第25話 文のやりとり (平安編 5)
「小夜、小夜。ちょっと来て」
御簾の内から姫君の慌てた声がしたのは、出仕してひと月ほど経った朝だった。
几帳の陰に入ると、姫君が文机の前で頭を抱えていた。目の前には、美しい薄様の紙。焚きしめた香の匂いが、ふわりと漂ってくる。
「お文、ですか」
「そう。返しを書かないといけないの。今日中に」
聞けば、さる家の公達から歌が贈られてきたのだという。この時代、歌の返しは早さと機知が命で、遅れれば「気が利かない」、下手であれば「教養がない」と噂される。
「でも私歌が苦手で・・。前もそれで、笑われて」
姫君の声が、途中で小さくなった。結の胸が、つきりと痛む。笑われるのが怖くて、動けなくなる。その感覚を、自分はよく知っている気がした。
けれど、今は自分のことより、姫君のことだ。結は小さく息を吸って、顔を上げた
「姫様は、この方のこと、どう思っていらっしゃるのですか」
「え?」
「まず、それが知りたいです」
御簾の内で、姫君がしばらく黙った。
「・・・・嫌いでは、ないと思う。文の字が、丁寧だから。焦って書いてない字。ゆっくり、私に読めるように書いてくれてる気がする」
「あの・・それをそのまま詠んだらいかがでしょう」
「そのままって・・そんな歌、聞いたことない」
「上手に書こうとするより、本当のことの方が、きっと届きます」
けれど、いざとなると、何も浮かんでこなかった。歌自体は昔からたくさん覚えているのに、いざ自分で言葉を紡ごうとすると、何も出てこない。
「あの、歌の方は……その、私も得意ではなくて。詳しい方をこちらにお呼びしましょうか」
結が思い切って呼びに行ったのは、局で一番歌の評判が高い女房、右近だった。事情を話すと、右近は扇の陰で小さく笑い、快く姫君の御前まで来てくれた。
「あら、そのままの言葉を歌になさりたいのね。それなら――」
右近が教えてくれたのは、平安風の伝え方のこつだった。
「『字が丁寧で嬉しい』なんて、そのまま言ってはいけませんよ。字は、その人の心そのもの。『あなたの文字を見ているだけで、まるでお姿が目に浮かぶようです』というように、筆跡をその方の人となりに重ねて詠むの。
それに、相手の歌に使われた言葉――例えば『燃える想い』とあれば、こちらは
『その熱さで、私の心まで溶けてしまいそう』
というように、同じ言葉を受け取って返す。それができて初めて、心得のある姫、と思っていただけるのよ」
姫君と結は、目を丸くして聞き入っていた。
「そんな、難しいこと……」
「難しく思えても、根っこにあるのは姫様の本当のお気持ちですもの。飾りは、私がお手伝いします」
右近の話を聞きながら、結の心に浮かんだのは、メソポタミアで大切な人へ向けて粘土板に手紙を刻んだ、あの夜のことだった。上手い言葉なんて一つも書けなかった。それでも、あれは確かに、本当の言葉だった。
右近の手を借りながら、姫君はもう一度筆をとった。飾らない、けれど正直な歌が一首、ゆっくりと紙の上に生まれていく。
その日の夕方、局に戻る渡り廊下で、先輩の女房たちが噂話をしているのが聞こえてきた。
「ねえ、聞いた? 大納言様の姫君に、漢籍を教えに通ってる方」
「ああ、あの『青き君』?」
結の足が、止まった。
「大納言様が、姫君たちにも殿方に劣らぬ学識をと、特別にお呼びになったんですって。本来、女は漢籍などたしなまぬものなのに、物好きな話よね」
「学識が深くて、それはもう美しい方なんですって。長い髪を束ねて、男の方なのに、どこか涼やかで」
「どちらのお生まれなのかしら。誰も素性を知らないって」
——青き君。
その呼び名を耳にした瞬間、胸の奥で、何かが強く跳ねた。あの、メソポタミアの別れの日と同じ。ナイルのほとりで声を聞いた夜と同じ。理由より先に、心が反応していた。
「小夜さん? 顔色が」
「・・ごめんなさい。なんでもないです」
なんでもなくなんて、なかった。あおき、きみ。口の中で呟くだけで、鼓動が速くなる。
あおき、きみ・・・青き君、だろうか――。空の色の、青。
その夜、結は局の端から、暗い庭を眺めた。露草はもう花を閉じている。それでも、あの淡い青が瞼の裏に残っていた。
胸の奥の高鳴りは、まだ治まらない。
今までは、ソウのことを思い出そうとする度に、いつも怖さが先に立った。
エジプトでタメクと過ごした日々から、ずっと考えていたことがある。もしかしたら、ソウを思い出す時にいつも感じるあの怖さこそが、いつまで経っても思い出せずにいる本当の原因なのかもしれない。
――怖くても、思い出す方を選べるようになった。それだけだーー
タメクのあの一言が、今になってようやく、結自身の言葉として胸に落ちてくる。忘れたままの方が楽なのは、きっと今も変わらない。それでも、これ以上目を逸らし続けたら、一生このままな気がした。
自分から、会いに行ってみよう。
そう思った瞬間、初めて、怖さより先に、そんな気持ちが胸の中に生まれた。
だけど——会いに、行けるだろうか。女房の身で。顔も見られない、この都で。
この時代は、女から男のもとへ会いに行くことこそが、はしたないとされていた。
殿方が夜更けに女の局を訪ねるのは、当たり前のこと。
けれど、女の方から殿方に会いに行くとなれば、話はまるで違う。
御簾の内に留まり、殿方が訪れるのをただ待つこと
――それこそが、女性に求められる慎み深さの証だった。




