番外編 休息日の記録・後編 視えない相手との盤上遊び (エジプト編・番外編)
夕餉を終えた後、タメクは奥の部屋から、細長い木箱を運んできた。
「これが、盤遊びの道具だ」
蓋を開けると、三十の升目が三列に並んだ木の盤と、駒、それに平たい木の棒が四本、出てきた。
「セネトっていう。サイコロの代わりに、この棒を投げる」
「棒が、表か裏かで数を数えるんですか」
「そうだ。呑み込みが早いな」
タメクは棒を四本まとめて放った。かたん、と乾いた音が響く。表になった数を数え、駒を進める。
「じゃあ、次はあんたの番だ」
見よう見まねで棒を投げ、結は自分の駒を進めた。二十六番目の升目に止まる。
「あ、ここ、何かあるんですか」
「『水の家』だ。運が悪いと、駒が戻される。……ちなみに、あんたは運が悪い」
言うが早いか、結の駒はするりと後退させられた。
「ええっ、振り出しに戻っちゃうの!?」
「セネトの、水の家はそういう決まりだ」
「タメクさん、容赦ないですね……」
「勝負は勝負だ」
穏やかな絵師の顔が、盤を挟んだ途端、妙に真剣になる。結はその変わりように、思わず笑ってしまった。
***
何度目かの対局で、結の駒はまた「水の家」に沈んだ。
「うそでしょ。また!?」
「あんた、水の家との相性が良すぎる。呪われてるんじゃないか」
「呪わないでください」
くすくす笑いながら盤を見つめていると、タメクがふと、駒を並べる手を止めた。
「……この遊びは、死んだ者が冥界を渡っていく道のりを表しているとも言われている」
「え」
「升目の一つひとつが、通り抜けなきゃならない関門だ。無事に渡りきれば、また会いたい者に会える、と」
タメクの声が、少しだけ低くなった。
「嫁とも、よくやったよ、これ。……あいつは、俺よりずっと上手くてな。いつも負かされていた」
「そうなんですね」
「負けるたびに悔しかったが、だが今思えば、あれも、悪くない時間だった」
タメクは駒を指先で軽く撫でると、静かに続けた。
「妻の顔を描き上げてから、思い出すことが、増えた気がする。……不思議なもんだな」
その横顔には、以前のような苦しさではなく、凪いだ穏やかさがあった。結は何も言わず、ただ小さく頷いた。
その時だった。
「にゃあ」
足元に、家の猫がするりと現れたかと思うと、盤の上を悠々と横切っていった。駒が数個、ばらばらと転がる。
「あっ、こら!」
「……これは、いい迷惑だ」
タメクが呆れたように呟くと、猫は素知らぬ顔で結の膝に飛び乗り、丸くなった。
「今日、ガチョウを追う猫の絵、見ましたけど」
結は猫の背を撫でながら、笑いをこらえきれずに言った。
「現実の猫は、盤遊びの邪魔をするだけみたいです」
「違いない」
タメクも声を立てて笑った。転がった駒を拾い集めながら、二人はしばらく、猫の勝手気ままな振る舞いを肴に笑い続けた。
***
駒を片付け終える頃には、夜もすっかり更けていた。
「また、一緒にやりましょう。今度こそ、水の家を避けてみせます」
「無理だと思うがな。あんたには」
「次こそは、勝ちますから」
軽口を交わしながら、結は木箱の蓋を閉じた。ふと、盤の上で何度も駒を戻されたことを思い出す。負けて、悔しくても、誰かとこうして一つの盤を挟んで笑い合う時間は、悪くない。
星の少ない乾いた夜空の下、猫が一匹、結の足元に寄り添うように歩いていった。、
*(番外編・後編 了)*




