番外編 休息日の記録 ガチョウを追うネコ (エジプト編・番外編)
デイル・エル・メディーナの朝は、いつもより静かだった。
石を打つ音も、粉を挽く音も、今日は聞こえてこない。十日に一度巡ってくる、村の休みの日だ。
「結、ちょっと手を貸してくれ」
タメクに呼ばれて工房を覗くと、彼は棚いっぱいに積まれた石の欠片を前に、腕を組んでいた。
「これ、全部……何ですか」
「オストラコンだ。石灰岩の欠片や、割れた壺の破片。紙代わりに使うんだ」
拾ってきた欠片に炭や顔料で文字や絵を書きつけて、使い終わればまた次を拾う。パピルスよりずっと安く、村中どこにでも転がっている書き損じの山、ということらしい。
「片っ端から整理してくれ。いるものと、いらないもの、分けるだけでいい」
言われるまま、結は一枚一枚めくっていった。仕事の日数の覚え書き。麦の貸し借りの記録。誰かの下手な文字の練習跡。地味な作業だったが、四千年前の暮らしの断片に触れているようで、指先がどこか浮き立った。
そのうちの一枚に、結の手が止まった。
「……タメクさん、これ」
差し出した欠片には、二本足で立った猫が、杖を担いでガチョウの群れを追い立てている絵が描かれていた。猫の顔は、やけに得意げだ。
「ああ、これか」
タメクは欠片を受け取ると、珍しく声を立てて笑った。
「若い連中がよく描くんだ。猫がガチョウの番をするなんて、ありえない話だからこそ面白い、ってことらしい」
「誰が描いたんですか、これ」
「さあな。下描きの練習の合間に、退屈しのぎでやるんだ。……俺も、若い頃はよく描いた」
「タメクさんも!?」
「ネズミが玉座に座って、猫にかしずかせてる絵を描いて、親父にこっぴどく叱られたことがある」
想像すると、結は思わず吹き出した。厳めしい絵師という今のタメクの姿と、悪戯っぽい若者だった頃の姿が、うまく重ならない。
「見てみたいです、その絵」
「もう残っちゃいない。……いや、待てよ」
タメクは棚の奥をごそごそと探り、色褪せた欠片を一枚引っ張り出した。玉座に座ったネズミに、猫がかしこまって仕えている絵。
「すごい……本当にあった」
「捨てられなかったんだよ、なぜかな」
タメクは照れくさそうに、その欠片を棚の一番奥へそっと戻した。
***
昼過ぎ、水を汲みに出た結は、井戸端で聞き覚えのある笑い声を拾った。
「トキ!」
「結。休みの日に精が出るな」
「相変わらず囲まれてるじゃない」
女たちに囲まれたトキは、今日も飄々としていた。
その中の女性が結に話しかけてきた。
「聞いてよ結、パネブさんたら、また『さそりに刺された』って休んでるのよ。今月に入ってもう三度目」
「三度目!?」
「二度目までは同情したけど、三度目はさすがにねえ」
女たちがどっと笑う。トキも一緒になって笑いながら、結にだけ小さく耳打ちした。
「――たぶん、ビールの飲みすぎだよ、あれ」
「なんでそんなことわかるの」
「顔でわかる」
しれっと言うトキに、結はあきれながらも、つい笑ってしまった。
「そういえば、休みの日は何をしてるんだ」
「今日はタメクさんに、盤遊びを教えてもらうことになってる」
「へえ。楽しそうだな」
トキはそう言うと、女たちの輪へまた引き戻されていった。結は水がめを抱え直し、家路についた。
家に戻ると、タメクが夕餉の支度をしながら、ぽつりと言った。
「今夜、時間はあるか」
「はい」
「なら、約束通り、盤遊びだ。……あんたに教えてやろう」
その口ぶりには、珍しく子どもっぽい張り切りが滲んでいた。




