚の奥は闇に沈んだまま、何が眠っているのか見当もつかない。埃っぽい空気を吸い込むたび、喉の奥がざらつくような気がして、結は思わず身をすくめた。
管理をしている神官は、最初、結たちの願いに露骨に顔をしかめた。
「配給の記録の写しだと? そう易々と見せられるものではない」
「お願いします。今、村がどれだけ困っているか、あなたもご存知のはずです」
神官の妻が、隣から静かに口添えした。
「この人たちは、村のために動いてくれているの。少しの間だけでいいから、力を貸してあげて」
妻の言葉に、神官はしばらく渋い顔をしていたが、やがて根負けしたようにため息をついた。
「……仕方ない。奥までだ。荒らすんじゃないぞ」
神官はそう言うと、四人を書庫の奥まで案内してくれたが、案内を終えるとすぐに「後は好きにしろ」とばかりに、自分の勤めへ戻っていった。残ったのは、タメクと結、メリト、そして神官の妻の四人だった。
「この辺りの箱は、もう何年も開けていないはずだ。目当てのものが見つかるかは、正直わからんぞ」
四人は埃をかぶった木箱を一つひとつ開けては、目を凝らして中を確かめていった。確かめ終えた箱は、崩れて中身が傷まないよう、丁寧に元の場所へ戻していく。
大切な記録だとわかっているからこそ、一つひとつの扱いにも自然と気を遣うようになっていた。
メリトと神官の妻は、すべての文字が読めるわけではなかったが、この村では子供の頃から簡単な数字や記号を教わる習わしがあり、帳簿を見分けるくらいはできた。
それでも細かな中身までは読み解けず、その都度タメクや結に確かめながら箱を開けていった。
何十個目を開けたか、もう結には分からなかった。書庫の明かり取りから差し込む光は、いつの間にか橙色に変わっている。腕も目も疲れ切って、四人とも口数が少なくなってきた頃だった。
――もう、ないんじゃないか。
そんな考えが、誰の口からともなく、重く垂れ込め始めていた。
何十という木箱を開けても、目当ての帳簿は出てこない。埃を吸うたびに込み上げる咳を押し殺しながら、結は次第に、指先の感覚さえ怪しくなっていくのを感じていた。
「ごめん、あたし、そろそろ戻らないと」
メリトが、申し訳なさそうに手を止めた。
「パウアを預けっぱなしにするのも悪いし……ここまで来て、力になれなくてごめんね」
「私も、そろそろ夕餉の支度をしないと。ごめんなさいね」
神官の妻も、済まなそうに腰を上げた。
「ううん、お二人とも、十分すぎるくらい、力になってくれました」
結はそう答えたけれど、メリトと神官の妻が去っていく足音が遠ざかると、書庫の中はさらに静まり返った気がした。二人になった心もとなさが、募る不安に拍車をかける。本当に、ここにあるんだろうか。
残されたタメクと結は、それからも黙々と作業を続けた。どちらも口には出さなかったけれど、諦めかけている空気だけは、嫌でも伝わってくる。どれだけ木箱を開けても、アセムの帳簿は一向に出てくる気配がない。
「……今日のところは、ここまでにしよう。また明日、来ればいい」
タメクがぽつりと言った。結も、正直そう思い始めていたところだった。せめて、あと一つだけ。そんな思いで、結は最後にもう一つ、隅に転がっていた木箱に手を伸ばした。
「あった……これだ!」
タメクの声が、書庫の中に大きく響いた。震える指先で、古い箱の底から一つの帳簿を引っ張り出す。
帳簿を開くと、几帳面に並んだ文字と数字が、薄暗がりの中でもはっきりと目に飛び込んできた。日付、量、担当者の名前――一目見ただけで、長年丁寧に付けられてきたものだとわかる、整然とした書きぶりだった。
「すごい……」
結はその帳簿を、そっと手に取った。指先が触れた瞬間、なぜか胸の奥が、じん、と熱くなった。嬉しいような、それでいて少し怖いような、うまく名前のつけられない感覚だった。
「タメクさん、すごいです! 本当に、見つかったんですね」
「何度も、もう駄目かと思ったがな」
タメクも、疲れの滲む顔に、安堵の笑みを浮かべた。
「諦めないで、良かった」
これで、村の皆が救われるかもしれない。そう思うと、結の胸に、じんわりとした安堵が広がっていった。
改めて帳簿に書かれた文字を追う。
「これが、あの噂の……」
結は思わず呟いた。
「正確で丁寧な仕事だ・・・几帳面な性格なんだろうな」
タメクも、感心したようにその書きぶりに見入っていた。
***
けれど、書庫を出る頃には、すでに日はとっぷりと暮れていた。
「これから持って行っても、今日はもう門前払いだろう。明日、出直そう」
タメクの提案に、結も頷いた。その夜のうちに、タメクは再び職人仲間の家を回った。帳簿が見つかったこと、明日改めて記録係に掛け合うことを伝えるためだった。
翌朝、結がメリトの家に立ち寄ると、神官の妻もちょうど来ていて、二人とも我がことのように喜んでくれた。
「見つかったのね! 良かった、本当に!」
メリトが結の手を取って、飛び跳ねんばかりに喜んだ。
「あたしたちも、あの書庫で帳簿を探すのが、どれだけ大変だったか知ってるもの。よく諦めずに見つけたわね」
神官の妻も、しみじみと頷いた。
「メリトさんと奥様が、一緒に探してくださったおかげです」
結が言うと、二人は照れくさそうに顔を見合わせた。
結はタメクや職人仲間たちと共に、今度こそという思いを胸に、記録係の元へと向かった。
「これを見てください。何年も遡って、配給の実績が全て記録されています。今回の遅れが、いかに異例かは、これで明らかです」
記録係は帳簿をめくり、その正確さに目を見張った。
「……これは、確かに動かしがたい証拠だ。すぐに上へ掛け合おう」
その日のうちに、正式な配給の再開が決まった。村中に安堵の空気が広がる。
「あんたとタメク殿のおかげだ」
村の長老がそう言うと、結は慌てて首を振った。
「アセム様と月様の力が大きいです。本当は、このお二人の功績なんです。それにメリトさんと神官の奥様も一緒に探してくれました」
そう答えながらも、結の頭の中には、あの帳簿を記した人物のことばかりが浮かんでいた。
***
夕方、水路のそばに一輪だけ咲いていた青い睡蓮を眺めながら、結はタメクに尋ねた。
「アセムさんって、どんな人だったんですか」
「俺も直接は知らんが……几帳面で、誰にでも公平だったと聞く。それに、仕事場にはいつも、青い蓮の花を一輪、飾っていたそうだ」
その言葉に、結の視界が、じわりと滲んだ。
――やっぱり、ソウだ。
断定するには、証拠がない。けれど疑いようのない確信が、胸の底からこみ上げてくる。それと同時に、井戸端での女性達の声が、また耳の奥をかすめた。
――お二人は、それはもう、息の合ったご様子で。
知りたいのに、知るのが怖い。結はこの続きを考えないようにしようと、寝床の中でぎゅっと目を閉じた。
けれど、眠りに落ちる寸前、結の閉じたまぶたの奥に、抗うすべもなく、声が響いた。
「――結」
誰かが自分を呼ぶ、その声。名前も、姿も、まだはっきりとは思い出せない。低く、少し掠れていて、それでいてどこか優しい声だった。
怖いのに、思い出したい。涙が溢れた。
忘れていた方が楽だと思う。それなのに心のどこかは、ちゃんと覚えている。それが嬉しいのか、苦しいのか、結にはわからなかった。ただ、声の余韻だけを、闇の中でじっと追いかけていた。
もう一度聞きたくて、耳を澄ませても、声はそれきりだった




