第26話 宴の夜、御簾越しに 前編 (平安編 6)
「――結、ちょっといいかな」
声のした方を振り向くと、いつの間にかトキが局の前に立っていた。
「トキ? 珍しいね、来てくれるなんて」
「込み入った話だからね。ここじゃ、誰が聞いているかわからない」
トキは几帳の向こうへちらりと目をやった。
この時代、女房たちの耳は思いのほか良いし、誰にも見られていないと思っていても、誰かに見られていたりする。
「二人きりで話せる場所、どこかないかな」
結は少し考えて、屋敷の裏手にある小さな渡殿を思い出した。この時間なら、人通りもほとんどない。
***
誰もいない渡殿の隅で、二人は向かい合った。
結は自分の決意をトキに伝えてみた。
「結から、青き君に会いにいくの? ちょっと見ない間に、ずいぶん思い切ったことを考えるようになったね」
トキが、面白がるように笑顔で言った。
「うん。もしかしたら、ソウを思い出す時に怖いと感じているから、いつまでも思い出せずにいるんじゃないかなと思って」
言いながら思い出したことがあるので伝えた。
「あっ、そういえば、一つだけ思い出したんだけど。お正月に親戚が集まって、みんなで百人一首をしたこと。私は札を全て暗記していて、いつも読む役目だったこと」
「なんで、やっと思い出したのが百人一首なんだろう・・。まぁ、いいや。それで、ソウについてはどこまで思い出せた?」
トキが、興味深そうに尋ねてきた。
「え!?」
結の体が、固まった。
言われて初めて気づく。会いに行こうと決めたけれど、ソウについての記憶は何一つ、思い出せていなかった。
「ソウっていう、名前の響きだけ」
トキが、驚いたように目を見開いた。
「それだけ?」
「・・うん。それだけ。メソポタミアの時からあんまり変わってない」
自分で言って、初めてそのことに気が付いた。百人一首は全て思い出したのに・・。
「じゃあ、会ってどうするつもりだった?」
「・・・・」
考えていなかった。
「もう少し、思い出してからでも遅くないんじゃないか。ほとんど何も思い出せていない状態で、青き君には会わない方がいいと思うよ」
トキは、珍しく言葉を選ぶように、一つひとつ確かめながら話していた。いつもの軽い調子とは少し違う、丁寧な話し方だった。
「エジプトでも、言ったけど。ソウの事は結の記憶の大切なところだよ。自分で思い出した方がいい。誰かに、答えを教えてもらう事ではないよ。今の結だと、青き君が話す事が全て真実だと、そのまま信じ込んでしまいかねない。それじゃ、結自身の記憶を取り戻したことにはならないだろう」
トキは、結の顔を覗き込むように、優しい声でそう続けた。
結は、何も言い返せなかった。図星を突かれた気恥ずかしさと、それでも会いたい気持ちの間で、ただ項垂れることしかできなかった。
「俺からも話しとこうと思ったことがあって。青き君に、強く懸想をしている女性がいるそうだ」
結は、納得したように頷いた。
「青き君は、すごく格好良くて、博識で、人当たりもいいって聞いた……。青の君に恋をしてる女房って、たくさんいると思う」
そう言いながら、胸の奥がちくりと痛んだ。自分で言った事なのに、口に出すと胸が傷む。
「普通に懸想してるくらいなら、いいんだよ」
トキは、どう説明したものか迷うような顔をした。
「ただ、この時代には、生き霊とか呪いとか、そういうものが当たり前にある。結にはピンとこないかもしれないけど――生き霊っていうのは、人の強い感情、いわば心のエネルギーが、体を飛び出して、物理的な形を持ってしまったものなんだ。本人が、自覚して飛ばしてるわけじゃない」
結は、話についていけず、曖昧に頷いた。心のエネルギーと言われても、実感はまるで湧かない。
「まあ、わかりにくい感覚だよね。とりあえず、生き霊は本人も気づいていない。俺だって、気づけないことがある。そういう話だよ」
結は、眉を寄せて考え込んだ。強い想いが、勝手に体を抜け出すなんて。そんなことが、本当にあるのだろうか。
「全然、実感が湧かない……けど。それじゃあ、せっかく教えてもらったのに、私にできることはないよね」
「あんまりないね。でも、こういう事は知識として知っておくだけで、いざという時の心構えが変わって行くもんなんだよ」
「知っておくだけで、心構えが変わっていくの?」
「そうだよ。何か知りたいことはある?」
「それなら、私にできることがあるなら知りたい」
「いい心がけだね」
トキは、少し考えるように間を置いてから、話し始めた。
「まず一つ。生き霊に憑かれたら、部屋を締め切ることだよ。御簾や几帳を全部下ろして、外との繋がりを断つ。会わせる人も、口の堅い、信頼できる女房一人くらいに絞る。友達だろうと、想い人だろうと、他は誰も入れない。目や声で繋がってると、生き霊は居場所を見失わずに、居座り続けるからね」
「次に、匂い。生き霊が来ると、飛ばした本人の香の匂いが、うっすら部屋に残るんだ。だから、魔除けになるような強いお香――沈香とか、薬草の匂いが強いやつを、部屋でしっかり焚く。相手の匂いを、こっちの匂いで上書きしてしまえば、居座る足がかりを失う」
「最後は、体を温めること。生き霊に取り憑かれると、体が冷えて、食べ物の味もわからなくなっていく。だから、味がしなくても喉を通りやすい、温かい重湯や、生姜を煎じた温かい飲み物なんかを、少しずつでも口に入れさせる。体が内側から温まって、生きる力が戻ってくれば、それだけで生き霊を跳ね返せるようになるんだよ」
「今日、話せるのはこのくらいかな」
「隔離して、香を焚いて、温かいものを口に入れる……」
結は、忘れないようにと、一つひとつ声に出してなぞった。
「ありがとうトキ。知識として知っただけでも、本当に少し安心感がある。もしも、姫様に何かあってもすぐに気付けるかもとか・・・。今、そう思えた」
「それなら、良かった」
その言葉に、結は小さく頷いた。
***
大納言家からの歌会の誘いが届く、数日前のことだった。
姫君の使いで反物を届けに出た結の前に、見知らぬ女房が一人、声をかけてきた。
「あの……小夜さん、で合っていますか。私は月と申します」
歳の頃は結と同じくらい。生真面目そうな雰囲気、非の打ち所がない美しい顔立ちに、どこか遠慮がちな笑みを浮かべている。
月を見て名前聞いた瞬間、結の胸がドクンと跳ねた。
――この人を、知っている気がする。
会ったことはないはずなのに。うまく言葉にできない胸騒ぎだけが、静かに残った。
「はい、そうですけど……」
「突然、すみません。私、大納言様のお邸で、青き君にお仕えしている者です。」
その名を耳にした瞬間、結の心臓が小さく跳ねた。
「青き君に……」
「はい。近頃、お噂を耳にして。……小夜さんのこと、一度お話ししてみたいと思っていました」
月は、そう言ってから、少し慌てたように付け加えた。
「あ、変な噂とかではないですよ。ただ、なんというか……」
言葉を探すように、視線が泳ぐ。
――本当は、もっと言いたいことがあるのに、飲み込んでいるような。
結には、なぜかそんな風に見えた。
「初対面でいきなりお近づきになりたいなんて言ったら、警戒されますよね」
月は、困ったように笑った。
「でも、良かったら、また今度、ゆっくりお話しできませんか。小夜さんとは、仲良くなれる気がして」
「はい……私も、嬉しいです」
結が答えると、月はほっとしたように表情を緩めた。
「もし……小夜さんが、青き君にお会いになりたいことがあれば、いつでもおっしゃってください。私が、お取り次ぎしますので」
「あ……ありがとう、ございます」
結は、何と答えていいかわからないまま、頭を下げた。
今日会ったばかりの人に、こんなことをいきなり言われても、正直、戸惑いも警戒もある。
嘘をついているようには見えないけれど、すぐに全部を信じられるわけでもなかった。
だから――青き君に会いたいとか、取り次いでほしいとか、そういうことを頼むのは、今はよそう。結は、そう心に決めた。
※本作に登場する生き霊や平安時代の文化・歴史などの描写は、作者が独自に調べた情報に基づいています。できる限り史実に近づけるよう努めておりますが、一部に誤りや独自の解釈が含まれている可能性がございます。あらかじめご了承ください。




