第20話 再会の準備 (エジプト編 9)・エジプト編最終話)
タメクの筆が、ついに壁の上を滑らかに動くようになっていた。妻の顔は、木片に描いた小さな下絵から、少しずつ壁いっぱいの姿へと広がっていく。
「見てくれ、結」
タメクが振り返った。壁には、来世で再会を果たす貴人夫婦の絵。その妻の顔には、確かに、慈しむような微笑みが宿っていた。
「綺麗……」
「あんたのおかげだ」
タメクは、壁に描かれた妻の顔を、まぶしそうに見つめた。
「あんたと話すうちに、少しずつ思い出していったんだ。目の形だけじゃない。得意げに笑う顔、市場で値切って怒った顔、拗ねた顔……その時々の気持ちまで、一緒にな。思い出せたから、ようやくこうして描けた」
タメクの声は、初めて出会った時の刺々しさなど、もうどこにもなかった。
「思い出すことが、怖くなくなったんですか、もう」
結が尋ねると、タメクは少し考えるように筆を置いた。
「怖くても、思い出す方を選べるようになった。これからは、今まで忘れてた分も思い出したい。それだけだ」
その一言が、結の胸に静かに刺さった。
――怖くても、思い出す方を選ぶ。
ソウのことを考えるたび、いつも目を逸らしてきた自分に、タメクの言葉はまっすぐ刺さった。忘れたままでいる方が楽なのは、結だって同じだった。
だからか、その一言が小さな灯りのようにも感じる。私にも、思い出すことを選べる日が来るのかもしれない。そんな予感が、静かに胸に残った。
工期ぎりぎりで壁画は完成し、村には安堵の空気が流れた。完成した壁の前で、ささやかな封印の儀式が執り行われる。神官の唱える言葉と共に、香の煙がゆっくりと立ち上っていった。
「死者は西の彼方で、また会える」
祭司の唱える言葉に、結は自分の旅を重ねずにはいられなかった。もう会えない人達を想いながら、それでも歩き続けるということ。
***
その数日後、珍しくトキの方から先に姿を見せた。
「結。そろそろ、次の時代に行く頃合いだ」
トキは静かにそう告げた。皆んなに別れを告げる時間をくれるつもりなのか、いつもより幾分か穏やかな声だった。
「……そっか。わかった」
結は小さく頷いた。心の準備をする時間が出来たことにほっとした。
***
荷物をまとめる結の手元を、タメクがじっと見つめていた。
「もう行くのか」
「はい。……お世話になりました」
「礼を言うのはこっちだ。結が来なけりゃ、俺はまだ、あの壁の前で立ち尽くしたままだった」
タメクは少し照れくさそうに、結に小さな木彫りの護符を握らせた。
「餞別だ。大したものじゃないが」
「ありがとうございます。……タメクさんも、奥さんのこと、ずっと覚えていてあげてください」
「言われなくても、そうするさ」
しっかりと握り締めた護符を見て、結ははたと気づく。――これも、持っていけない。
メソポタミアからの旅で、幾つもの物を手放してきた。時代を越える時には、その時代のものを持っていけない。今度もきっと、同じだ。
結はそっと護符を懐にしまった。
メリトとパウア、村の人達も見送りに来てくれた。
「ゆいちゃん、いっちゃうの?」
パウアが結の裾を引っ張って、泣きながら見上げてくる。
「うん。でも、パウアと遊んだこと、ずっと覚えてるから」
「やだ! ゆいちゃん、いかないで!」
パウアは結の裾をぎゅっと握りしめ、首を振った。その小さな手の力の強さに、結の胸も締めつけられる。パウアに行かないでと泣かれると、決心が鈍ってしまう。離れがたい気持ちが、じわりと込み上げてきた。
「こら、パウア」
メリトが、しゃがみ込んでパウアと目線を合わせた。
「ゆいちゃんには、行かなきゃいけないところがあるの。パウアが泣いていたら、ゆいちゃんも悲しくなっちゃうでしょ。ほら、ちゃんとバイバイしよう」
パウアはしばらく結に抱きついていたが、メリトに抱っこされて渋々といった様子で結から離れた。
「……ぼくも、わすれない!」
パウアがポロポロと涙をこぼしながら、なんとかそう言ってくれた。その顔に、結も思わず目頭が熱くなる。
「元気でね。ケンナさんも、きっともうすぐ帰ってくるから」
「あんたのおかげで、この村がどれだけ助かったか」メリトが結の手を握った。「あたしたちのことも、忘れないでね」
「忘れません。絶対に」
村の女たちや職人仲間も、口々に別れの言葉をかけてくれた。数か月前、右も左もわからずこの村に来た時とは、まるで違う様子だった。
「皆さんのこと、ずっと覚えています」
その言葉に、噓はなかった。
***
村を出る前、結は一人、村はずれの小さな祠に立ち寄った。彩色の剥げかけた壁と、いつか見たあの意匠が刻まれた場所。
結は懐からタメクの護符を取り出し、そっと祠に納めた。
「――ここに、置いていきますね」
誰に言うでもなく呟いて、結は静かに手を合わせた。
タメクさん、ありがとうございました。せっかく頂いたのに、持っていけなくてごめんなさい。それでも――どうか、これからもタメクさんを、メリトさんを、パウアを、この村の皆を、見守っていてください
***
ナイルの入り江に立ち寄り、結は青睡蓮を一輪、摘み取ろうとしてやめた。
「持っていけないんだよね、これも」
「うん。でも一度心に刻まれた記憶は忘れることがないよ」
いつの間にか隣に立っていたトキが、静かに言った。心なしか、少し疲れているようにも見えた。ここのところ、また何日か姿を見せない日が続いていたことを、結はふと思い出した。
「トキ、随分長い間出かけていたね」
「まあね。……予定外の事が重なってしまって」
トキはそれ以上語らず、いつもの軽い調子に戻った。
「離れていると、俺のありがたみが分かるだろう」
「うーん。……さあ、どうだったかなぁ」
結はわざとそっけなく返した。
「そっけない態度でも俺がいなくて寂しかったのは、よくわかってるよ」
いつもの軽口を叩いて、憎たらしいほど綺麗に笑った。
思わず目が奪われる。
うっかり、見惚れてしまった事は悟られないようにして、トキに尋ねる。
「トキは皆に別れの挨拶はしなくていいの?」
「俺がいたら、皆、俺の方に集まるだろ。それじゃ、結がゆっくり別れを言えないじゃないか」
さらりと言われて、結は半眼になった。それはトキの言う通りだろうけど、そんなことをさらっと言えてしまうのが、なんというか・・・。トキはトキだなぁと思う。
「気遣ってくれたんだね。優しいねトキありがとう」
結は心のこもっていない、棒読みのお礼を、にこやかに述べる。
「やっと気づいてくれたんだ。俺はいつだって最大限の心遣いで接してきたのに」
トキも笑顔でしれっと返した。
少し雰囲気が和らいだところで、結はふと思い出したように尋ねた。
「それはそうと、エジプトについた最初の日に、調べたい事があるって言ってたよね。あれはどうなったの」
トキは意外そうに目を見開いた。
「よく覚えていたね。あれから色々あったのに」
「うん。いつ聞こうかなって、ずっと思ってたから」
「ああ……。そうだな。これは結にも関わる事だから、話そうとは思っている」
トキは少し声のトーンを落とした。結を見つめて思案顔でしばらく考える。
結は自分にも関わる事だと言われてドキッとした。
「だけど、次の時代まで待ってほしい。もう少しだけ様子を見ていたいから」
トキにしては、少し歯切れが悪い気がする。しかし結はこれ以上聞くのをやめた。話す時がきたら、教えてくれるはずだから。
もう一つ気になっていた事を聞いてみる。
「アセム様って・・・・・・ソウ、だよね?」
トキは何も言わずに、続きを待っている。
「月様・・・って名前も・・・知っている気がする」
結は一度言葉を切ると、自信なさげに、それでいてどうしても聞かずにはいられない、というように、迷いながら続けた。
「ソウと月って・・・・・・私とどういう関係だったか知っている?」
優しく真剣な面持ちで、トキは結の言葉に耳を傾けていた。ただ静かに。
結もそれ以上は言葉にならず、黙り込んでしまった。
「それは、結の記憶の大切なところだよ。自分で思い出した方がいい。誰かに、答えを教えてもらう事ではないよ」
結は、小さく息を呑んだ。トキなら、そう言うだろうなという気がしていた。でも、ほんのちょっとだけ期待していた。答えを教えてくれるんじゃないかと。
「例えば俺が、『ソウと月は結とは全く関係ない赤の他人だよ』って言ったとする。結がその言葉を信じたとしたら――全く違う人生になってしまうだろう」
トキの声には、いつもの軽さがなかった。結もまた、その重みを黙って受け止めるように、しばらく俯いたまま動けずにいた。
「ごめん、そこまでちゃんと考えてなかった」
トキは、責めるでもなく、ただ柔らかく目を細めた。
「うん。分かってる。人に意見を求めるのはいい事だよ。最後の決断は自分でするしかないけど」
トキは結の頭に、ぽんと軽く手を乗せた。それから、ふっと表情を緩めて続けた。
「やることは変わらないよ。記憶は必ず思い出す日が来る。そして、辛い事だって、結の人生を作る重要な要素だよ」
その一言に、結は少しだけ息がしやすくなった気がした。
自分から手放した、辛い記憶が戻ってきても自分の糧にできる日が来る……のかもしれない。それは、小さな希望だった。
「トキ、返事はなくていいから聞いて欲しいんだけど・・・・。タメクさんは、ずっと奥さんとの事を思い出すのが怖いって言ってたの。私も共感してた。」
結は一度言葉を切った。何と言えばいいのか、少しの間、言葉を探すように俯く。
「だけど、怖くても、思い出す方を選ぶって。それで、私も・・そうなりたいなって思ったんだ」
そう言って、結は顔を上げた。少し照れくさそうに、頬を緩めて。
トキは、何も言わなかった。ただ柔らかな表情で結の話に耳を傾け、最後に小さく頷いた。
「行こうか。次の時代へ」
トキが手を伸ばす。結はその手を握り返す。タメクの、メリトとパウアの、村人たちの顔を、もう一度胸に刻んだ。まだ晴れない胸の疼きも、一緒に抱えたまま。
視界が白く弾けた次の瞬間、遠くから、雅やかな楽の音が聞こえてきた。
エジプト編 完
次回はエジプト編の番外編です




