番外編 市場の一日・前編 女たちの店 (エジプト編・番外編)
「ゆいちゃん、今日は市場の日よ」
朝、洗濯物を抱えたメリトが、待ちきれない様子で結の家の戸を叩いた。
「市場、ですか」
「村の入り口のとこ。十日に一度、川向こうの村や、隊商が品を持ち込んでくるの。今日はあたしも、店を出すつもり」
「メリトさんが、お店を?」
「毎回じゃないけどね。今日は、ゆいちゃんも手伝ってくれると助かるわ」
タメクに断りを入れると、「行ってこい」とだけ言われた。近頃は、結が村の噂を持ち帰ることを、むしろ楽しみにしている節がある。
村の入り口、ナイルの河岸近くに広がる一角には、すでに何人もの女たちがござを敷き、品物を並べていた。川魚、蜂蜜、香草、サンダル、粗末な家具。男たちの姿は少ない。
「うちの人は、王家の谷にこもりっきりだもの。市場のことは、あたしたち女の仕事よ」
メリトはそう言って、腕まくりをした。
***
「今日は、これを売るの」
メリトが広げたのは、結が手伝って焼いたパンと、結が繕った古着だった。
「私が繕った服、売り物になりますか」
「なるわよ。この村じゃ、器用な手は立派な稼ぎ口」
隣のござでは、顔なじみの女が干し魚を並べながら、値切りに来た客と大声でやり合っていた。
「その魚、傷んでるじゃないか。デベンにして半分でいいだろう」
「なに言ってんの、今朝獲れたばかりだよ。びた一デベンもまけないから」
そんな怒鳴り合いも、しばらくすると笑いながら手打ちになる。この村では、貨幣というものがない。銀貨も銅貨も存在せず、あらゆる品の価値を「デベン」という重さの単位に換算し、手持ちの品と品とを組み合わせて支払う。魚と麦、布と壺、時には労働そのものと引き換えに、物と物が行き交っていく。
「デベンって、難しいですね」
「慣れよ、慣れ。銅の重さがだいたい一デベン。あとは、この壺は何デベン、この魚は何デベン、って頭の中で換算するだけ」
メリトは事も無げに言うが、結にはまだその感覚がつかめなかった。
***
「そのパン、いくらだい」
最初に声をかけてきたのは、隣村から来たという老人だった。
「そうねえ……このパン一つで、半デベンってとこかしら」
メリトが即座に値をつける。
「そりゃ高い。麦一掴みと交換でどうだ」
「麦一掴みじゃ、半デベンには届かないわよ。あと少し、何か足してくれる?」
老人はしばらく唸った後、腰の袋から小さな干し無花果を取り出した。
「これでどうだ」
「上等。それで手を打つわ」
あっという間に商談成立、パンと引き換えに麦と無花果を受け取る。結はその手際に、ただ感心するばかりだった。
「ゆいちゃんの繕った服、見て見て」
メリトが結の仕上げた古着を広げると、若い女が目を留めた。
「あら、丁寧な繕いね。誰がやったの」
「私です」
「へえ、器用なのね。……これ、卵と交換してくれない? うちの鶏、たくさん産むのよ」
「卵、何個くらいですか」
結が尋ねると、女は少し考えて指を三本立てた。
「三個でどう」
「いいですよ」
初めて自分の手で成立させた取引に、結の胸がじんわりと熱くなった。小さな稼ぎだったが、確かに自分の力で得たものだった。
「筋がいいじゃない、ゆいちゃん」
メリトに褒められて、結は照れくさく笑った。
***
昼を過ぎ、日差しが強くなる頃、市場の端で、聞き覚えのない男の声が響いた。
「上等な木材だ、こんな値じゃ売れんな」
見慣れない身なりの商人が、村の女の一人と何やら揉めている様子だった。
「あの人、初めて見る顔ですね」
「川向こうから来た商人よ。……ちょっと、評判がよくないのよね」
メリトが声を落として言った。その横顔に、わずかな警戒の色が滲んでいた。
結はその商人の方を、思わず見つめた。何か、嫌な予感がした。




