第24話 夜半の来訪者 (後編) (平安編 4)
「本当は夜の取次役は新人の仕事ではないのだけど、今は人手が足りないからやってほしいの。覚えるまで教えるから」
新参の自分に難しい役目が回ってきたのには、そんな事情があったらしい。
唯一の救いは、取り次ぎの役目が、結一人にずっと背負わされるものではないということだった。数人で一つの班を組み、数日のあいだ取次役を務める。数日が経てば、また別の班へと役目は引き継がれていく。
他にも身分の高い殿方が来られた時は、ベテランの高級女房が取次をされる。
そう言われても、安心できるものではない。夜になると先輩の女房たちが寝入ってしまう。結の取次役の夜は、いつも誰かを起こして尋ねることになった。
前の晩に起こしてしまった人を、また起こすのは気が引けて、つい別の女房を起こしてしまう。手伝うと言ってくれていた先輩たちも、夜中に起こされれば、さすがに迷惑そうな顔をする。
それでも、結なりに手を尽くした。明るいうちに局の中を歩き回って場所を覚え、他の女房たちに誰がどこで休んでいるかを尋ねて回る。暇を見つけては庭先の土に木の棒で、局の間取りと女房たちの寝所を書きつけた見取り図のようなものを描き、頭に叩き込んだ。
その甲斐あって、少しずつ、場所は頭に入っていった。夜中に誰かを起こす回数も、徐々に減っていった。
他の女房たちも、覚えるのが早いと驚いていた。
そう言われるたび、結の胸は少しだけ弾んだ。
この頃は場所を間違えることも少なくなってきたので、次のことを試してみたくなった。
”歓迎すべき相手なら、そっと忍び寄って耳打ちする。望まれない相手なら、やんわりと体よく追い返す”。あの、盾の役目。
――これが、出来るようになりたい。
けれど、そのためには、先輩たちと相手の男たちとの関係を、細かく知っていなければならない。
暗闇の中、殿方の声と名乗りを頼りに相手が誰かを判別する必要がある。
男の身分の高さ低さも覚えておくこと・・。
考えれば考えるほど、頭がこんがらがりそうだった。
自分では考えがまとまらないので、思い切って女房仲間に相談してみることにした。
「みんなの場所を覚えたら、次は、何をしたらいいですか」
女房仲間の一人が、教えてくれた。
「まずは、声を覚えることね。何度も通ってくる方の声は、自然と耳に馴染んでくるから」
「それに、姫様や、先輩方が、どなたを歓迎していて、どなたを苦手にしているか。それとなく、聞いておくこと」
「歌の良し悪しは……こればっかりは、慣れるしかないわね。何百首と聞いているうちに、わかるようになってくるものよ」
言われるままに、結は頑張ってみることにした。まずは声を覚えること。何となくでもいいから、歌の良し悪しを判別してみること。
夜、戸の外から声が聞こえるたびに、耳を澄まして覚えようとした。歌を詠みかけられれば、心の中で、こっそりその出来を推し量ってみた。
けれど、思うようにはいかなかった。
殿方の声は皆、似たような声に聞こえるし、なかなか判別がつかない。
歌の良し悪しなど、なおさらわからない。褒めるべきか、やんわり断るべきか、迷っているうちに、結局、兵衛や他の女房仲間に助けを求めることになる。それの繰り返しだった。
――こんなに難しいことを、みんな頑張って覚えたんだ。
自分にも、いつかできる日が来るのだろうか。まだ、想像もつかなかった。
「焦らなくていいのよ」
見かねた兵衛が、そう声をかけてくれた。
「私だって、一人でできるようになるまで、一年半以上かかったもの」
「一年半……」
気が遠くなりそうだった。けれど同時に、少しだけ、肩の力が抜けた気もした。
――急がなくていい。少しずつでいい。
何よりもまず、殿方の声を覚えることだ。結は、そこに狙いを定めることにした。
――自分が取次役でない夜も、起きていよう。殿方の声を聞こう。
幸か不幸か、戸口に一番近い場所で眠っているぶん、耳を澄ませば声は自然と届く。結は眠気と戦いながら、先輩女房たちのやり取りに耳を澄ませ続けた。
もっとも、どれだけ気を張っていても、気がつけばいつの間にか眠りに落ちている。そんな夜が、何度も続いた。
そんな夜を重ねるうち、結の耳は少しずつ、人の声を聞き分けられるようになっていた。
ある夜、戸の外から声が届いた。
「右兵衛佐と申します。小大輔はおいでか」
――左兵衛佐様だ。
結は、左兵衛佐が来たとおもった。小大輔が幾度となく心待ちにしてきた人。声を聞き分けられたことが、誇らしかった。
「お待ちしておりました。ただいまご案内いたします」
教わった通りにできた。喜びのまま、几帳の隙間へ足を踏み出しかけたとき。
「待って」
袖が強く引かれた。兵衛だった。
「違う。今のは、右。 右兵衛佐様よ」
囁き声が、鋭く静止をかける。結は、息を止めた。
兵衛は結の腕をつかんだまま、戸口の脇にあった灯台をそっと近づけた。淡い灯りに浮かんだ顔は、見覚えのないものだった。
「あいにく、小大輔は今宵、深くお休みでございます」
兵衛の声は、いつもと変わらず落ち着いていた。男は特に気にする様子もなく、それだけで戸口を離れていった。
足音が遠ざかっても、結はしばらく動けなかった。
「危なかったわね」
「わたし……もう少しで」
声が震えた。兵衛がいなければ、今ごろ小大輔のもとへ、望まれない相手を導いていたことになる。
「左」と「右」、たった一文字の違いを、結は聞き分けられなかった。
指先が、冷たくなった。
それからというもの、戸の外に声がするたび、結の体はこわばった。名乗りを聞いても、誰なのか自信が持てない。案内するのが、怖くてたまらなかった。
数日後、非番の昼下がり。見かねた兵衛が、隣に腰を下ろした。
「そんな顔しないの」
「……はい」
「誰だって、最初は間違えるものよ。私だって、新人の頃はね」
「兵衛さんも、間違えたことが……?」
「あるなんてものじゃないわ」
兵衛は、苦笑した。
「”兵部丞”と、”兵衛尉”を聞き間違えてね。几帳の内側まで案内しかけて、先輩にこっぴどく叱られたの」
「几帳の内側まで……」
「ええ。あの時は生きた心地がしなかったわ」
兵衛は、遠くを見るような目をした。
「他の女房だって、似たようなものよ。声を聞き違えたり、場所を間違えたり。誰も、最初から出来たわけじゃない」
兵衛さんも。他の女房も。
みんな、失敗しながら、ここまで来たんだ。
そう思うと、強張っていた体から、少しだけ力が抜けた。
「明日からも、頑張ります」
「その意気よ」
兵衛は、結の背中を軽く叩いた。
急がなくていい。少しずつでいい。以前にそう思ったことを、結はもう一度、自分に言い聞かせた。




